ブログ、SNS、肩書き、ネーミング、名刺、ホームページ、プロフィール写真、動画、出版等を駆使して(売りにして)ブランディングを行うブランディングプロデューサーがゴロゴロいるが、彼らは手法(やり方)をウリにしているわけである。
ブランディングとは、あり方に関わる極めて本質的なものであり、軽薄で表面的なやり方に終始する話ではない。
もし、不運にも手法をウリにする彼らのプロデュースを受けることになったなら、通り一遍、どこかでみたことのある型にはまった金太郎飴ブランドが量産されることとなる。
彼らが売れれば売れるほど、金太郎飴は増え続け、陳腐化の速度を自ら早めることとなるのだ。
これは、従来の大量生産・大量消費という思想の上に成り立つ、使い捨て、安売り、投売りといった未熟で寝ぼけた生産・消費社会の縮図に他ならない。
プレミアム(上質)かどうかは、この違いを見抜く審美眼を備えているかどうかの違いでもある。
つまり、プロデューサーの手垢が色濃く残る金太郎飴になってしまった段階でそれはプレミアムとは対極の存在となる。
それはプロデューサー自身のブランディングに役立つことはあれ、プロデュースされた人やもののブランディングに役立つことは少ない。
それは、軽薄で表面的な手法の証明と影響力の増大に加担することはあれ、自身の存在意義や市場価値を高めるものとはなりにくい。
手法は目的に従属するのであって、先行するものではない。
ここの見極めは常に大事。
PBの動向に目が離せない。
毎日のようにコンビニに通って品揃えを見ていて気づいたことは、毎週最低でも50品目は商品の入れ替えがあるということ。
今朝新聞を読んでいると、セブンイレブンは実際には約100品目も入れ替えられているという。
実観察値の倍だ。
セブンイレブンの一店舗あたりの取り扱い総品目数は、2800ほど。
今、そのうちの6割以上がセブンプレミアムという独自ブランド商品だ。
セブンイレブンは2015年までにこの数を2400までに増やすという。
どこでも買える商品が、家から近くて便利な立地を利用して定価で販売する、という従来のコンビニのあり方が、独自商品で埋め尽くされることによってガラリと変わる。
しかも、消費者の動向をいち早く捉え売り場に反映し、毎週100品目の入れ替えを実現する背景に、セブンイレブン独自の強みである、情報システムと物流網による、単品管理の仕組みがある。
こうなってくると、数十年前からまるで時が止まったかのように進歩発展をサボっている個人商店の生き残りは益々苦しくなる。
サボっているのだから淘汰されて当然だが、だからといって打ち手が断たれたわけではない。
たとえば、PBを扱う大手の判断基準は厳格だ。生産効率と管理負担から利益性を判断する。1アイテムで売上高が1億円に満たない商品は足切りだし、セブンイレブンにいたっては、現在1アイテムあたりの売上高は2.9億円である。
こうやってみると、効率の面で大手が面倒くさがる高品質少量生産のこだわり商品にはまだやりようが残されていそうだ。
ビッグデータの活用が盛んに取り上げられている。
ビッグデータって大手がやることでしょと、個人商店だからといって無視していてはいけない。
ビッグデータといって大手のように膨大な情報を収集分析するイメージを持つかもしれないが、その見た目の量やインパクトに惑わされてはいけない。
いささか強引に例えるならば、それは商売人なら当たり前に感じ取ってきたある種の、顧客の傾向や空気感、情緒的な機微のようなものでもある。
技術の進歩でそういった感覚的で極めて複雑な領域の解析がだんだんと可能になってきたという話に過ぎない。
ビッグデータの話がしたいのではない。大手がこぞって顧客のことを虱潰しに調べ上げ、集めたデータを分析し、改善や開発に活かしている一方で、顧客と日常的に顔を付き合わせているであろう個人商店が、目の前のたった一人のお客様の微妙な心の動きや機微を察知する努力を怠っているのではないか、ということに警鐘を鳴らしたいのである。
大手の企業努力を鼻で笑っている場合ではない。どれだけの個人商店がこうした動きに危機感を覚え、具体的に対策を考え行動に移しているだろうか。
大手の攻勢に打ち負けないための武器をどれだけ取り揃えているだろうか。
大手が面倒くさがって手を出さない、でもきわめてニッチでユニークで自社のお客様には受けそうな商品をどれだけロジカルに取り揃えられているだろうか、新規商品開発に活かせているだろうか。
素晴らしい技術をもちながら、なかなか売れないから、大手では取り扱ってくれないから、どれだけ売れるかわからないから生産に踏み切れないといった、まだまだ世に出ていない素晴らしいアイデアや商品を、求めるごく一部の人に適切に届けなければならない。
そんな仕組みが実はほぼ出来つつある。
どこにも負けないこだわり商品や商材、生産物をお持ちの生産者様、そういったどこにもないこだわり商品や商材、生産物をお求めの小売店様、ご興味あればお問い合わせ下さい。
毎日のようにコンビニに通って品揃えを見ていて気づいたことは、毎週最低でも50品目は商品の入れ替えがあるということ。
今朝新聞を読んでいると、セブンイレブンは実際には約100品目も入れ替えられているという。
実観察値の倍だ。
セブンイレブンの一店舗あたりの取り扱い総品目数は、2800ほど。
今、そのうちの6割以上がセブンプレミアムという独自ブランド商品だ。
セブンイレブンは2015年までにこの数を2400までに増やすという。
どこでも買える商品が、家から近くて便利な立地を利用して定価で販売する、という従来のコンビニのあり方が、独自商品で埋め尽くされることによってガラリと変わる。
しかも、消費者の動向をいち早く捉え売り場に反映し、毎週100品目の入れ替えを実現する背景に、セブンイレブン独自の強みである、情報システムと物流網による、単品管理の仕組みがある。
こうなってくると、数十年前からまるで時が止まったかのように進歩発展をサボっている個人商店の生き残りは益々苦しくなる。
サボっているのだから淘汰されて当然だが、だからといって打ち手が断たれたわけではない。
たとえば、PBを扱う大手の判断基準は厳格だ。生産効率と管理負担から利益性を判断する。1アイテムで売上高が1億円に満たない商品は足切りだし、セブンイレブンにいたっては、現在1アイテムあたりの売上高は2.9億円である。
こうやってみると、効率の面で大手が面倒くさがる高品質少量生産のこだわり商品にはまだやりようが残されていそうだ。
ビッグデータの活用が盛んに取り上げられている。
ビッグデータって大手がやることでしょと、個人商店だからといって無視していてはいけない。
ビッグデータといって大手のように膨大な情報を収集分析するイメージを持つかもしれないが、その見た目の量やインパクトに惑わされてはいけない。
いささか強引に例えるならば、それは商売人なら当たり前に感じ取ってきたある種の、顧客の傾向や空気感、情緒的な機微のようなものでもある。
技術の進歩でそういった感覚的で極めて複雑な領域の解析がだんだんと可能になってきたという話に過ぎない。
ビッグデータの話がしたいのではない。大手がこぞって顧客のことを虱潰しに調べ上げ、集めたデータを分析し、改善や開発に活かしている一方で、顧客と日常的に顔を付き合わせているであろう個人商店が、目の前のたった一人のお客様の微妙な心の動きや機微を察知する努力を怠っているのではないか、ということに警鐘を鳴らしたいのである。
大手の企業努力を鼻で笑っている場合ではない。どれだけの個人商店がこうした動きに危機感を覚え、具体的に対策を考え行動に移しているだろうか。
大手の攻勢に打ち負けないための武器をどれだけ取り揃えているだろうか。
大手が面倒くさがって手を出さない、でもきわめてニッチでユニークで自社のお客様には受けそうな商品をどれだけロジカルに取り揃えられているだろうか、新規商品開発に活かせているだろうか。
素晴らしい技術をもちながら、なかなか売れないから、大手では取り扱ってくれないから、どれだけ売れるかわからないから生産に踏み切れないといった、まだまだ世に出ていない素晴らしいアイデアや商品を、求めるごく一部の人に適切に届けなければならない。
そんな仕組みが実はほぼ出来つつある。
どこにも負けないこだわり商品や商材、生産物をお持ちの生産者様、そういったどこにもないこだわり商品や商材、生産物をお求めの小売店様、ご興味あればお問い合わせ下さい。
「なんで自分だけ」と嘆く人がいる。
自分だけ「特別に」大変なのだと思っているのだ。
しかしそれは単に「勘違い」である。
みんなそれぞれ「特別」なのであり、 それぞれ事情あって大変な思いをしているのだ。
けして「自分だけ」が「特別に」大変なわけではない。
ただ、大変そうに見える人と、そうでないように見える人がいるだけだ。
それは、自分の身に起こる現象に対して、目を背けて逃げようとするか、 直視して対処しようとするかの違いでしかない。
言ってみれば、起こることには意味は無いとするか、 あるとするか、姿勢の違いである。
「普通の会社にはこんな社員はいない。なんでうちの社員はこうなんだ」 と嘆く経営者がいる。
それも勘違いだ。
人は一長一短なのであり、パーフェクトな人材などいない。
長所を見るのか短所を見るのかの違いだけかもしれない。
短所を見たとしても、だからいいんだと思えるかどうかの違いかもしれない。
起こることのすべてに意味があるとする姿勢を取るならば、 すべての問題は解決すべきものかもしれないし、 受け入れてうまく付き合っていくべきものかもしれない。
それらは、単に与えられた条件に過ぎず、言ってみれば、 サッカーのフィールドであり、ルールである。
ボールを扱うのにキーパー以外は手を使ってはならない、 というのと同じ条件だ。
手を使ってはないらないことに対しクレームをつけた所で、サッカーで勝負する以上は特別扱いされることはない。
結局、与えられた条件に対しては、嘆いていても仕方ないのであり、なかったことにするか、活用するしかない。
そもそも、ありのままに物事を見ることができない人間という生き物は、 「勘違い」の動物である。
自分だけ「特別」と思うことも「勘違い」ならば、 それは「好機」だと思うことも「勘違い」なのだ。
ありのままに見ようとして見たもの、感じたもの、解釈したものも、 単なる「勘違い」の産物である。
ただ、条件に対する積極さの度合いがあるだけである。
だとするならば、起こるすべてのことに関して、 なんらかの意味を見出そうとする積極的姿勢を取り続けようとすることが、 人生を有意義に生きるコツかもしれない。
より良く、より楽しく生きるとは、 いかに脳みそに前向きな「勘違い」をさせることができるかどうかなのだ。
自分だけ「特別に」大変なのだと思っているのだ。
しかしそれは単に「勘違い」である。
みんなそれぞれ「特別」なのであり、 それぞれ事情あって大変な思いをしているのだ。
けして「自分だけ」が「特別に」大変なわけではない。
ただ、大変そうに見える人と、そうでないように見える人がいるだけだ。
それは、自分の身に起こる現象に対して、目を背けて逃げようとするか、 直視して対処しようとするかの違いでしかない。
言ってみれば、起こることには意味は無いとするか、 あるとするか、姿勢の違いである。
「普通の会社にはこんな社員はいない。なんでうちの社員はこうなんだ」 と嘆く経営者がいる。
それも勘違いだ。
人は一長一短なのであり、パーフェクトな人材などいない。
長所を見るのか短所を見るのかの違いだけかもしれない。
短所を見たとしても、だからいいんだと思えるかどうかの違いかもしれない。
起こることのすべてに意味があるとする姿勢を取るならば、 すべての問題は解決すべきものかもしれないし、 受け入れてうまく付き合っていくべきものかもしれない。
それらは、単に与えられた条件に過ぎず、言ってみれば、 サッカーのフィールドであり、ルールである。
ボールを扱うのにキーパー以外は手を使ってはならない、 というのと同じ条件だ。
手を使ってはないらないことに対しクレームをつけた所で、サッカーで勝負する以上は特別扱いされることはない。
結局、与えられた条件に対しては、嘆いていても仕方ないのであり、なかったことにするか、活用するしかない。
そもそも、ありのままに物事を見ることができない人間という生き物は、 「勘違い」の動物である。
自分だけ「特別」と思うことも「勘違い」ならば、 それは「好機」だと思うことも「勘違い」なのだ。
ありのままに見ようとして見たもの、感じたもの、解釈したものも、 単なる「勘違い」の産物である。
ただ、条件に対する積極さの度合いがあるだけである。
だとするならば、起こるすべてのことに関して、 なんらかの意味を見出そうとする積極的姿勢を取り続けようとすることが、 人生を有意義に生きるコツかもしれない。
より良く、より楽しく生きるとは、 いかに脳みそに前向きな「勘違い」をさせることができるかどうかなのだ。