皆様、バス酔いなど、クルマ酔いをされたことはあられますでしょうか?クルマ酔いとは、誰かの運転により、なるものです。
自ら運転をして自らの運転により、クルマ酔いになる方はおられません。
それは、なぜだと思われますか?
目的の経路に対してスピードの加速感、路面の凹凸などの刺激に対して調和を図ろうとしている意識があるからです。
誰かの運転ですと、そのような調和を図ろうとする意識は働きません。その違いにより、クルマ酔いをするかどうかの分かれ道が決まります。
自ら運転をして今に一生懸命、調和を図ろうとする姿は、まさしく仏教の中に出てくる「無所住心」(むしょじゅうしん)の教えに繋がります。 「無所住心」→特定のモノ、場所、評価、あるいは感情に心を縛られない(執着しない)状態。
さらに「無所住心」は、水が流れるように絶えず動き、変化するもの。何かに心を置く(とらわれる)とそこから迷いや苦しみが生まれるが、心をどこにも置かない(とどめない)ことでは、迷いや苦しみが薄れていく・・ことを説いています。
また、悩みや苦しみの火に薪を入れてしまう行為があります。それは、般若心経に出てくる「顛倒夢想」(てんどうむそう)という行為です。
「顛倒夢想」とは、真理とは逆の誤った見方をしたり、夢や妄想にとらわれて真実を見失っている状態を指します。
そこに仏教用語の「悪智」(あくち)が、加わることで、悩みや苦しみの囚われる精神世界の囚人化へと人は陥ってしまい苦しみから抜け出せなくなってしまうのです。
「悪智」とは、真実を自分の都合に合わせて曲げようとしたり、事実に対して言い訳をする行為です。
水は留まると腐りますが、私たちも留まって執着とこだわりを持ち続けますと、だんだん事実とは異なる妄想(顛倒夢想)と、それを正当化しようとする(悪智)が生まれて、生き地獄の沼へと引きずり込まれてしまいます。
生き地獄へと引きずり込まれない為にも過去や未来の事(予期不安)にこだわるのではなく、今、目の前にあることに一生懸命水取り組むことが結局は、悩み苦しみの解決へと繋がる近道となります。
悩み苦しい時こそ、今を一生懸命取り組める何か作業などをすると よろしいかと思われます。