2020年3月に読んだ本たち+α | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

「責任をとらなくてもいい主体を人は『自然』と呼ぶ」(多和田葉子「彼岸」『献灯使』)

 

 

・多和田葉子『エクソフォニー──母語の外へ出る旅』(岩波書店、2012年。)

今月の多和田葉子。大変素晴らしい本だった。いまの世界の言語の在り方を考える上で必読の一冊。同じような方向性の本に水村美苗『日本語が亡びるとき──英語の世紀の中で』もあり、こちらも必読の一冊なのであるが、多和田の方が明るくて面白くて楽しい。だから悲観的な様相を提示している水村の方は、なかなか読み進められていない。

 

これまでも「移民文学」とか「クレオール文学」というような言葉はよく聞いたが、「エクソフォニー」はもっと広い意味で、母語の外に出た状態一般を指す。外国語で書くのは移民だけとは限らないし、彼らの言葉がクレオール語であるとは限らない。世界はもっと複雑になっている。(3)

 

それにしても、エクソフォニーという言葉は新鮮で、シンフォニーの一種のようにも思えるので気に入った。この世界にはいろいろな音楽が鳴っているが、自分を包んでいる母語の響きから、ちょっと外へ出てみると、どんな音楽が聞こえはじめるのか。それは冒険でもある。(7)

 

母語の外に出る「エクソフォニー」という言葉を手掛かりに、縦横無尽に言葉について書き散らしていく。このエッセイを通じて、筆者にとって「言葉」とはどこまでも「他者」である一方で、とても敬意を払っている最良の「友人」であることがよくわかる。これは、言葉をただコミュニケーションのツールとしてしか見なさない表層的な言語観とは一線を画している。

 

人はコミュニケーションできるようになってしまったら、コミュニケーションばかりしてしまう。それはそれで良いことだが、言語にはもっと不思議な力がある。ひょっとしたら、わたしは本当は、意味というものから解放された言語を求めているのかもしれない。母語の外へ出てみたのも、複数文化が重なりあった世界を求め続けるのも、その中で、個々の言語が解体し、意味から解放され、消滅するそのぎりぎり手前の状態に行き着きたいと望んでいるからなのかもしれない。(157)

 

文学を研究する意義とは、普段我々が何気なく使っている言葉の本質を暴くことに他ならないと思うのだが、それは言葉に対して注意深く向き合い、敬意を払って尊重することが前提になければならない。「意味」から解放された「言葉」というものはあるのかどうか、自分にはよくわからない。ただ、これを読んだときに、アイルランドで中国語を勉強した際にヨーロッパの人たちが漢字に対してすごく前のめりになっていたのを思い出した。自分の知らない「言葉」の文字を見たときの異質な他者性というのを考えたら、「意味から解放された言葉」というのもわかるような気がする。

 

・村上春樹『アフターダーク』(講談社、2004年。講談社文庫、2006年。)
今月の村上春樹。別にコーナーを設けているわけではないが、実際として1か月に1冊春樹を読んでいる。面白いから仕方ないね。

結構よかった。俺は好き。1995年以降の春樹は何読んでも面白いと個人的には思う。数日でパーっと読み終わってしまった。

 

冒頭に出てくる高橋の喋りがあまりにも春樹的なそれだったのでうげぇとなって一度投げかけたのだが、きちんと読了出来てよかった。高橋ごめんな。お前は悪いヤツじゃなかった。マリと短絡的にセックスしなかったし。対して、本作の「悪者」(と呼ぶべきではないと思うけど)である白川が中国人の娼婦に乱暴した理由は明かされない。そういうことをする人物にはとても見えないが、「そうしないわけにはいかなかった」らしい(121)。ここは高橋の裁判傍聴の挿話にそのままつながっていて、とんでもなく悪いことするのがどうにも悪いヤツに見えないということに関連している。まさしく「陳腐なる悪」(ハンナ・アーレント)だ。

 

本作の主題はこちら側/あちら側の境界にある。

しかし裁判所に通って、関係者の証言を聞き、検事の論告や弁護士の弁論を聞き、本人の陳述を聞いているうちに、どうも自信が持てなくなってきた。つまりさ、なんかこんな風に思うようになってきたんだ。二つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかもしれないぞって。もしあったとしても、はりぼてのぺらぺらの壁かもしれない。ひょいともたれかかったとたんに、突き抜けて向こう側に落っこちてしまうようなものかもしれない。というか、僕ら自身の中にあっち側がすでにこっそりと忍びこんできているのに、そのことに気づいていないだけなのかもしれない。(141-42)

本作ではその境界線の象徴的アイテムとしてテレビがあるが、これは『神の子どもたちはみな踊る』の各短編において、震災で半壊した神戸の姿がテレビに映されていたという描写と共通している。我々が暮らすこちら側の世界とテレビが映すあちら側の世界は地続きではないと思いがちで、そのことは今COVID-19が世界中で猛威を振るっているのが現実的な事実であることはみんなわかっているのに、どうにもそれが私たちの個人的な<世界>においては現実感をもっていないことが、具体例としてすぐに思い浮かぶ。その是非はともかくとして、正直言って自分はCOVID-19の脅威は対岸の火事程度のリアリティしか今のところ感じられていない。

 

しかし、そうではないのだとこのテクストは提示する。このことが最も鮮明なのはクライマックスの場面で、何気なく入ったコンビニでふと目についたケータイを手に取ってしまったという偶発的出来事によって、高橋は自分の発言のフラグを回収したかのように、いとも容易くあちら側とのつながりをもってしまう。もちろん高橋は何も悪いことはしていない(中国人を殴打したのは高橋ではなく白川)。でも、「逃げ切れない」と告げられることで一生消えない呪いをかけられてしまった。この辺の意味を真面目に考えだすとめちゃくちゃ怖い。


そんな気の毒な高橋くんはいったんわきに置いといて、本作を浅井エリとマリの姉妹の物語で捉えてみると、明るい結末が示唆されているように感じる。最後の夜明けによって闇から光へと移り変わることが示唆されるのはベタだけどいいなあと思ってしまった。高橋とマリの会話の中に眠り姫の挿話を入れることで、最後の姉妹間のキスへとつなげているのもいい。姉妹が幼少期に一度だけ達成できた精神的な接触(エレベーターに閉じこめられた挿話)と、今回改めて行われる身体的な接触(眠り姫となったエリへのキス)。自己と他者が一つになるのに、セックス以外の方法も当然ありますよねというのを提示しているのは大変よかったと思います。……これを思うと『1Q84』「Book 3」の天吾と青豆の結末が改めてとんでもなく駄目に思えてくるな。

・斎藤真理子編『完全版 韓国・フェミニズム・日本』(河出書房新社、2019年。)
3月上旬に韓国に卒業旅行に行く予定だったのだが、このコロナウイルスの影響でやむなく中止に。結局1月の弾丸ロンドン旅行が卒業旅行になってしまった。その代わりというわけではないが、前々から気になっていた韓国文学に触れる。この『文藝』は文学界隈でだいぶ話題になったのでずっと気になっていた。

 

とりあえずチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』を読まなければならないということがよくわかった。そんなに話題になっていたのに全然知らんかった……。

収められた4編の短編小説はどれも読んでいて考えさせられる名品が揃っている。気楽に読める感じではないが、決して読みにくいわけではなく、韓国社会のリアルな息遣いを感じられる。特にパク・ミンジョン「モルグ・ジオラマ」が衝撃的だった。テクニカルに構成されつつも、ストレートにズバっと切り込んでくる。

 

テーマは「フェミニズム」ということで、男/女によるジェンダーロールの在り方は日本と結構違うんだろうなあと思った。男に関しては徴兵制がすごく大きいんだろうという印象。徴兵されたら耐えられないと思う。

 

本書に限らず、フェミニズムの勉強をしていると、正直言って「男でいてすみません」という気持ちになってしまう。多分これはよくなくて、フェミニズムの本質からも外れていると思うんだけれども、それでも、素朴に男でいることの罪悪感のようなものを感じてしまうし、自分のこれまでのあまりよくなかった女性遍歴とかも突き付けられる感じがして、なんだかへこむ。どうすればいいのだろうか。フェミニズムの話をするのが大体が「女性」であることも問題だと思っている。性別が相対的であることをきちんと踏まえて、女性が女性性を語るならば男性も男性性を語るべきだと思うし、その逆もあって然るべきだろう。そもそも男/女という二項対立がおかしくないですか?と言ってもいい。とにかく私はもう「男/女」というでかい主語で始まる言説を嬉々として語ることをやめたいと思います。

 

もう一つ。日本と韓国のファンの反応の違いを綴った、渡辺ペコ「推しとフェミニズムと私」が興味深かった。固有名は書かれていないものの、「ああ、あの人のあれですね」とわかる書き方も政治的。そしてそのコラボレーションに対する猛烈なバッシング。「趣味は政治である」(スーザン・ソンタグ)というのがよくわかる一例です。


・川合亮平監修『「きんいろモザイク」と英語レッスン』(KADOKAWA/中経出版、2015年。)
きららオタクとしてずっと押さえなきゃなあと思っていた『きんモザ』、イギリス研究コースとしても必修だった。いっきに1期、2期ともに観た。

第1期・第1話のAパートで映される看板のフォントを見ただけでわかるロンドン・ヒースロー空港。ヒースローからヒースロー・エクスプレスに乗ればすぐにパディントン駅に着き、そしてパディントンから国鉄に乗ってイングランドの田舎へ。アニメ内のわずかな描写だけでも手に取るように旅程がわかる。画面全体に描かれるコッツウォルズの風景。イギリスの田舎っていいんだよな。いますぐにでも行きたい。

 

本書は『きんモザ』1期で登場した英語台詞を採り上げながら英会話や英文法のポイントを解説した一冊。文法的な説明は結構きちんとしていて、なんちゃって英会話本とは一線を画している。あとはコラムもよい。特に「イギリス」「英国」「UK」「イングランド」など混同しそうな言葉を一つ一つきちんと説明している箇所がたいへんよかった。これは英国に興味を持っている人みんなに読んでもらいたい。『きんモザ』オタクとしても英語ガチ勢としても大満足の一冊です。

・原悠衣『きんいろモザイク』(1)-(10)
というわけで原作も一括購入。というのも、近所にある古本屋の一部が閉店するということで、『きんモザ』の2巻から7巻までが1冊100円で売っていたからである。まーた家の本棚にまんがタイムきららコミックスが増えてしまった。

 

原作も良いのだが、やはりアニメ化に際してものすごくよくなっていたのだなあということが一つ。第1話Aパートでの気合いの入ったイギリスの描写もそうだし、CoCo塾監修のイギリス英語をきちんと話しているアリスとカレン。演者の二人がもともと英語が相当堪能であったことに加え、イギリス英語の発音訓練をかなりちゃんとしたのではないかと思う。学部以降こういう英語をたくさん聞いてきたもんなあ、という感じ。何をもって「イギリス英語」とするのかは諸説あると思うが、全体的に乾いて聞こえる、特に[k]の発音が乾いて聞こえるところにひとつ特徴があるような気がする。自分はイギリスで聞く英語が一番聞き取りやすい。パリからロンドンに行ったときに、ほぼ何もわかっていないフランス語から最高に明瞭な(だと自分は感じる)英語の世界に行ってすごくほっとしたのをよく覚えている。

第1期・第1話と並んでお気に入りなのは第2期・第7話のBパート。アリスとカレンの回想の話でほぼずっと英語で進行する。"Preparation and reveiw are important, though."(でも予習と復習は大事だよ)とか"ツー and カー. That's Japanese all-purpose password."「ツーといえばカー。これが日本の合言葉だよ」など、ほんとすこ。

 

全然原作の話をしていない。アニメの勇も好きなんだけど漫画の方が好きかも。髪の毛の色かなあ。アニメでは忍も勇もちょっと緑がかっている感じがするが、原作では正真正銘の黒髪。あと姉妹って感じが漫画の方が強いかもしれない。好きなものに一直線な妹を少しうらやましく思っている姉の感じ、すこ。そういえば3月末で完結するらしく、恐らく次の11巻で完結するのかなあ、と。早くイギリス旅行編が読みたい。

・あfろ『ゆるキャン』(10)
『ゆるキャン△』の刊行ペースが思いの外早くてビビる。

綾ちゃんとの挿話、彼女が初登場したのは4巻、5巻あたりですかね……すみません、まだ読んでないです……となった。うちには1巻と6巻以降があり、2-5巻がない。4月中には買い揃えます。

ぽんぽんキャンプ行くじゃんか、というのが素直な感想。キャンプを題材とした漫画なのだから当たり前なのだが、僕はボーイスカウトをやっていたときにキャンプは1シーズンに1回行けば充分だと思っていたので、こんなにハイペースでぽんぽんキャンプに行くこと自体がすごいなと思う。でも本当に好きで好きでしょうがないことってそんなもんですよね。そうそう、静岡の秘伝のハンバーグって「さわやか」だよな。

・Quro『恋する小惑星(アステロイド)』(3)

『恋アス』についてはアニメ版を中心に作品論を準備中ですので少々お待ちください。なのでここでは簡潔に。

かなり真面目に地学を扱った作品だよな~と思っていたら、とんでもなく百合作品でもあった。あちこちで女の子たちがいちゃいちゃしている。すげえな。『コミック百合姫』か。

あおの転校をどう扱うのかなあと思っていたら、同居というとんでもウルトラCが飛んできたのに衝撃。「作者はどのように物語展開をしたいんだろう」とか考えていたのが馬鹿みたいだ。

 

・山口つばさ『ブルーピリオド』(5)

「マンガ大賞2020」受賞、まことにおめでとうございます。

実際のところ、めちゃくちゃ面白い。大好きっていうほど気に入っているわけじゃないし、一気読みしてしまった僕の先生ほど熱心にハマれているわけじゃないけど、面白い。こういうマンガもきちんと読まないと駄目だよなと思う。

 

5巻では1次試験から2次試験までの間の挿話が描かれる。メインはユカちゃんとの小田原の挿話。海の青。そういえば彼の絵の目覚めは渋谷の朝の青なので、彼が海に来なければならなかったのは物語的な必然性があるということになる。

 

身体性。作者がユカちゃんを通して描いていることはめちゃデリケートなのであまり迂闊なことは言えないが、「溺れている人がいたら救命道具は持っていくけど海には飛びこまない」という八虎くんへの評価は、八虎という人間の本質を的確に捉えた、ナイフのようにとんでもなく鋭い言葉である。その一方で「俺くらいやれば多分大抵の人間俺よりできるようになるんじゃね?」という発言(これは東大生が自分のことを「一応東大です」って言っちゃう心理と一緒ですよ)に対して、「意外と人間なんだな」と返すあたり、ユカもまた八虎の本質を見抜けていなかったということを表している。こういうところがいい。あと「どうして飛びこんでくれないの?」というユカの発言の真意を見抜けないあたり、八虎くんもまだまだ子供なんだなって感じる。大人っぽいけど、まだ18歳だもんな。まさしくブルーピリオド(「青の時代」=青春)。

 

巻末、みんなで昼食をレコメンドし合うという「美大受験メシ」の挿話にやられた。こういう描写での個性の付け方、天才かよ。ごてごてした言葉を積み重ねることだけでキャラクターを造形しようとする脚本家は遍く見習ってくれ。

 

+α

大学院の修士課程を無事に終了しました。これで名実ともにマスター(Master)です。こんな世相ですが、一応無事に卒業式が挙行されてよかったという感じです。

これにて晴れて社会人となったわけですが、このブログでやっていくことは何も変わらないので引き続きのご愛顧をよろしくお願い申し上げます。