高木三四郎とNOSAWA論外と、ひとりの記者との14年物語 | KEN筆.txt

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鈴木健.txtブログ――プロレス、音楽、演劇、映画等の表現ジャンルについて伝えたいこと

14年前に高木三四郎と野澤一成がDDTを旗揚げしたさい、その報告に各マスコミをまわったところ歓迎とはほど遠い対応をされたことは、草創期のおとぎ話のように伝わっている。当時の象徴的な言葉としてさるマスコミから「おまえらなんて、旗揚げしたら潰されるよ!」と脅しのように言われたのは有名だが、程度の差こそあれども当時は誰もが似たりよったりの認識だった。旗揚げするべきかどうかと聞かれたら「やめた方がいい」が常識的な判断であり、ましてやインディーよりもさらに小規模で明確な信念や姿勢の見えないドインディーとされるところが続々とプロレス団体を名乗るような状況だったから、DDTもそのうちのひとつと見られるのは当然だった。

高木も野澤もPWCにいた無名の若手…いや、若手と呼ぶ以前にプロレスラーと言っていいものかどうかというようにしか見られていなかった。誰も「あの時点で将来成功すると思っていた」などとしたり顔では言えぬばかりか、好意的に彼らを受け止めることもなかった。あの日は確か月曜日だった。高木と野澤がベースボール・マガジン社を訪ねてきた時、私も編集部にいたはずだが、月曜の日中は一週間でもっとも忙しい日曜深夜の入稿作業明けであり、いつものように徹夜で原稿を書き終えて机に突っ伏し気を失っていたのだと思う。

そこへ受付から訪問者が来たとの内線があったのだろう。こういう時は、一番下…つまり、キャリアの短いスタッフが応対にいくと暗黙のうちに決まっており、当時の一番下とは現・フリーの鶴田倉朗記者だった。彼も同じように徹夜作業明けで寝ていたと思われるが、電話の呼び出しに無理やり起こされ、仕方なく1階のロビーへと降りていったのが目に浮かぶ。

そこで高木&野澤からDDT旗揚げについて聞かされた。といっても、その時点での2人のバリューからは可能性はおろか応援するしない以前の話だった。とりあえず、これまた一番下という立場から鶴田記者はドインディーのうちのひとつであるDDTの取材にシフトされた。担当などというご立派なものではなく、誌面に載るかどうかさえわからないのだから「鶴田でいいだろう」程度の理由だった。

それから間もなく、鶴田記者はベースボール・マガジン社を退社し海外へ渡り、プエルトリコとアメリカに住み海外通信員として数年間、WWEのアテテュード時代を現地で取材する貴重な経験を積んだ。この間に、旗揚げメンバーの野澤は1年後DDTを退団。「ルチャをやりたい」とメキシコへ渡る。現地ではプロレス活動の傍らチキン屋を開いたこともあり、鶴田記者が取材したグラビアが週プロに載った。

2人が海外で活動する一方、残った高木はDDTを続けていった。のちに当時のことを振り返ったところによると「言い出しっぺの野澤がいなくなってひとりになったのは本当に辛かった」という。「俺たちのようなプロレスラーと思われていないような人間が団体を旗揚げしたってうまくいくわけがないだろ!」と反対する高木を「このまま終わっていいんですか? 俺らをバカにするやつらを見返してやりましょうよ!」と口説き落としたその野澤が先にやめてしまったのだから、高木も嫌気がさしたところで不思議ではない。けれども、旗揚げから1年が経過し他の選手たちもいる中で、団体を投げ出すわけにはいかぬ立場となっていた。

その後、野澤は東京愚連隊として米インディーシーンやメキシコを中心に暴れ回り、名をあげていった。NOSAWAとなって古巣であるDDTに参戦し、KO-D無差別級のベルトを奪取するも再びフェードアウト同然に離れていく。高木に言わせれば、それ以降も含め何度となく野澤には煮え湯を飲まされたとなる。でも、それで愛想を尽かし関係を断つようなことはしなかった。「DDTをやめた時はこんな団体、潰れちまえばいいと思った」という野澤も海外で認められ、全日本プロレスへ定着し鈴木みのると行動をともにするまでになっても「高木さん」と呼んだ。兄弟のよう…と表現するほど常にいっしょではないが、やはりお互いの中には兄と弟の関係に似た感覚があるのだ。

今年の2月、NOSAWA論外が仙台で事件を起こした翌日、DDTは船橋で試合があった。今となってはなんたる偶然なのかと思うのだが、その日はユニオン所属ながら社長の立場から高木が来場していたのはもちろん、準レギュラーとしてNOSAWAと同じ東京愚連隊の藤田ミノルが、そして切っても切れぬ関係にある菊タローが特別参戦していた。3人が3人、私と顔を合わせるや否や言葉よりも先に「はぁ…」と深いため息をついた。それが、NOSAWAの件によるものであるのは無言のうちに伝わってきた。

みな、同じ思いしかなかった。「あんなバカ、二度と顔を見せるな!」などと拒絶する者はひとりとしていない。事件を機に関係を断てるのであれば、その方がラクなのだ。しかし高木も菊タローも藤田も、NOSAWAとはそういう関係ではなかった。親や子供、兄弟や親族が罪を犯したからといって簡単に縁を切ることなどできない。何度更生を試みてもダメならばともかく、その人間に対し思い入れがあるならなんとかしてやりたい、なんとかさせなければと思う方が人間として正常な発想だろう。

3人だけではない。鈴木をはじめGURENTAIのメンバーも同じだから「カウント2.9」興行でNOSAWAに"きっかけ"の場を用意した。何度も書くが、そんなことはやらない方が自分たちまで批判されずに済むのだ。今でも高木にとってのNOSAWAは「出来の悪い弟」となる。その弟が多くの仲間たちの助けを得て、リングの中でやり直そうとしている。今回、東京愚連隊興行のメインでタイトルマッチをおこなうというオファーを受けたのは、そこに尽きる。

「セミまでのメンツがすごいじゃないですか。そんな中で自分の団体ならともかく、他人のリングでメインをやるなんて、すごいプレッシャーでしたよ」(高木)



この日、新宿FACEに集まった390人の観客のうち、14年前をリアルタイムで知る者は数えるほどしかいなかったはず。文献や選手本人の思い、煽りVで経緯は理解できても屋台村プロレスでデビューし、酔っ払い客の前で稚拙なプロレスを見せるのが精一杯だった2人が鈴木みのる、高山善廣、CIMA、エル・サムライ、TAKAみちのくといったビッグネームを差し置き、さらには王道同行人である和田京平レフェリーが裁くメインで闘うシチュエーションにどれほどの価値があるか、万人に届いていたわけではなかった。



2人が普段見せているスタイルとは一線を画した、地味で重厚な一点集中型のプロレスに館内には何度となく"シーン現象"が発生。派手な攻防に終始沸くような試合とはならなかったが「NOSAWAとの試合はいつもこんな感じになる」と高木は振り返った。2007年5月4日にウェポンランブル戦で闘って以来の一騎打ちだが、それ以前となると数えるほどしかシングルマッチはやっていないらしい。私は2002年5月の高木とスーパー宇宙パワーの一騎打ちを連想した。あの試合も、後楽園が似たような雰囲気に包まれた。キャラクターが確立されておらず、気迫でガンガンぶつかっていくことでしか自分たちの存在を伝えられなかったドインディー時代のDDTを経験している人間同士が闘うと、意識しようとしまいとその頃の波長で共鳴してしまうかのようだった。

 


 

左脚を集中的に攻めまくられる高木の慟哭が響く展開が続いたが、中盤から持ち直すと2人して宇宙パワーやスーパー・ライダーへ向かっていったあの頃のような気迫をぶつけ合うエルボー合戦。体格で上回る高木の方が、体重が乗っている分NOSAWAを押し切り、そこからはパワーを生かした大技で流れを変えていった。最後はストーンコールド・スタナー3連打からシットダウンしないひまわりボムで3カウント奪取。お互いが「最後のシングルマッチ」と定めた一戦は、高木が勝ち第2代東京世界ヘビー級王者となった。DDT及びユニオン以外の他団体のシングルタイトルを手中にするのは、今回が初。それがNOSAWAからというのも因縁である。


 

「14年前にDDTという団体をNOSAWAと旗揚げしました。当時のマスコミやお客さんの中で、今俺たちがこうやって闘っていることを想像した人は少ないと思います。14年前、いなくてもいい虫けらのような存在が、俺はDDTとユニオンを率いてやっている。おまえはこれだけの仲間に囲まれて試合をした。俺たちは、もっともっと上を目指そうぜ!」



高木のマイクにあった"少ない"は、ほとんど皆無に近いものを意味する。何しろ本人たちでさえ14年後に自分たちがメインで闘う姿を想像するにも、そうさせるまでの材料がなかった。そんな頃の思いをファンやマスコミに対し語ることはできても、同じ経験をした者に言える機会は極めて限られる。その数少ない相手が、高木にとってのNOSAWAであり、NOSAWAにとっても高木なのだ。

高木が控室へ去ったあと、NOSAWAは東京愚連隊の仲間であるKIKUZAWAとFUJITA、さらに全日本を離れたことで袂を分かったままだったMAZADAを呼び込んだ。高木が言った「仲間」がそこにいた。

 

 

この試合をマスコミ席から見ていたのが、鶴田記者だった。日本へ戻り、フリーとして週プロで仕事を続けていなければこの試合に立ち会えなかった。眠気まなこをこすって応対したあの日のシーンは、3人の追憶の中にしか残っていない。だからこそ今回は"証拠"を押さえて14年前の彼らに見てほしいと思った。三人三様の道を進み、あの頃よりも成長したのはそれだけで物語たり得るが、今でもこうして同じ空間を共有できることにもお金では買えぬ価値があると言えまいか――。