落城マッチの敗因…桶狭間の教訓が生かされず | KEN筆.txt

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11月15日におこなった記者発表の時点では、試合当日までに何度も会見を開いて少しずつルールを決めると言っていた高木三四郎だったが、じっさいにはそれ以後一度も場がもたれなかった。これについては、1度目の会見に来ていた某マスコミが「いい加減にしろよ。あんたらの余興なんぞにこちとら付き合ってられねえんだよ」と言わんばかりのオーラをビッシビシと発散させていたため、悪ノリにブレーキがかかったという説が業界内に出回った。

そんなこんなで、落城マッチ三部作のラストはこれといったルールが発表されぬまま当日を迎える。開場すると、すでに後楽園ホール内には北側ステージ上と本部席下に本丸が築城されており、ダークマッチが終了するやいそいそと出てきた参戦選手計6名を中心に、リング内へ二の丸、南側客席通路へ三の丸が墨俣城よりもスピーディーに作られた。

 



会見では「後楽園ホールに20個ずつ城を作る」と豪語した高木だったが、結局は新木場城と同じく3城分に。ただ、前回と違うのは両軍の城が築かれた点。つまり攻める側と守る側に分けると圧倒的に後者が不利なのに気づいた前回の反省を踏まえ、高木は同じ条件で天下を争うルールを思いついたのだ。人間、失敗から学ぶものだ。

そしていよいよ合戦の始まり。高木軍とともに入場してきた守備兵は総勢10名ほどで、確認できるだけでもタノムサク鳥羽、Mr.マジック、唯我、よしえつねおなど一人当たり平均3000石程度で雇われた感がありまくりの皆さんが顔を揃えた。その中へ、東京のファンにとっては見知らぬ若者がいたことに気づいた観客は少ない。

彼らの名は岩本煌史と石田慎也。彰人と同じスポルティーバエンターテイメント所属で、11月4日に開催された「愛プロレス博2012」にてデビューしたばかりの新人である。なぜ、そのような無名の2人が守備兵として雇われたかというと、これは彰人と同様「尾張名古屋は城で持つ」と言われるように、城のスペシャリストとして名古屋在住のプロレスラーに白羽の矢が立てられたわけだ。万全を期すべく高木軍は、2人に加えチームでらで入江の後輩に当たる若手・蓮香誠も陣容に加えて揺さぶりをかける念の入れよう。

じつは前夜、名古屋を発つ前にスポルティーバ・斉藤会長から激励される3人を目撃している。斉藤氏は、おもむろにスポルティーバのTシャツを取り出すと「これを持てい!」と言いながら岩本と石田に手渡し「城主の高木さんのお役に立てるよう、しっかりお務めを果たしてこい。武運、祈っているぞ!」と、プロレスラーになって初めて都へといく若者を送り出した。

傍目から見ればひと山いくらの大部屋守備兵にしか映らぬが、それぞれのお国から派遣された者たちには、そこへ残してきた家族や仲間たちがいる。それが戦(IKUSA)というものだ。

ただし、力の差が如実に表れる非情さも戦の常。高木軍の城を死守し、その名を馳せて一旗揚げんとする守備兵たちを赤子の手をひねるかのごとく蹴散らしたのが、ドリフ軍に4万8000石で雇われた信州のぴんころ大地蔵こと大鷲透。勇ましい兜を装着し刀を振りかざす守備兵たちを、大阪名物ハリセンひとつで一網打尽とするその姿は、まさにひとりフウガとライガ状態。こんな男が門番としてそびえ立っていたら、石川五右衛門だろうが風車の矢七だろうがなんびとたりとも侵入は不可能。期待の尾張勢3名も北斗の拳のザコキャラのごとく光の速さで討ち獲られてしまった。

1560年の桶狭間の戦いにおいて、今川義元軍が圧倒的な軍勢を誇りながらその過信を突かれ織田信長軍に敗れた教訓を、高木軍はまったく生かせていなかった。こうなると、本丸をめぐり主力3人同士の戦いにより雌雄は決する。ここでドリフ軍は現代の火縄銃と言われるタライをまさかの連発。これにより大石が戦線離脱し、残る高木と彰人も本丸へ投げつけられると、せっかく朝早く起きて会場入りしてまで組み立てた無数のイスが、儚げに朽ち果てた。

その場のノリや単なる思いつきではなく、綿密な戦略と戦場の地形を読むこと(バルコニーの上からタライを落とすのはそれなくして不可能)が戦に勝つ上で何よりも重要であるのは、戦国の世から変わらぬトラディショナルスタイル。高木軍が3連敗を喫したのも、自明の理というのが歴史学者たちの一致した見解である。

敗軍の将となった高木は、落武者となりなんとか国へ帰還したものの、待っていたのは実娘からの非情なるひとこと「パパは頭おかしいねえ」というところまでを含め、この合戦は100年後ぐらいに日本史の教科書へ掲載されることだろう。歴史はこうして築かれていくのである。