社会批評としてのプリキュアの語られ方――『HUGっと!プリキュア』総評に代えて | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

はじめに:『HUGっと!プリキュア』の物語を見いだした瞬間

(注:筆者は『HUGっと!プリキュア』に対して全体的に否定的な評価を下していますので、本文にはときおり辛辣な表現が見受けられますことをあらかじめご了承ください。でも最終回はめちゃくちゃよかったと思いました。

「『HUGっと!プリキュア』は最高の作品だったし否定的な意見などあり得ない!」とお考えの方はブラウザバックを推奨いたします。)

 

 

第48話「なんでもできる!なんでもなれる!フレフレわたし!」という最終決戦のクライマックス回で、一番印象に残ったのはOPテーマ・イントロのはなのナレーションでした。

 

 

「なんでもできる!なんでもなれる!輝く未来を抱きしめて!フレフレみんな!フレフレわたし!行っくよー!」

 

 

 

このOPナレーションは毎話毎話始まりを告げるお決まりのフレーズですが、今話のそれは、野乃はな演じる引坂さんのこの一年間の思いがぎっしり込められており、物凄く説得力のある語りになっていたように感じて、率直に圧倒されました。試しに初期のものと聞き比べると全然違うことがすぐにわかります。単純に上手になったということともまた違うような気がします。第48話のそれは、はなの信念の強さを始め、苦しい最終決戦に対しても絶対にあきらめないこと、未来を信じぬくまっすぐさなど、一言では言い表されない「野乃はな」のあらゆるパーソナリティの全てが詰まっていて、たいへん素晴らしいものになっていました。

 

 

あまりに素晴らしすぎたのでこのOPナレーションは軽く数十回は聴き直しました。とにかく、すごくよかった。一年間野乃はなを演じてきた引坂さんの、一年間の成長という「物語」を、どんな言葉よりも雄弁に語ってくれています。

それは、「わたしのなりたい野乃はなじゃない」(第1話)→「わたしのなりたい野乃はなだ」(第48話)の1年間の積み重ねに匹敵すると捉えられます。

 

『HUGっと!プリキュア』第48話。(C)ABC-A・東映アニメーション

 

個人的な話になりますが、2018年の後半から2019年の前半にかけて日本を離れているため、プリキュアオタクとしてのアクティブ度が激減した一年でした。昨年の秋映画も今年の春映画も観られないし、先日のプリキュア15周年ライブにも行けませんでした。どれも超絶行きたかったし、アイルランドやイギリスでもやってくれという感じです。

 

それに加え、私は『HUGっと!プリキュア』という作品のいい視聴者にはなれませんでした。本作で伝えられたメッセージはとても大事なものだし、よかった点や面白かった点もたくさんあり、いい作品であったとは思うのですが、最後までどうしても、私は本作を愛することはできませんでした。

 

 

前提として申し上げておきますが、プリキュアは徹頭徹尾子どものための作品であり、外野である大人はそのことを常に意識して視聴・享受・批評しなければならないという意識は常に強く持つべきだと思います。本作がメイン視聴者たる子どもがめいっぱい楽しんでくれて、そのうえで大切なことをたくさん感じ取ってくれたのであれば、『HUGっと!プリキュア』という作品の目的は達成されたことになります。それが一番重要なことであることは言うまでもありません。

 

 

それでもなお、自分は来年以降もプリキュアファンでいたいから、本論の筆を執ります。

 

 

戦闘(美)少女アニメは、その役割をもう終えたのか?と思った一年

私が『HUGっと!プリキュア』の何を一番不満に感じたのかというと、作品全体を取り巻くポリティカル・コレクトネスの息苦しさでも、キャラクターと物語の掘り下げ不足でもなく、「ただただバトルが面白くなかった」という点にまずはたどり着きます。

(ところで、昨年書いた『キラキラ☆プリキュアアラモード』総評を読み返したら「バトルだけはどうしようもなく駄目だったと思います」と辛辣にコメントしていて、個人的には残念なことに2年連続バトルがイマイチなプリキュアシリーズだったという結果になってしまいました)

 

 

面白いことに、本作のバトルについて誰も語りません。制作サイドも、ファンも、誰も語ろうとしません。まるで、バトルは本作の特筆すべき要素ではないかのようです。

 

 

昨年の『キラキラ☆プリキュアアラモード』(以下『プリアラ』)では肉弾戦封印を目玉とし、キラキラルを用いたエフェクトバトルを展開しました。ところが、キュアジェラートがキラキラルを拳にまとって敵にパンチを繰り出し始めたのを筆頭に、肉弾戦封印を謳った『プリアラ』のバトルは完全に手詰まりになってしまいました。

 

それを受けて、本作では従来通り肉弾戦を解禁したものの、それによって突然劇的にバトルが面白くなるというわけではなかったことが本作によって明らかになったのは、これからのプリキュアシリーズのためによかったのではないかと思います。

 

 

ところで、自分は『プリアラ』のバトルを推すわけではありませんが、まったく否定的かというとそういうわけでもありません。物語初期はバトル描写を工夫しようという積極的な意思が見られて実は面白かったし、『パリッと!』の冒頭のバトルはとても見応えがあって「肉弾戦封印のバトルも面白いものが描けるんじゃん」となったのをよく覚えています。それに、以前も『プリアラ』論で展開してきたように、『プリアラ』において敵を退ける行為はスイーツを作るという行為に一貫していることが指摘できます。つまり、バトル描写それ自体に不満はあっても、バトルにしっかりとした物語的な意味付けがなされていたという点においては、戦闘(美)少女ものとしてのプリキュアシリーズの要請をきちんと守れており、そこは評価すべきポイントだと捉えています。

 

 

それに対して、本作はバトルの描写そのものというよりも、バトルを物語にまったく組み込めていなかったことに問題があります。回によっては組み込むことすら放棄していたように思います。様々な回に見られた、まったく話の脈略に関係のないモブキャラを用いてオシマイダーを雑に発注したり、全ての問題が解決した後にノルマ的にバトルシーンを挿入したり、といったことです。

 

第43話「輝く星の恋心。ほまれのスタート。」はほまれ回集大成としてふさわしく、本編全体を通してもかなり完成度が高い素晴らしい挿話でしたが、ほまれの逡巡→はなたちの応援→告白→スケートでの活躍と、本挿話が描くべきドラマが全て終わった後にバトルを描いており、尺的にも内容の比重的にも「本作がプリキュアである以上仕方がないからバトルを入れた」という印象を受け、残念でした(とはいえ、あの流れの後でどのようにバトルを入れるのが正解かと問われても難しいですが……)。

 

 

もちろん、本作にはバトルがきちんと物語に組み込めている回も存在しました。それらの中で私の印象に残っているものとして第16話「みんなのカリスマ!?ほまれ師匠はつらいよ」と第38話「幸せチャージ!ハッピーハロウィン!」の2つを挙げておきます。

 

前者はシリーズ通算700回という記念的話数であることもあってか、冒頭から映像づくりに並々ならぬこだわりを感じ取れる本編屈指の神回といってよいと思います。本話数のバトル描写においては、オシマイダーにされたじゅんなとあきがその内部からキュアエトワールの活躍を目の当たりにし、仲違いを解消させていくところは、「伝説の8話」に由来するプリキュアシリーズの王道の型を感じさせました。この挿話はバトルがうまく活かされている完成度の高い構成と言えると思います。

 

『HUGっと!プリキュア』第16話。(C)ABC-A・東映アニメーション

 

後者は、クライアス社を退社してプリキュア陣営についたものの、魔が差してオシマイダーを発注してしまったダイガンを諫めるために、プリキュアたちは「プリキュアショー」という体裁をとってオシマイダーと対峙します。ハロウィンの仮装という舞台装置をうまく活かしながら、一度光堕ちを果たしたダイガンを完全にやっつけるのではなく、「プリキュアショー」というフィクションの中でバトルを処理していくことで、プリキュアたちの優しさを表現していく手法は、とても上手いと思わされました(それにしてもこの回のはな、歴代屈指のあざとイエロー並みにあざといと思う)。

『HUGっと!プリキュア』第38話。(C)ABC-A・東映アニメーション

 

このように、バトルが印象的で良かった挿話もあるにはあるのですが、全体的に本作のバトルに深い満足感を得ることなく物語が終わってしまった印象を受けます。

やっぱり、個人的な感想としては社会批評である以前に、戦闘(美)少女モノとしてのプリキュアが観たいんですよね。現在のプリキュアの水準を考えると正義が悪をやっつけるという単純な勧善懲悪モノを描くことはもはや不可能であると思いますし、それに伴いバトル描写はどんどん難しくなっているのではないかと思いますが、バトルは強力な説得力を持つプリキュアシリーズに特権的な表現手法だと思います。どんな言葉よりも、バトルを通すことで雄弁に語られうるメッセージが、物語が、きっとあるはずなのです。だから、次回作の『スター☆トゥインクルプリキュア』には、バトルに気合いが入っている、正真正銘の戦闘(美)少女モノとしてのプリキュア作品となっていることを強く期待しています。

 

 

社会批評としての『HUGっと!プリキュア』、およびそれの語られ方

2018年、『HUGっと!プリキュア』によってプリキュアの存在感が社会的に高まったのは間違いないと思います。
本作はとにかく攻め攻めな作風でした。ジェンダー、仕事、育児、ルッキズム、様々な方面へ積極的な提言を打ち出し続けました。そして、ネットメディアやTwitterで話題になり、さらには朝日新聞の朝刊にも掲載されるという快挙も達成しています。最終回放送後でも、「出産シーンを描いたことが話題に」とネットニュースになっていました(https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190127-00010003-huffpost-soci)。
https://coconutsjapan.com/entertainment/purikyua-shussann-mutsuubunben/11568/では、出産シーンが無痛分娩ではなく自然分娩であったことに異論を唱える層がいたことが指摘されています。

 

『HUGっと!プリキュア』第20話。(C)ABC-A・東映アニメーション

 

『HUGっと!プリキュア』第42話。(C)ABC-A・東映アニメーション

 

それから、本作を取り巻いたポリティカル・コレクトネス(PC)の問題も語らねばなりません。PCについては自分もブログで池の平ホテルのCMについて否定的な言及をしました。正直、そこまで言う?という意見があった人もいたと思いますし、「ランドセルは男の子が黒、女の子が赤であることにも突っ込みを入れるのか」という意見もtwitterで見ました。

しかし、自分の意見の主眼は黒を背負いたくない男の子、赤を背負いたくない女の子もいるだろうし、そういう子は好きな色のランドセルを自由に選べばいい、ということにあります。そういった意味での多様性を認めることはとても大事だし、それを考慮すると「男の子は黒、女の子は赤を選ばなければならない」と規範的なことを強いる(かもしれない)姿勢は、ランドセルの色を自分の性別にふさわしい(と社会的に要請されている)ものを背負わなければならないのかと悩んでしまう子どもたちを傷つけることにつながりかねないから、改めなければならないと私は思います。だから、繰り返し述べておきますが、「男の子は仮面ライダービルド、女の子はHUGっと!プリキュア」と規範的なニュアンスを匂わせる文言はパブリックなCMとしてはふさわしくないと考えるのです。

 

 

この議論、自分でしておいて難ですがある意味とても頑迷だと感じます。何をそんなにCMごときにムキになっているのかと言われるかもしれません。ですが、このPCの議論にまつわる窮屈さは本作全体にもまとわっていることが一つ大きな問題であったように感じていて、本作を語るときには、純粋な一個人の感想としての面白い・つまらないの次元ではなく、その人のPC意識を表さなければならないところが、本作の(特にあまり『はぐプリ』を気に入っていない)視聴者を窮屈にさせた最大の要因であったように思います。

例えば、第20話で提示された「男の子だってお姫様になってもいい」という意見について「うーん?」と違和感を覚えたとして、「それはどうかと思う」という意見を表明することは、作品に対する感想を飛び越えてその人の普段思っているジェンダー観を表現してしまうことにつながっており、なんとなく口をつぐまざるを得ないわけです。そういう「正しさ」にまつわる窮屈な構造が本作を取り巻いていたように思います。

(もちろん、本作のジェンダーフリーに関する表現に違和感を覚える方もいると思います。そういう方がいても全然いいと個人的には思うのですが、そのような「正しさ」の議論では個々人の思想の多様性を掬いきれなかったところも本作の課題と言えるかもしれません。そもそもそんな啓蒙的なことをプリキュアに求めるのか?という立場の方もいるでしょう。本作のバトル描写の不備をやいやい言う私の立場も実はこれに近いのだと思います。)

 

 

それと密接に関わってくるのが、本作はtwitterその他でよくバズっていたという現象です。「今年のプリキュアは〇〇を××に描いていてすごい!」というバズり方をあらゆる回で観測しました。その最たる例が若宮アンリくんがプリキュアへの変身を果たしたことだと思われますが、これは「男の子がプリキュアになった」というセンセーショナルな話題が席巻しすぎていたように感じ、それを危惧した自分は第42話放送終了後慌ててブログを更新しました。「男の子プリキュアが誕生したのは事実だけど、第42話の主眼はそこではないよ」ということを、大衆に(特に『はぐプリ』をきちんとは視聴していない人々に)伝えたかったからです。

 

 

このように、普段プリキュアを視聴していない人々にも遡及ができていた一方で、断片的な情報のみで本作を知る人が多かったのは本作にまつわる最大の問題であったように思います。「男の子がプリキュアになる」を始め、攻め攻めな社会批評的な作劇のみが目立ち独り歩きしていった印象がありました。140字しか書けないtwitterは誤解を生む可能性が高く、作品の断片のみを切り取った情報が独り歩きしていった現状はなんだかなあという感じでした。

 

 

もう一つ。twitterと本作の関係に関する問題について用意した議論ですが、最終決戦周りでのジョージ・クライとはなの関係性についての解釈で物凄くバズっていたツイートがありました(現在、該当ツイートは削除されているようなので、引用は控えておきます)。

ジョージ・クライははなの未来の旦那であり、未来が暗黒であることを嘆き、はなを助けるために時を止めようとするが、それを過去のはなに止められるという解釈は、私も多かれ少なかれ本作の本筋はそういう話だと受け取って観ていたので、これがファンによって「二次創作じみた解釈」と非難されている事態はあまりよくわかりませんでした。少なくとも作中の描写の段階で、クライの妻が前髪を切りすぎていないはなが成長した姿に見えることは、なぜクライがはなにあれほどの執着を見せるのかを考察するうえで重要な情報だと思います。現に、第48話のクライの瞳に映るはなは現在のはなとは違う人物であり、クライははなを目の前にしながら別のはなしか見ることができていません。

 

というわけで、作中では明言されていないもののおそらくそういう話なんじゃないかと自分も考えています。

 

『HUGっと!プリキュア』第48話。(C)ABC-A・東映アニメーション

 

ただ、このツイートがバズっていたというのはやはり問題かなあと少し思っていて、本作の特質が良くも悪くもここに表れていると思います。「男の子だってお姫様になってもいいんだよ!」がバズり、「アンリくんがプリキュアになった」というのもバズり、でこれもバズっていることで、本作は完全にバズ目的で作っていたプリキュアのように思えてしまったのです。バズるためには物語は必要ありません。物語的積み重ねや必然性を重視することなく、センセーショナルな表現、大胆な表象だけをポンポンと連発していればよいのですから。「その場その場でなんとなくいいことだけを言っている」という本作の印象は、最後まで拭い去ることはできませんでしたし、それが自分が本作を好きになりきれなかった最大の要因であると思っています。

 

 

おわりに

「つまらないのならば、文句があるのならば観なければいいじゃないか」という意見はもっともだと思います。
 
ですが、まあ率直に言うと本作は途中で切ってしまうほど視聴に耐えられないものではなかったんですよね。それから、現に過去のシリーズでも何だか肌に合わないと感じて切ってしまった作品はいくつかありますので、プリキュアであるという理由一点のみで、作品がどんなに気に入らなくても惰性でダラダラ観続けるファンというわけでもありません。
特に第36話・第37話の歴代勢ぞろい回は長年プリキュアファンを続けてきてよかったなと思える素晴らしい挿話でしたし、最終回はとてもぐっときましたし、本作を一年通して観続けてきてよかったと、これは胸を張って言えます。
 
 
『HUGっと!プリキュア』が後にプリキュアの歴史を振り返った時に、シリーズの飛躍を遂げた作品として捉えられるのは間違いないと思います。
社会批評として本作が果たした役割は大きいと、肯定的な評価を下すことも可能でしょう。個人的には、本作がジェンダーの壁を越えてプリキュアを表象してくれたことは、全面的に評価しなければならないと思っています。
 
 
ですが、作品の裏にまつわる本作の語られ方の問題は、黙って見過ごすわけにはいかないと思います。ポリティカル・コレクトネスの問題を始め、視聴者が本作を自由に批評する可能性が減少する構造があったこと、そして本作の断片的な情報のみが独り歩きしていく可能性が増大する構造があったこと、この二点は『HUGっと!プリキュア』が抱えていた問題の表と裏であるというのが、本作を一年間視聴してきた自分の見立てであり、これは論じておくべき重要な話題だと感じたために本作の総評に代えて採り上げた次第です。
 
 
とにかく今年の『はぐプリ』人気は凄まじく、それに水を差すような否定的な意見をパブリックに発言することは控えるべきなのではないかと何度も思いました。プリキュア15周年のお祭り気分は自分も大いに楽しませてもらいましたし、『はぐプリ』を純粋に楽しんでいるファンに、そして子供たちにとって、自分の言葉は余計なものでしかないのではないのかと、思い悩んだことも多々あります。
 
 
しかし、それでもなお、本論を書いたのは、やはりファンは作品を語るべきだし、それが作品のためになるからだと思うからです。それこそ批評の本質的な役割だと思うのです。だから、いちプリキュアファンとして、本作を一年間視聴して自分なりに思ったところをつらつらと書かせていただきました。これは、来年以降もずっとずっとプリキュアが続いてほしいという願いが込められていることは言うまでもありませんし、それでも私はプリキュアファンを続けていくつもりです……と、自分の決意みたいなところに落ち着いたところで筆を擱こうと思います。
 
 
あ。野乃はなはすごく好きな主人公で、そこはすごくよかったことを蛇足ながらつけ加えておきます。ここ数年作品の評価のぶれはあれど、主人公が魅力的という点はずっと続いていることは喜ばしい限りです。