2020年11月に読んだ本たち | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

毎年思うけど、クリスマスとかでせかせかしているせいか11月ってあっという間に終わるよな。

(最近仕事がどちゃくそ忙しいので+αは省略します)

 

・入間人間『やがて君になる 佐伯沙弥香について(2)』(KADOKAWA電撃文庫、2019年。)

 

イラスト:仲谷鳰 (C)KADOKAWA CORPORATION 2020

 

通称「ささつ2」。小学生・中学生時代の佐伯沙弥香について描かれていた1巻に続き、高校1年生のときの燈子とのやりとりに始まり、最後は大学生時代の陽への出会いで締めくくり、第3巻へと続いていく。

 

「ささつ1」を踏まえながら『やが君』本編をざざっとラップアップする「恋と、小糸」の章がすごくテンポと手際がよくていいなとなったばかりに、メインである「平行線」の進行が重ためになってしまったのが少しもったいないと感じた。

 

沙弥香さん視点から物語で起こったことを眺めると、まあ七海先輩は厄介だなというのが改めてよくわかる。急に燈子さんが小糸さんのことを下の名前で呼び始める場面は、思わず「ひぃや~~」と変な声が出てしまった。修羅場すぎる。

七海燈子のすべて。

見えていない、見せようとしない弱さ汚さ卑劣さ劣等感嫉妬トラウマ本音建前嫌悪憎悪卑屈自己否定偏愛性癖敵意悪意その他多数の後ろ暗いものの数々。

確かにそれらすべてを覗いてしまえば、彼女への真っ直ぐな感情がずたずたに引き裂かれるかもしれない。それらは私の本当に知りたい、踏み込みたいものなのかも分からない。

……だけど。

今は、その背中を追いかけて歩いている。(93-4)

七海燈子が内面に抱える人間としてあまり見せたくないものを列挙していく手法が、ラノベに特有の表現技法な感じがしてよかった。この列挙は確かもう1回出てくるが、字面としてのインパクトが大きく効果的に思える。

 

・佐藤優『いま生きる「資本論」』(新潮社、2014年。)

少し前に読んだ『武器としての資本論』が少し物足りなかったこともあってか、今月はマルクス経済学関連の入門書を2冊読んだ。

なぜマルクスに関心があるのかというと、それはもう自分が今年から労働者になったからに他ならない(社会人という言い方は個人的には好きではなく、労働者の方が適切だと自分は思っている)。学生のときはこんなにマルクスに関心を持っていなかった。実際に賃金をもらって労働をする立場になると、自分の身を守るためにも、人生観をアップデートするためにも、資本主義のシステムをもっとわかっておかなければならないという使命感のようなものを感じている。

 

これまで佐藤優はなんとなく敬遠していたのだが、今回初めて読んで大変面白いし勉強になるということがわかった。西欧の古典を読んだら東洋の古典も読んだ方がいいという提言は確かにその通りだという感じだし、文学も思想もヨーロッパのものばかり読んできたから身につまされるものがある。

 

本書は『資本論』の解説それ自体も優れているのだが、日本でどのようにマルクスが受容され研究が発展していったのかの話が詳しく述べられている点が非常に優れている。第一次世界大戦後、大正時代の頃に日本では近代化がぐっと進み、教育の層が広がったために教員が急激に必要になった。ヨーロッパに留学するとしたら、戦争に負けたドイツに行くのが一番安くあがる。で、当時のドイツはマルクが暴落しており、ひどい不況であったから、マルクスの影響が強い。そんなドイツから帰ってきたマルクスにかぶれた青年たちが、日本のアカデミアで影響を発揮するから、社会科学系がマルクス主義者に席巻されることになった(19-20)。

 

本書では宇野弘蔵と柄谷行人がよく出てくるが、彼らのようなマルクスを「資本主義を解き明かす理論的体系」としてアプローチしていく解釈と、共産党が代表する、マルクスを革命の本として受容し、正義やイデオロギーを込めて扱う解釈の二つの流れがある。前者をマルクス経済学、後者をマルクス主義経済学と呼ぶらしい(32-4)。後者は『資本論』を教典として扱うためにマルクスを宗教にしてしまうので、著者は批判的な立場にある。個人的にもそう思う。だが、前者の立場も現時点ではかなり力を失っている。というよりも、マルクス経済学それ自体が退潮しているらしい(91-4)。それを思うと、また留学時のUniversity College Dublin の話になるのだが、2回生必修の「批評理論」でまずマルクス主義の核をわからせ、マルクス主義の課題でフェミニズムの観点からマルクスを批判するエッセイを読ませ、最終的にインターセクショナリティの話に着地させるあの授業はすごかったなと思い返す。

 

あと個人的になるほどと思ったり引っかかったりしながら読んだところは、著者のポストモダン思想に対する態度。議論の最初で「自分はポストモダンとバブルの時代に日本を離れていたから知らない」という話から始まり(11-3)、基本的にポストモダン思想に対して反対する意見が散見され、うーんどうなのだろうと思いながら読んでいたのだが、以下のようなことを言ってたりもする。

ポストモダン以前は、資本主義とか社会主義とか、大きな物語がありました。しかしポストモダンは、社会主義がそんなに素晴らしいものなのかと疑って、小さな差異を見ていくことで大きな物語を批判する。これは大きな物語がまだ生きているうちは有効性がありました。

 ところが、社会主義をはじめ、大きな物語がどんどんなくなってしまった。そうしたらドゥルーズとかデリダとかフーコーを誰がいちばん熱心に読んでいると思います?電通と博報堂などの宣伝屋さんたちですよ。のっぺりした世界からいかに小さな差異を見出して、そこに価値を創り出していくか。彼らには職業上、そんな実用性があったわけですね。大きな物語がなくなった後のポストモダンというのは、新自由主義の中に漂流しちゃった観があります。

 それともう一つの問題は、人間はどうしても物語を作ってしまう動物なんです。そうすると、大きな物語が欠けたところに、到底これまでは見向きもされなかったような稚拙な物語が入ってくるのです。すると、これまで知的な訓練を受けてきた読者には洟も引っかけてもらえなかったような稚拙な物語が、あたかも大きな物語として我が物顔で振舞うようになっちゃう。いろいろ思いあたりませんか?これは危険ですよ。(55-6)

ポストモダンを「差異の戯れ」と一言でまとめてしまうのは危険だと思っているし、本当か?という見方も出てくる(175)。

だが、筆者はポストモダンと無縁ですと言っているわりには、ポストモダン思想のこともちゃんと勉強したうえで批判していると感じた。その辺をもう少しわかりたいから、もっと筆者の本を読んでみたい。

 

・的場昭弘『一週間de資本論』(NHK出版、2010年。)

先述の佐藤優よりもベーシックな入門書という趣。

 

商品の二重性(モノには使用価値と交換価値の二つがあります)、労働力商品化(8時間の労働に対する賃金は4時間分の労働力で事足りています、その差額は労働者から搾取されていて資本が増えます)、利潤率の傾向的低落の法則(機械を導入することによって剰余価値が得られますが、他社も追随してくるのでこの価値は頭打ちになってきます)、資本の文明化作用(賃金が上がることによって労働者は消費者となり、資本主義レジームの中にさらに包摂されて資本主義は強化される)などはなんとなくわかった気がする。ざっくりした理解なので間違っていたら言ってほしい。

 

 

本書を読んでいて一番「ああなるほど」と思ったのが、資本は国家を超えるが貨幣は国家がないとできないという話で、国家という枠組みは資本主義に歯止めをかける仕組みとしてもあるというのは、言われてみると確かにと啓蒙された。僕はもうAmazonに魂を売ってしまったのですが、ほんとグローバル資本主義はどうなるんですかね。

 

 

本書には著者と有識者による対談が4つ収められているのだが、その中の1つにある「労働者の間で足の引っ張り合いをしがちだけど、上には本当の敵がいる」という某有名な経済アナリストの発言にはドン引きした。いまどき資本家 vs. 労働者という枠組みで『資本論』を読むことに果たしてどれだけの意義があるのだろう、と個人的には思う。いまさら階級闘争なんていつの時代の話をしているんだ。そもそも敵と味方の単純な二項対立図式の世界観で捉えるのはあまりにも貧しいからとっとと卒業してほしい。

 

 

まあ、マルクスがそのような意図でもって『資本論』を書いたというのは事実であるし、そのような受容のされ方をしているのもそうなのだが、ソ連的な『資本論』読みは失敗したのだということはもう自明の公理としてほしいし、それでも現代においても『資本論』は意義があるのだという方向性で読みを深化させていく方が実りがあると自分は考える。

 

・仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』(講談社現代新書、2009年。)

ちょっと前に読んだ村上春樹にハンナ・アーレントがよく出てきたのと、仲正さんの本を読んだのもあって、久しぶりに再読した1冊。

以前は「陳腐なる悪」についてのところをよく読んだが、今回は『人間の条件』を中心とした政治の話を興味深く読んだ。

 

 

マルクスは人間の本質的な行動を「労働」と措定したが、アーレントはマルクスの見解を批判し、「労働」ではなく「活動」を人間の本質と見なす。この基調路線に則って、古代ギリシアのポリスを理想状態に「自由」「政治」「人間」を定義していく。

 

「アーレントは、各人の『自由』を、ポリス的な意味での『政治』と一体のものとして考える。単に他人の権利を侵害しないというだけでなく、『政治』や『公共善』に関心を持ち、『公的領域』での『活動』に従事することを通して初めて、『自由な人格』として他の市民たちから認められるようになる。単に、誰からも物理的な拘束を受けていないというだけなら、野生の動物と同じであり、それはアーレントにとっての『自由』ではない。『自由』は、『活動』を通して生み出される、人と人の『間』の空間の中にこそあるのである」(118-19)

 

アーレントの「人間」の定義は現実的には相当手厳しいと感じていて、自分の身の周りのことしか考えておらず、自分の手の届かない領域についても思案を巡らさないような人は人間ではないという話は、現代日本に生きる忙しい人々の多くが疎外されてしまいそうな感じがする。加えて、経済と政治が一体化してしまった現時点の状況においては、アーレント的な理想的な政治はあまりにも現実的ではないとも思う。そもそもギリシアのポリスで政治に参加できたのってほんの一握りの人たちだけだし、生活をするために必須な労働その他は奴隷にアウトソーシングしていた社会だったわけで。まあこの辺の議論は『人間の条件』を読んだときにまたできればいいかな。

 

 

とはいえ、自分は基本的にアーレントを信頼している。それは、本書において仲正さんが強調するように、アーレントがわかりやすい解答を提示してくれるのではなく、自分たちで考えることを強制してくる思想家であるからだ。単純明快な一つの回答に回収されていくのではなく、考える続けることがもたらす苦しみを受容しながら、それでも粘り強く考えていく柔軟さや強靭さを磨き上げていくためにも、アーレントは読まなければならないと自分は考えている。