算数を苦手にしないため??? | オランダの村で暮してました

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私はこのところ小河勝先生とお仕事をしている。

先生は大阪の問題が多発する中学校で、長く教壇に立たれ、ドロップアウトする生徒たちと小河式・モジュールを使って、生徒みんなの学力があがり、楽しくなるような教室を作っていった先生である。

その先生と最近、教材会社さん関係で仕事を進めているのだが日本のカリキュラムつまり「学習指導要領(教科書のもとになるもの、つまり学校でなにを学ぶか、ともとになるものです)」は「中程度」の児童生徒を対象にしているということ。だか「らこの教材会社さんとのお話でも「中の上」とか、「中の下」とかいう教材の対象者がでてくる。カミングアウトしてしまうと私は「できない子ども」だった、小学校4年生まで。つまり、「学習指導要領(教科書)の想定対象者ではなかったのである。しかし、あることがきっかけで(実際、私はその感覚を「霧が晴れた」という感じで覚えているのである)、算数・数学が「できる」ようになった。その私が思ったのは「はてはて待ってください、この「中(以上)」属する児童・生徒ってどのくらいの割合ですか?」。私的に3割くらい(ってあくまでも自分を基準にしているが)。

 

私がこの経験を今、理数科教育専門家として本当に貴重と思うのはできないこと、わからないこと、が身にしみていることである。というか、いまだに算数・数学の「学習指導要領(教科書」がわからない。ただ、小学校4年生のまでの私と違うのは「算数・数学はわからなくてもできればいいんだ」と知っていること。これ小河先生の教育理論と一致しているのである。「『わかること』をもとめるからドロップアウトになる、『できる』ようにしてあげればいい」。一体、わかってからできるようになる、という教育理論は意外に新しいのである。かの昔には皆、「できること」を学習の目的にしていた。わかるなんてことはあとからついてきたのである。それが近世の学校教育になって、「わからなくてはいけない」となってしまった。一方、実生活では、(特に実務関係では)、「わかること」より、「できること」を中心にしているではないか、「わかること」を待っていたららちが明かない。まぁ、MBAなんかの学習は「できること」を「わかること」につなげているが、、、、

 

さて、表題のある「算数を苦手にしないため???」についてであるがまたまたやり玉にあげてもうしわけないがまた朝日新聞の記事。

 

https://www.asahi.com/and_edu/articles/0001/

 

う~~~~~~ん、、、、、こういった記事「子どもが算数・数学を苦手にしないために」的な記事を書く人たちはみな一度も算数・数学の学習で躓くこともなく、ずっと算数・数学大好き的な人ではないか、と思う。おそらく「学習指導要領」も「教科書」の作成者も当然そうであろう。つまり、こういった人たちは、「(今は)できている子>全体の3割、私基準の予測です、、、、」を「これから苦手にしない」ことはできてももともとできない子を苦手にさせない、ましてやできるようにさせることは無理なのである。彼らのなかではすでに算数・数学ができない子はOut of 眼中。

 

小河先生と私が今、こういった算数・数学ができない子はOut of 眼中の「算数・数学教育の専門家」とぶつかりながら行く道は、算数・数学が「すでに苦手」な子どもたちの「霧をはらう」ことなのである。そんな子どもは日本だけでなく、アジアにも、アフリカにも。そしてオランダにもいる。

 

がんばって学んでいる子どもたち、報いたいではないか。