サムソン宮本さんから聞いた最後の言葉は「今、しあわせです」でした | KEN筆.txt

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鈴木健.txtブログ――プロレス、音楽、演劇、映画等の表現ジャンルについて伝えたいこと

9月11日夜、新根室プロレスから発表がありました。本日13時29分、同団体会長でありアンドレザ・ジャイアントパンダのマネジャーとしてともに全国へ笑顔としあわせを届け続けたサムソン宮本さんが逝去されました。享年55でした。

 

宮本さんはアンドレザがデビューした2017年に、10万人に3人しか発症しないと言われる平滑筋肉腫(へいかつきんにくしゅ)と診断されました。小腸に悪性腫瘍が見つかり、放射線治療、抗がん剤も効かぬ難病とされており「治療法はありません」と医師から宣告を受けました。

 

そのことを公表せずに新根室としての活動を続ける中で、アンドレザがブレイク。昨年9月14日に開催された三吉神社例大祭にて、難病と団体の年内解散を公表。2017年の時点では夢のまた夢だった東京公演を10月13日、新木場1stRINGで大成功させた宮本さんは長きに渡り苦楽をともにしてきた新根室のメンバーたちとのシングル13番勝負に挑み、肺を1/3切除した体で最後まで闘い抜きました。

 

▲昨年10月13日、新根室プロレス最終興行にして初の東京公演で13番勝負を闘い抜き、ファンに帰ってくると約束した宮本さん

 

2年間難病を表に出さずサムソン宮本さんは根室から全国にしあわせを出荷していた

 

そして、超満員に膨れ上がった客席へ向かい「必ずこのリングに帰ってきます」と約束。別居中だった明美夫人と抱擁を交わし「また一緒に暮らそう」の言葉通り、札幌の病院に移り病魔との闘いに専念しました。年が明けると新型コロナウイルスの影響を考慮し、一度は根室に戻りましたが4月下旬に胸の痛みを感じ検査の結果、平滑筋肉腫が心臓へ転移していることがわかっため札幌の病院に戻りました。

 

じつは5月末に医師から余命3ヵ月と宣告されており、抗がん剤治療をおこなうも効果はなく、腫瘍は次第に大きくなり体力も低下しほとんど寝たきりの状態になっていました。そうした中、本人が「このまま病院で家族にも会えずに終わってしまうのならば…」と抗がん剤治療をやめ、退院して家族とともに札幌の自宅ですごすことを望みました。

 

やはり家族と時をともにするのが一番の薬となったのでしょう。抗がん剤治療を止めてからは体調も回復し、調子のいい時は自転車へ乗れるまでになりましたが、一日ごとに寝たり起きたりという状況は続きました。

 

10月4日に宮本さんの支援イベントを開催する主旨を実弟であり、新根室本部長のオッサンタイガーさんに伝えたところ、宮本さんもとても喜んでいると聞きました。体調を考慮し本人にはLINEも送っていなかったのですが、亡くなられる6日前の9月5日に「お久しぶりです。今日は体調がいいので、健さんの都合のよい時間にお電話いただけるとありがたいです」と送信されてきました。

 

すぐに連絡を入れると、12月に根室へ見舞いにいった時と変わらぬしっかりとした口調の宮本さんが出ました。いったい何を言うのだろうと思っていると、イベントに関する「こういう形でご協力したいのですが」というものでした。

 

「宮本さん! こんな大変な状況にいながら、そんなくだらないことを考えて、しかも電話するのもシンドいのにそれを伝えようとしたんですか!?」

10月13日を最後にリングを離れ、団体としての活動は昨年末をもって終止符を打ったにもかかわらず、宮本さんの頭はプロレス脳のままだったのです。12月に根室を訪れた時におこなった日の出の納沙布岬におけるアンドレザ・ジャイアントパンダと、そのスポンサーとして名乗りをあげたメイ・ミステリオ社長との対決も、宮本さんがずっと温めていたくだらないにもほどがある“作品”でした。

 

病魔と闘いながら、最期の最期までサムソン宮本はプロレスラーだったのだと思います。

 

 

▲日本最東端の納沙布岬でおこなわれたアンドレザと「私に勝ったらアンドレザのスポンサーになる」と連絡をよこし、上陸してきたメイ・ミステリオ社長(右から4人目)の一騎打ち。アンドレザが秒殺し、友好が結ばれSPも一緒に記念撮影するというハッピーな作品

 

スマホ口に、出されたアイデアを面白がっていると「いやー、面白がってもらえて嬉しいです。ぜひ、イベントではお願いします」と満足気だった宮本さんは、そのあとに「こっちも10月4日まではなんとが頑張って生きますので」と続けました。もちろんネタとして言っているのですが、反射的に「何言ってんですか! 10月4日以後もずっと生きるんですよ。元気になってリングに戻るって言ったじゃないですか!」と、なんのひねりもない真面目な返しをしてしまいました。宮本さん、ごめんなさい。

 

6分54秒間の最後となってしまった会話――そこで聞いた宮本さんの言葉をお伝えします。

 

「家族と一緒にいられて今、しあわせですよ」

 

難病が発覚したあと、その痛みと苦しみを表に出さずアンドレザ・ジャイアントパンダとともにしあわせを届け続けた宮本さん自身に訪れた、ハッピー…それが家族の存在だったのです。

 

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根室へいった時に実感したことがあります。宮本さんは、仲間たちにとって真の意味でのカリスマでした。それは奉られるためのものではなく、誰もが「会長のために」との思いで突き動かされていました。この人と時間をともにすれば、閉塞になりがちな日々の中で面白いことに出逢えたり、楽しい人生が味わえたりできる。そんな信頼関係によって、13年間の中で新根室プロレスのメンバーが一人、また一人と増えていったのだと思われます。

 

平日の早朝5時、まだ日の出前の暗い中で新根室の拠点である宮本さんのお店「ブルート」に集合し、30分ほど車を走らせ寒風が吹きすさぶ納沙布岬まで誰一人文句を言うことなく向かいました。みんな、夜が明けたらそれぞれ“明日も仕事”どころか今日、仕事があるんですよ!

 

にもかかわらず、宮本さんが一声かけると嬉しそうに集まってくる。そんな関係性がとてもまぶしく見えたのは、日本で一番早く昇ってくる太陽のせいだけではなかったのだと思います。

 

初めて宮本さんと話したのは、2017年11月7日。釧路でおこなわれたスタン・小林とアンドレザ・ジャイアントパンダの初一騎打ちを大日本のニコニコ動画で生配信し、実況をやらせていただいたあとに電話をつないでいただきました。その後、上野公園における再戦のため上京した時に顔を合わせたのですが、本来ならば言葉を発しないアンドレザ選手のインタビューを面白がって打診したところノリノリで協力してくださいました。

 

 

「ええっ、本当にいいんですか!?」

「いやいや、こちらこそマスコミさんにそこまでやっていただけるとは…正直、我々のやっていることがこんなにもプロレスマスコミさんに受け入れられるとは思っていなかったので、とても嬉しいんです」

 

宮本さんは、新根室における活動を業界、関係者、そしてファンの皆さんに面白がってもらえることを至上の喜びとしていました。でも宮本さん、今まで隠していて申し訳ございません。

 

私はパンダの言葉が理解できるような人間ではありません。実はわかったフリをして、あたかもアンドレザさんが話しているようにしていただけです。やはり、アンドレザ・ジャイアントパンダにホンモノのインタビューができるのは、プロレス業界では元井美貴さん一人の方がいいのです。

 

純烈のNHKホール単独公演の時も、舞台袖でアンドレザ選手とともにリハーサルを眺めていた宮本さんの肩を叩くと、慣れぬ空間でようやく気心の知れた人間と会え、安堵の表情を浮かべているようでした。その時に打ち明けられた「最後の夢」の意味を理解するのは、3ヵ月先のことでした。

 

『日刊SPA!』連載「白と黒とハッピー~純烈物語」第31回「もうひとつの純烈紅白物語。難病と闘うサムソン宮本さんの夢」

 

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三吉神社における衝撃の告白から362日後、宮本さんはもう一つの「最後の夢」…つまりはリングに戻ることは果たせずとも「最後のしあわせ」を抱きながら永眠されました。余命3ヵ月を宣告され、その3ヵ月に当たる8月を不屈の精神力で乗り越えた矢先でした。

 

10月4日の支援イベントでプロレスファンの皆さんの力を集め、それを宮本さんに送ることもかないませんでしたが、主催である闘道館の泉高志館長、新根室のオッサンタイガー本部長、大日本プロレス及びスタン・小林選手の賛同を得た上で追悼イベント「ありがとうサムソン宮本」として開催させていただきます。

 

 

当初の主旨は変わりますが、最後にいただいたアイデアを形にしなければなりません。なぜなら、それが宮本さんの“遺作”となるからです。そして何よりも「集まってくださるファンの皆さんに楽しんでもらえるようなバカバカしく、くだらない新根室らしいイベントにしてください」と、宮本さんならば言うだろうという私の勝手な思いがそうさせます。小林選手、ラジャパンダ選手に出演いただいた上で内容を一部変え、本来ならば治療費に充てていただくはずだった諸経費を差し引いた売り上げ全額を、プロレスファンからのお気持ちとしてご遺族へお渡しするようにいたします。

 

明日、改めて告知しますので宮本さんとアンドレザ・ジャイアントパンダにしあわせをもらった皆様はご参加ください。お別れの言葉は…このイベントを宮本さんに喜んでいただいてから、告げようと思います。

 

最後に…宮本さんは本日22時過ぎ、札幌から愛してやまなかった根室の町と新根室の仲間たちのもとへ戻りましたことをご報告させていただきます。

 

▲昨年12月、根室の三吉神社でアンドレザと戯れる宮本さん。「アンドレザと全国をまわっていた頃は本当に夢のような日々でした。でもこれからは、アンドレザと静かに暮らします」と言っていた