名古屋国際会議場でウルトラマンとパンダの特写をしたオハナシ | KEN筆.txt

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鈴木健.txtブログ――プロレス、音楽、演劇、映画等の表現ジャンルについて伝えたいこと

名古屋のプロレスにとって、愛知県体育館がメッカであることはこれまでも何度か書いてきました。力道山が活躍した日本プロレス時代から、新日本プロレスと全日本プロレスの2団体時代までは、名古屋市内の興行がここ以外でおこなわれるはおそらく数えるほどしかなかったと思われます。

ところが1988年に新生UWFが、翌年にはインディーのFMWが旗揚げすると、いきなり1万人規模の会場でやるというわけにはいかなくなりました。そこで発掘されたのが露橋スポーツセンターだったわけです。

90年代に入ると団体の数が次第に増え、ますます興行の規模に見合ったハコを求めるようになります。多団体時代が進むとともに、名古屋は東京、大阪に次ぐプロレス興行の激戦地と化しました。露橋以後で。新たにプロレス会場として使用された施設を列記しましょう。

名古屋国際会議場、名古屋市体育館、稲永スポーツセンター、中村スポーツセンター、愛知県武道館、枇杷島スポーツセンター、中スポーツセンター、名古屋市総合体育館第2競技場&第3競技場、etc…

これらの中で、露橋に続きプロレス会場となったのが名古屋国際会議場でした。同施設は1990年4月に開設されましたが、翌年5月5日にFMWが初めて使用したのです。

 



当時、私が在籍した『週刊プロレス』では、新会場が発表されると大会がおこなわれる前に紹介する「会場ガイド」を不定期で掲載していました。FMWの日程が発表になったあと、別の団体の大会で名古屋へいったさい取材した記憶があります。

つまり、プロレス会場として初使用されるよりも前に私は名古屋国際会議場へ足を踏み入れていたのです。その頃はまだ昔ながらの体育館が主だった中、板場ではなくカーペットが敷いてあるコンベンションセンターとしての造りは新しく、なんとなく違和感を覚えたものでした。可動式の客席も珍しく、同行したFMWの営業スタッフさんが「これが便利でいいんですよ!」と、自分のことのように胸を張っていたのも懐かしい。

多目的ホールとして、4つのホールが隣接する名古屋国際会議場。プロレスで使用されるのは正面入り口を入って右側にあるイベントホールで、コンサートなどがおこなわれるのが左のセンチュリーホール。2つの間を突っ切ると中庭に出るのですが、そこにはレオナルド・ダ・ヴィンチ幻の作品であるスフォルツァ騎馬像がそびえ立っています。

こうした独特のロケーションを見つけると、記者ならば「ここで特写をしよう」と思うもの。プロレス雑誌は試合を追ったり、インタビュー取材をしたりするだけではありません。面白そうな“絵”や絶好の風景が撮れるところへ選手を連れ出し、グラビアを作るのです。それを特写と呼んでいます。

名古屋国際会議場大会がおこなわれるシリーズには、メキシコからアミーゴ・ウルトラとパンディータという選手が来日していました。どちらも全身コスチュームのマスクマン…いや、パンディータにいたってはパンダの着ぐるみそのものです。

そんなウルトラマンとパンダの風体をした2人(1人と1匹?)が、勇ましいスフォルツァ騎馬像をバックにポーズをとったら、それだけで絶大なるインパクトがあります。カッコいい風景の中にカッコいいプロレスラーではなく、ちょっとオマヌケなキャラクターだからこそ、誌面を開いた瞬間にそのアンバランスさが読者の目を引きつけるのです。

その日、いつもよりも早目に会場入りした私はさっそくウルトラとパンディータを連れて中庭にいきました。根が陽気なメキシカンはこういう場合、率先してポーズをとって協力してくれます。

定番のシュワッチポーズをとるウルトラの隣では、パンダが両手を「バァ!」という感じで開いて愛くるしくおどけます。ただ、これも当たり前といえば当たり前。次はウルトラにパンダのポーズを、パンダにシュワッチポーズをリクエストします。

そうこうしているうちに、こちらもだんだん悪ノリしてきます。ついには「お互いのマスクを交換して被ってください」と頼むと、嫌がるどころか本人たちも面白がって替えました。

顔はパンダなのに首から下がウルトラマン。その隣にはウルトラマンの顔したパンダ。この頃はフィルム撮影のカメラでしたが、今だったらデジカメですからその場でディスプレイを見て確認し、みんなでゲハゲハと笑い転げていたに違いありません。

そんな楽しい特写をやっていると、観戦に訪れたファンの皆さんが集まってきました。そういった人たちが取材の妨げにならぬよう仕切るのも記者の役目です。幸いなことに、皆さん節度を守って見学してくれました。

「じゃあ、撮影も終わりですので最後に皆さんで記念撮影をしましょうか」

ご協力いただいた御礼代わりにと思い私がそう言うや、待ってました!とばかりに30人ぐらいの人たちがウルトラとパンダの元に集まりました。スフォルツァ騎馬像をバックにした集合写真は、じっさい特集グラビアを掲載したさい大きく載りました。皆さんにとってはいい記念になったことと思われます。

それから十数年が経過し、私は大阪に住むKさんと知り合いになりました。そこで思わぬことを明かされたのです。

「昔、名古屋国際会議場でウルトラとパンディータの取材をやったじゃないですか。あの時、最後に記念撮影したファンのひとりが僕なんですよ」

Kさんは、たまたま早く会場についてやることがないから中庭をブラついていたら、ウルトラとパンディータが写真を撮られているのでなんだろうと思い、近づいたのだそうです。そんなエピソードも含め、私にとって名古屋国際会議場における初取材は強く思い出として残っています。

そして――じつはこの日、プロレス界的にも歴史に残る出来事があったのです。それについては次回、書きたいと思います。