最近evernoteで毎日簡単なメモを書いている。日記になるときもあるし、未満なときもある。
以下の文は日記としてevernoteに書いた内容を、一般的な内容に置き換えた文だ。
もともとは、音楽の話だが、あまりにも生々しいのでコミュニケーション論に一般化してみたが、ちゃんと当てはまっている。
………………………………………………………
いろいろな要素が奇跡的に噛み合って、コミュニケーションはようやく楽しめるものになる。
人によるだろう。
やすやすとマイペースに楽しめる人もいる。
自分の場合、ストライクゾーンはそれなりに狭い。だから決して、うまくいかなくても、相手を責めないようにしたい。
かと言って、自分が間違っているとも思いたくない。退屈させられたという事実は絶対で、不正解などない。
場のノリと自分が合っていないとき、そのまま合わない状態でじっと我慢するのがいいだろうか。
でもそれはあまりにも苦しい。
場のノリに合わせることはできる。でもそれは演技であり嘘をつくことに近い。心がすさむ。
場のノリをこちらに引き寄せるため誇張した自分を出す、というのもある。しかし、これはこれで罪悪感。暴力で場を掌握するようなものだ。しかも浮くだけである場合もある。
じゃあどうするか。
「糸口を探す」しかないのだろうと思う。
一見合わないけど、何か落とし所やきっかけが見つかることもあるはずだ。それをお互いに探っていくしかない。極端はダメだ。何事も、正解は中途半端なところにあるはずだ。
最近、少し頭が固くなっているようだ。
千葉雅也が「勉強の哲学」で言っているキモいやつになっていく過程なのか。
それは気をつけなければ。
そのうち突き抜けるはずだ。
突き抜けては潜り、突き抜けては潜る。
その繰り返しだ。
先に進んでいるのかも果たしてわからない。
それでも続けるのだ。
自分は天才じゃない。
ただ、好きなものへの偏愛と熱中、そしてそれに対する継続力と実行力はあるほうだ。
ほそぼそ、コツコツ、地味でもまじめに取り組んでいくしかないのだ。それが自分を確立するということなんだろう。
自分の平凡さに嫌気がさしたりもする。
それを受け入れるしかないじゃないか。
自分みたいな人が他人にいたら、好感もてないだろうか。
自分は、自分みたいな人がいたら、多分好きだと思う。
ひょいひょいスラスラなんでもできる超人よりも、無骨に取り組んでいるやつのが好きだ。
だったらいいじゃないか。
自分を恥じないように生きていこう。
それ以外ないじゃないか。