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between two stools

between real and fake

狂ったようにLee Konitzばかり聴いている。Lennie Tristanoリーダーのlive at conficius restaurantばかり。Konitzのソロと曲の構成・展開を全て覚えてしまうまでは繰り返したい所存だ。

それでふと久しぶりに蛇池雅人さんを聴いてみて、それから山本昌広さんをあまり最近聞かなくなった理由を考えたりして(この人たちのことを自分は「静的アルト」と分類している。いわゆる「クール」系の一種だが、より現代的なアプローチをしている人たちだ。)、ふと、悟った。

俺は「静的アルト」側の人間ではない!!

「静的アルト」は非常に難しい芸だ。言うなれば引き芸。引き算の美学であり、あえて力を絞ることで逆に強くあらねばならない。
完全にハマっていなければ、ただの「降りている人」「抜いている人」になってしまいかねない。心の底からその歌い方をしなければならない(これはどんな場合でもそうだが、よりその難易度が高い気がする)

Jackie Mclean、後期のArt Pepper。そうだ、もともとはそこから入っているのだ俺は。真っ直ぐで、熱くて、それでいて無骨で無機質なサウンドが好きなのだ。何周も回って、その最大公倍数が初期のLee Konitzだから今聴いているのだと思う。

ところで、初期Konitzは「静的アルト」ではない。

思えば自分は決して、いわゆる「クール」系アルトが1番の好みだったわけではないのだ。
かと言ってエモーショナルで「ホット」なサウンドは苦手である。音がニコニコしてるのは好きじゃない。
かといって、冷笑でもニヒルでもない。
ストロングでストレートでシャープな演奏が好きのだ。言うなれば激しい形相の無表情である。

松井宏樹さんの演奏にいつ聴いても共感するのはそこなんだと思う。


何かに自分を投影して、自分もきっとコレなんだ、と思うのはひとつの決断だが、ときにそれは自分の本性とズレていることがある。
なんとなくうっすら、モヤモヤしていたことの正体がやっとわかった気がする。
自分は自分の出したい音がある。でもそれはきっと他の誰とも一致していないはずだ。

それでもKonitz初期というのはそれにかなり近いものだ。かといってこれを目指してはいけないと思う。何かを目指すのはやめよう。

コピーはする。それは勉強のためであり、新しい刺激を得るためだ。それに反応するのは自分の本性。コピーしたものにそのままなるわけではない。コピーと練習で自分自身が勝手に変化するはずだ。


というのが今日の自分の仮説。決断したり断定するのは誤りを含み得る。常に逡巡すべきで、「決断したこと」の奴隷になるべきではないとも思う。
これは國分功一郎(『暇と退屈の倫理学』)から学んだことだ。

ただ、今日はなんとなく、残業中の事務所のトイレで、ふと悟ってしまったのだ。

人は横道にそれたとき真理を悟るのかもしれない。

夕食後うたた寝をしてしまったこともあり、眠れないのでオードリーのオールナイトニッポンを聞いたり、本を読んだりしてようやく布団に入った。

でもまだ眠くならないので、こうして書き連ねている。


すっかり國分功一郎にハマっている。『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』を読み終わり、『はじめてのスピノザ』を読み始めた。

この人の名前を最初に知ったのも恥ずかしながらオードリーのオールナイトニッポン。どんだけリトルトゥースなんだと言われそうだが、最近若林がハマっている呪術廻戦は俺はハマらなかった。若林の推すものになんでもハマっているわけではない。でも結構好みであることは多いのだ。


國分さんの文体も、通底する信念や問題意識も非常に共感できる。このしんどい世でいかに生きていくべきか?を真正面から考え、ロジカルに説明してくれる人だ。彼の論理なのに、「我々」を主語に語り、読者をガンガン巻き込んで論を進めていく語り口がカッコいい。


こうして過ごしているうちにも夜が明けそうだ。でもこういう土曜日は時間の流れが緩やかで、大きく伸びている感じがする。まるで無限に時間があるように感じる。日曜は夜だけ予定を入れて、土曜日はその予定を楽しみにしながら徹底的に夜更かしする、という過ごし方も悪くない。


自分の中で「興味の対象がどのコンテンツに集中しているか」が周期的に訪れるのだが、ここ1年くらいずっと「お笑い期」だった。その前には「映画期」、さらに前には「ドラマ期」もあったが、ここへ来て「本期」がやってきた。

以前の「本期」は小説とノンフィクションがメインだったが、今回は思想哲学系。非常にしっくり来ている。

ウダウダクヨクヨ考えてしまうことがしょっちゅうだが、これまではそれを、「別の物語」や「ガス抜き」で誤魔化すような方向で気晴らしをしていたのかもしれない。それが小説ドラマ映画お笑いだった。

しかし思想哲学だったら自分の問題そのものに向き合える。やっと居場所を見つけられた感じがする。


そうなってくると急にSNSがノイズに感じられるようになってくる。他者の断片的情報を摂取するのがしんどい。心の中の「知らんがな」「もうええわ」がどうしても強くなってきてしまう。少し意図的に距離をおくべきかもしれない。


寝ます。


最近evernoteで毎日簡単なメモを書いている。日記になるときもあるし、未満なときもある。

以下の文は日記としてevernoteに書いた内容を、一般的な内容に置き換えた文だ。
もともとは、音楽の話だが、あまりにも生々しいのでコミュニケーション論に一般化してみたが、ちゃんと当てはまっている。

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いろいろな要素が奇跡的に噛み合って、コミュニケーションはようやく楽しめるものになる。
人によるだろう。
やすやすとマイペースに楽しめる人もいる。
自分の場合、ストライクゾーンはそれなりに狭い。だから決して、うまくいかなくても、相手を責めないようにしたい。
かと言って、自分が間違っているとも思いたくない。退屈させられたという事実は絶対で、不正解などない。


場のノリと自分が合っていないとき、そのまま合わない状態でじっと我慢するのがいいだろうか。
でもそれはあまりにも苦しい。

場のノリに合わせることはできる。でもそれは演技であり嘘をつくことに近い。心がすさむ。

場のノリをこちらに引き寄せるため誇張した自分を出す、というのもある。しかし、これはこれで罪悪感。暴力で場を掌握するようなものだ。しかも浮くだけである場合もある。

じゃあどうするか。

「糸口を探す」しかないのだろうと思う。

一見合わないけど、何か落とし所やきっかけが見つかることもあるはずだ。それをお互いに探っていくしかない。極端はダメだ。何事も、正解は中途半端なところにあるはずだ。

最近、少し頭が固くなっているようだ。
千葉雅也が「勉強の哲学」で言っているキモいやつになっていく過程なのか。
それは気をつけなければ。
そのうち突き抜けるはずだ。
突き抜けては潜り、突き抜けては潜る。
その繰り返しだ。
先に進んでいるのかも果たしてわからない。
それでも続けるのだ。
自分は天才じゃない。
ただ、好きなものへの偏愛と熱中、そしてそれに対する継続力と実行力はあるほうだ。
ほそぼそ、コツコツ、地味でもまじめに取り組んでいくしかないのだ。それが自分を確立するということなんだろう。
自分の平凡さに嫌気がさしたりもする。
それを受け入れるしかないじゃないか。
自分みたいな人が他人にいたら、好感もてないだろうか。
自分は、自分みたいな人がいたら、多分好きだと思う。
ひょいひょいスラスラなんでもできる超人よりも、無骨に取り組んでいるやつのが好きだ。
だったらいいじゃないか。
自分を恥じないように生きていこう。
それ以外ないじゃないか。