2021年4月に読んだ本たち | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

このご時世だからこそ、トロピカっていきたいですね。

 

・隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたか』(星海社新書。星海社、2018年。)

狭義「社会」に出てから丸1年が経過したが、アカデミアから離れてみると「どうして日本社会では学問が尊ばれていないのだろう」という思いをぼんやりと感じたまま今日まで生きている。例えば、日本で一般的に言う「学歴」とは学校歴(〇〇大卒)のことであって、厳密な意味での学歴ではない(高卒・学部卒・修士卒とかそっちね)。少し前に友人と「日本社会における勉学および学問の位置」についてなんとなく議論したのだが、この問題は今年1年間のぼんやりとした探究テーマにしようと思う。

 

 

本書はその問題の足掛かりとしてずっと考えていた1冊。思っていた以上に名著だった。これだけ情報量が充実しており、かつ出典がきちんと書いてある新書を久しぶりに読んだなという印象。

 

 

タイトルの通り、文系と理系はなぜ分かれたかを科学史の方法論を中心に用いて論述していく。

まず西洋の事情について。現在の大学制度の原型は中世まで遡るが、その時代から今に至るまで、ものすごく雑に言うと「すぐには役に立たない学問分野が尊ばれ、すぐに役立つ学問分野はランクが一段劣る」という序列がヨーロッパ世界には伝統的にあった。その代表例が工学や農学で、こういう実学的な分野は大学で教育や研究がされるものというよりも、アカデミアの外で実践的に専門家を育成するものだ(今の日本で言うと、理容師・美容師・調理師・アニメーター・ゲームクリエイター・デザイナー・俳優・パイロット・機械技術者、他にも色々あるけど、そういう特定の職業分野に特化した専門学校という理解でいいのだと思う)という認識が長らくあった。だから、「世界で初めて総合大学に工学部を開設したのは日本の東京帝国大学でした。1886年のことです」(58)という話になっていく。

 

 

このような西洋一般の状況に対して、日本の大学の成立事情はかなり異なる。かなり乱暴に言ってしまえば「虚学重視、実学蔑視」みたいな発想法は全くなく、西洋に並ぶ近代国家の建設という最優先事項のために、むしろ実践的な学問が重要視された。東京帝国大学が成立した際、医科と理科に並んで工科も設置されたというのはこの文脈に拠る。それ以降日本では国家建設と産業振興に寄与する学問が重視される傾向が今も続いている。これは余談だが、たまにウィキペディアの「教養学部」を見てなんとも言えない気分になるのだが、今現在の日本で教養課程とは別に教養学部を置く国立大学は埼玉大学と東京大学しかない。

 

 

本書を読むまで、儲かって役に立つ理工系と儲からず役にも立たない人文社会系という意識は第1章・第2章で語られる欧米諸国と日本の近代化の比較の中で主に語られるのかと認識していたが、直接的に重要なのは第3章の「産業界と文系・理系」の内容だった。イノベーション政策1.0と2.0で展開される、科学技術研究がもたらすイノベーションが社会を変えるという発想法が直接的な根本要因なのですね、と、ここ50年くらいの研究と産業の動向を見ていく必要があるのだなと啓蒙された。加えて、欧米では博士号を持つ人材がなぜ産業界で重宝されるかというと、そのコネクションと実績によって他の優秀な人材と研究・開発予算を引っ張ってくれる可能性のある、ハイリスクだけどハイリターン要員だからというのも非常に「なるほどねい」という感じだった。だからアメリカでは企業がいっぱい奨学金を出して博士課程の学生の面倒を見てくれるんだな(日本からアメリカに博士留学するとなると、日本のどこかから奨学金をもらってないとなかなか研究室が受け入れてくれないという話はよく耳にしていた)。

 

 

最初の疑問に戻ると、結局のところ、新卒一括採用の文化が依然として残る日本と、新卒組も転職組も同じ土俵で戦わなければならない欧米諸国の就職の在り方の違いだったり、企業の人材育成が(比較的)充実しており、大学で学んできたこととは全然関係のない職に就くこともできるという日本ならではの企業文化だったりが、我々(俺とその友達)が感じている「日本社会では学問が軽視されている」傾向につながっているのではないかと思う。

 

ごく一部の専門職や研究職を除いて、文系にせよ理系にせよ、就職の際には大学で学んできた専門分野それ自体よりも、学業の中で培ってきた思考力・伝達力・マネジメント力といったソフトスキル一般の方が重視される傾向は、仕方ないと思うけどなんだかなあと思うところがかなりある。結構前だけど、人文・社会系の若手研究者たちの討論記事で、「今や大学で学ぶことが全般的にコンテンツ化しているのは問題ではないか」という話を読んだのが印象に残っている。歴史でも哲学でも文学でもなんでもいいけど、人文・社会系の学部では、その学んだ中身それ自体よりも、「ゼミで討論・発表した経験」であったり「問いに対して論を組みたてる論理的思考力」だったりの方が就活では重要になる。まあ、そういうソフトスキルが仕事に直結するよねというは1年働いてみた実感としてはその通りなんだけど、それを養うためには「第一次世界大戦と芸術の相互影響の歴史」だろうが「ヘーゲル哲学の批判の系譜」だろうが「村上春樹作品における『やれやれ』の語法」だろうが、「学んできたことや研究してきたこと自体はどうでもいいです」と言わんばかりに内容が捨象されてしまうのは普通に考えて変なことだとは思う。ここで、重要なこととして強調しておきたいのだが、これは人文教育が人格形成とほぼイコールのような現在の欧米一般の大学事情とはまた異なる。

 

 

第4章の「ジェンダー」の話と第5章の「学際化」の話もなかなか面白かったのだが、かなり長くなったのでいったんここまでにしたい。

これは図書館で借りたけど、久しぶりに付箋でいっぱいになる読書ができた一冊なので、そのうち買います。

 

・先崎彰容『100分de名著 吉本隆明『共同幻想論』』(NHK出版、2020年。)

NHKの「100分de名著」は結構好きな番組で、一時期は毎週リアタイしていた時期もあった。

本当は後述の『カードキャプターさくら』読解のために、2020年8月号の『モモ』を手に入れたかったのだが、とりあえず図書館にあった吉本隆明『共同幻想論』の回をなんとなく借りて読んだ。ぼちぼちよかった。

 

 

今月は「日本ってなんか学問が尊ばれる社会ではないよね」問題の端緒を語ったが、本書でも「『多忙な社会』である現在は、知識人の権威が地に堕ち、彼らは気の利いたコメントを即興で言える芸能人のような存在になってしまいました」「知識人の大衆化と、大衆の知識人化が進んでいる現状」(21)というなかなかクリティカルな文言が出てくる。この問題は、産業人や産業社会のみに責任があるわけではなく、大学や知識人の側にも責任があるのではないかとぼんやりと感じているが、「知識人の権威が地に堕ちている」というのはコロナ禍の現状においては思い当たるところ大である。

 

 

吉本隆明『共同幻想論』の問題意識が、敗戦体験に由来する「なぜ人は何かを猛烈に信じてしまうのか」というテーゼと、エンゲルスが語る経済的理由から国家権力が発生したという国家論(当たり前だけど、エンゲルスの国家論はあまりにも典型的なマルクス主義の階級闘争の議論でほへーってなった)に真っ向から対抗したというところはよく理解できた。だが、本書の核である「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」はなんだかわかったようなわからないようなという感じで、ポストモダン論を経由した今の地点から見ると、吉本の言う「共同幻想」というのは「大きな物語」とほぼ同義でいいのかという若干解像度が下がった読解をしてしまった気もしている。そういえば文化人類学や民俗学ってけっこう守備範囲外で、そろそろレヴィ=ストロースとか柳田国男とかをちゃんと読まないと駄目かなあ感がある。

 

 

他に印象に残ったところを雑多に書くと、芥川龍之介の自死の分析は迫力があった。彼の聡明な知性は、自らの出自であるところの中産下層階級の生活様式に安穏とすることを許さない。一方で、輸入文学の知性で武装し、異国の知性こそ自分の居場所とインテリ然とすることもできない。どちらの世界にも自分の居場所を見出せない芥川は、やがて二重の自己嫌悪の中で自死を選んでしまう。人は自らを適切に包括してくれる物語がないと生きていかれない。

 

・アリストテレース『詩学』・ホラーティウス『詩論』(松本仁助・岡道男訳、岩波文庫、1997年。)

年明けくらいからずっと取り組んでいた本書、とりあえずアリストテレースの方はなんとか読み切った。端的に言って、かなり難しい。原文自体の簡素さに対して訳註の充実具合は圧巻で、久しぶりに「ゴリゴリの岩波文庫読んでいるなあ」という読書だった。たぶん3割くらいしか理解できていないし、何度も精読しなければならない古典。

 

 

とりあえずまず、これは何千年も前に書かれたテクストだというのを常に意識しておく必要がある。例えば、頻繁に出てくるアリストテレースのいう「再現」を、「Representation」ですね、と安直に納得しちゃ駄目だよなとか思いながら註を見てみると、「これはミーメーシスの訳語で、要は模倣だ」という説明が加えられる。さらに、「ミーメーシスは『再現』(Representation)という訳語で統一したが、しかしこの語の本来の意味は『模倣・模写』であることを忘れてはならない」という非常に丁寧な指摘までついてくる。「Representation」は「Generally speaking, the use of one thing to stand for another through some signifying medium」(The Bedford Glossary of Critical and Literary Terms)であり、何かしらのシニフィアンを通過したものであるところの現実の再提示(僕はいつも、つまり写真ですって説明する)なので、ミミックとリプレゼンテーションは違う。写真は現実をまねているわけではなく、そのまま切り取って再現しているから……とごく一部を取り出して見てもこんな感じで、ギリシアの古典演劇をとりまく環境と現代の我々の文化環境の違いを常に意識していないと読み違える可能性が高い。

 

 

その上であえて雑に引っ張ってみると、第13章の指摘など、「これほんとに書かれたのは2000年以上前か?」という感じのがあったりもする。

アリストテレースは悲劇の組みたてとして、「めっちゃ良い人でも悪い人でもなく、ほどほどの普通の人が、その人の卑劣さとか邪悪さのためではなく、なんらかの過ちによって幸福から不幸に転じなければならない」とこんなことを言っている。この枠組みはざっくりとしているもののかなり強力で、ものすごく解像度を粗くすれば村上春樹の小説は大体全部このパターンに当てはめられるであろうし、「どうして普通の僕がこんな目に遭わなければならないんだ」というパターンの物語なんて掃いて捨てるほどあるだろう。

 

 

あとは、デウス・エクス・マーキナーってこの時代からあったんですね、とか。ここも註で丁寧に「ギリシア語ではテオス・アポ・メーカネースです」という説明がつく。自分はギリシア語もラテン語もわからないので、原典を踏まえた訳註を丁寧につけてくれているこの本は大変ありがたい(まあだから読み進めるのが難しいのですが……)。そういえば、この訳者の世代は、自分の先生の先生くらいの世代になると思うんだけど、この辺の人たちの研究ってなんか凄まじかったんだよな。

 

・CLAMP『カードキャプターさくら クリアカード編』(10)

(C)CLAMP・ShigatsuTsuitachi CO.,LTD./講談社

 

6巻あたりから漫然と読んでいてよくわからないなとなっていたので、ここ2週間くらいで「クリアカード編」の1巻からかなり気合いを入れて読み返し、研究メモをとりながら丹念に精読した。そのおかげで、今回の10巻での展開はかなり高い精度で理解ができ、結末の展開に「あ~わかりますよ!!」となったのには思わずにやけてしまった。というか、ストーリー解釈ではなくストーリー理解のレベルでもこれくらいきちんと読まないといけないのは、「クリアカード編」が殊更難しいのか、それとも一般的なストーリー漫画を読む体力とスキルが自分に足りていないのか、一体どちらなのか。

 

 

さて、ここしばらくはなんだか停滞している感もあり話が進んでいかないところにもやっとしていたのだが、今回の巻数でかなり話が進んだという印象がある。12巻で完結できそうな雰囲気が出てきたとも思う。

 

 

今回の精読で改めて強く思ったのは『カードキャプターさくら』はとことん血縁の話だなということ。本作に登場する魔法が使える人たちは、みんな特別な血縁に由来しているから魔法が使える。さくらは(漫画版では)ストレートにクロウ・リードの血縁者であるし、小狼は李家の次期当主だ。一方で、秋穂は「血族全員が魔力を持つ『欧州最古の魔術師達』」(6巻)のとりわけ期待のかかる子孫でありながらも、魔力が一切ないために改造を施された「魔法具」でもある。というわけで、やはり『CCさくら』は特別な子供たちの運命の物語であるというのは、本作の理解の上で決定的に重要だと僕は思う。

 

 

とりわけ「クリアカード編」は「二人のアリス」と名指されるさくら・秋穂の物語であるが、彼女たちの母親は彼女らが生まれる前に2回出会っている。今回の最後で時の魔法が発動したが、あのさくらが受け継いだ撫子の「時計」に魔法をかけたのは秋穂母だったんですね、そういえば(8巻、52-57)。そんで、秋穂母は「私のアリスとあの子のアリスをみていてあげてね」と言いながら、指輪をモモの左耳に託している(8巻、143)このようにして、今回のラストの「時計に『動くこと』を許されたのは貴方と私だけ」という展開につながっていく。これが今回の精読の成果です。

 

 

もう一つ重要だったのが「月がとても綺麗だから」で、これは漱石の『夢十夜』を前半で意味ありげに引いていたところと関連する。『夢十夜』自身の間テクスト性も重要かもなあと思っていたが、こういう形でも伏線を回収できるんだなあというところは素直にうまいなと唸ってしまった。まあ、漱石が「I Love You」を「月が綺麗ですね、とでも訳しておきなさい」と語ったというのは俗説・伝説の類であり、今回ちゃんと調べようかなと思って手始めに検索したらしょうもないサイトしか出てこなかったことに辟易として早々に辞めてしまったのだが、それだけこの「漱石の名訳」が人口に膾炙しているという事実自体が重要であったりもする。加えて、『CCさくら』で久しぶりに超ド級の甘々なシーンだったのもあり、非常によかった。これ、さくらちゃんの星のトンネルのシーンと意識的に対比していますよね。ちょうどあっちも10巻だったし。

 

 

総括としては、やっぱり『カードキャプターさくら』めちゃくちゃ面白いですね。自分の根幹を作り上げた作品の1つでもあるし、結構きちんと読んで考えてをする価値と意義のある作品だなと改めて。これから色々な出会いを果たしていく女の子たち(もちろん男の子が読んだっていい)にも遍く読み継がれていくべき、児童文学的な名作じゃないかと思っている次第です。