“あの頃の週プロ”を支えた植木真一さんへ最後に渡す週プロ野郎 | KEN筆.txt

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BGM:坂本龍一『The Seed』

 

※当エントリーは11月に書き終えていたものでしたが、どのタイミングで公開するべきか迷っていました。でも、故人が遺した知られざる功績を一人でも多くの皆さんの心に刻んでいただきたいこと、そしてともにあの時代を週刊プロレスで生きた一人としてできることを熟考した結果、年内に公開することとしました。ご理解のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。

 

 

11月16日に更新されたターザン山本さんのコラムで、週刊プロレス時代の先輩だった植木真一さんが9月1日に亡くなられていたことを知った。山本さんと同い年だから、享年71となる。

 

植木さんは“あの頃の週プロ”を支えた方だった。あの頃とは、私がアルバイトとして編集部へ潜り込んだ1988年前後から90年代の「活字プロレス」をウリとしていた時代である。

 

通常、雑誌は取材記者やライターといった書き手と、記事やタイトル、写真選びを含めた編集作業を担当するエディターによって作られる。漫画誌に置き換えるとわかりやすいだろう。漫画の原稿を描く先生と、それを受け取り雑誌に載せる編集者が別であるのは誰もが知っている。

 

雑誌も本来はそうであり、じっさい同じベースボール・マガジン社の他の編集部はあくまでも社員が編集し、そのための材料(原稿)を各方面に依頼するのが仕事だ。だが週プロの場合、その両方を編集部員が担当している。1983年7月より『月刊プロレス』が週刊化したことからこのスタイルに変わった。

 

編集者が取材し、執筆するととともに週プロは署名原稿となった。主観を含めた書きたいことを書く代わりに、記者一人ひとりが自分の記事に対し文責を持つという姿勢でもあった。

 

今でこそ主観や一人称に頼らぬ文章の難しさや美しさが理解できるのだが、駆け出しの頃は自分の名前で記事が載るのは夢のようなことだった。それも全国を駆け巡って取材し、書けるのだ。

 

もしも従来通りのスタイルで週プロが作られていたら、もっと違ったカラーの雑誌になっていただろう。つまり、自分以外の誰かが会場へいって試合を見て書いたものにタイトルをつけ、グラビアに載せる写真を選ぶだけということになる。

 

プロレスが好きで編集部へ潜り込んだのに、それが現場で見られない。あの頃の週プロへ属した記者の誰一人として、耐えられなかったはずである。でも、じっさいにそうしたポジションを務めていたのが植木さんだった。

 

我々が編集記者だとすると、植木さんこそがたった一人となる生粋の編集者。当時の週プロはカラー&モノクロのグラビアと“ザラ紙”と呼ばれる活版ページによって構成されていた。

 

植木さんはその活版ページの担当。16ページ分を「1折り」とし、2折り分、計32ページに編集長が書く巻頭記事、連載もの、読者投稿コーナー、細かいニュース、広告等が配分される。

 

1週間のうちまず金曜に1折り分の下版がやってくる。そこには連載モノを詰め込む。小ネタ集の「アフターアワーズ」や山本さんの「ザッツ・レスラー」、漫画、木曜までに届いたリリースといったところは、月曜の最終締切を待たずして“下ろす”ため、その後の修正はもちろん効かない。本でいうなら中カラーをはさむザラ紙ページ前後各8ページ分がそこに当たる。

 

そして校了日の月曜はもう1折りを下版。巻頭記事、残りのニュースネタ、そして主力記者が担当制で書いていた「編集部発25時」と編集後記等がそれに当たる。

 

これらすべての原稿を植木さんが受け取り、外注の記事に関しては見出しをつけ、カット写真も選びその説明文(キャプション)をつけた。週刊化されるより前に東京スポーツ紙の整理部から移籍して来て以来、本当に脇目も触れることなく毎週まったく同じペースでキッチリとこなしたのだ。

 

記者ではなかったから、誌面で触れるさいは植木さんの肩書きを「デスク」とした。これは編集長や次長のような会社の正式なポジションとは違う。いつ、どんな時も机の上が仕事場という意味をこめてのものだった。

 

本来のデスクとしての業務である取材シフトの決定やページ割りといったものは編集長と次長がやっていた。マニアックな読者は「バトルロイヤル」という雑記コーナーを読んでいただろう。今は違うが、当時は記者だけでなくカメラマンにも振っていたのだがそのどちらでもなかったのが「植木」という署名だった。

 

つまり、植木さんが誌面上で吐き出せるのは数週に一度まわってくるその時のみ。自分の記憶に間違えがなければ「週プロの人間全員が観戦記を書く」という山本さんの発案で、SWS旗揚げ戦横浜アリーナ大会(1990年10月18&19日)に足を運んだのが唯一の“特例”だった。

 

1ページを四等分した程度のリポートだったが、自分で指令を出しながらその誌面ができると「おい市瀬、植木さんまで書いてるんだからなー! 傑作だなあ、ガハハハハッ!!」と山本さんは受けまくっていた。現場に出たら出たで大なり小なりストレスは生じるものだが、一年中内勤に専念することを思えば我々がどちらを選ぶかは明白だった。

 

「植木さん、会場にいってプロレスを見たいと思う時はないんですか?」

 

口には出さずとも、みな一度はそう聞いてみたかったはずである。まったくの門外漢だったり、ジャンルに対しまるで愛着がなく仕事として向かい合っていたりならともかく、植木さんは自分の立場から適切な距離感でプロレスと携わっていたからだ。

 

でも、毎日黙々と自分の役割を全うするその背中を見ていると、それを聞くのは失礼な気がした。だから植木さんがいることで、自分たちは好きなだけプロレスを見て、記事が書けるのだという感謝の思いを持ち続けるようにした。

 

▲まだ私が編集部へ潜り込む以前のある年の忘年会におけるショット。編集スタッフだけでなくカメラマン、デザイナー、印刷所、製版所の方々も参加している。右から3番目に写っているのが植木さん。一番右が山本さんで後列真ん中の白ワイシャツ姿が初代編集長の杉山頴男さん、その左隣が加藤毅さん。植木さんの下から顔を出しているのが“鉄人”石川一雄カメラマン、2列目杉山編集長の下が布施鋼治さん、左隣が斎藤文彦さん、安西伸一さん、前列の赤い服を着ているのが宍倉さん

 

植木さんは寡黙だったりとっつきづらかったりするような方ではなく、むしろ山本さんが何気なく振ったことに対し絶妙なひとことで返す頭の回転の速さもあった。自分からムダ口は叩かず、日中は入れ替わり立ち替わり編集部に顔を出すフリーやカメラマン、取引先の会話相手となった。

 

声を荒げるようなことは一度もなく、いつも冷静沈着。ただし、締切が近づいてくるとさすがに少しは気持ちが出る。

 

「鈴木君、週プロ野郎できあがった?」「すいません! あと50行ぐらいなんでもうちょっと待ってください」

 

植木さんが唯一こぼす感情、それは原稿の仕上がりが遅い時の“苦笑”だった。それもけっしてこちらにプレッシャーをかけるような嫌らしいリアクションではなく「そうか、じゃあ帰るまでもう少しかかっちゃうな」程度のもの。

 

じっさい、最後の原稿を印刷所へ送り校正が済めば我々取材記者と違い植木さんは帰宅できる。金曜の下版日、週プロ野郎を書いていた私は遅筆の常連だった。月曜の校了日は、山本さんが印刷所にこもり巻頭記事を書き上げる。

 

植木さんが週に一度編集部を出るのはその日のみ。山本さんと一緒に印刷所へいき、書いたら原稿用紙を担当者へ渡しゲラが出されると校正する。

 

その間、ニュース・スクランブルなどほかのページの入稿、校正もする。そんなギリギリなことを当時は毎週月曜にやっていた。原稿が煮詰まると山本さんは「植木さーん、シンドいなあ!」と叫んだ。そのたびに、ひとことながら毎回違った返しをするのが2人の呼吸だった。

 

山本さんが太陽のように煌々と輝く父ならば、植木さんはそれを月のごとく陰となりながらひっそりと支える母的存在だった。宍倉清則次長でさえお二人の10歳下だから、それ以後の世代である我々は同僚というよりずっと年が離れた後輩、あるいは部下にすぎない。

 

常に判断を迫られるトップはいつでも孤独である。そんな山本さんにとって同い年の植木さんの存在は、普段こそ気づかぬとも本当に大きかったのだと思う。

 

編集部の忘年会会場へ向かうさい、たまたま一緒に出た時が植木さんとざっくばらんに会話ができるタイミングだった。着いたら、取引先の相手をするのがデスクの役どころだった。

 

つまり、ライター陣だけでなく印刷所や製版所などの外注先との潤滑油も植木さんだった。1988年、アルバイトとして編集部へ潜り込んだ私は雑用からスタート。そのひとつが電話番である。時々、プロレスラーからかかってきた時には胸がときめいたものだったが、中には憂うつになるケースもある。

 

「植木さん、いてるか?」「植木はただいま外出しております。どちらさまでしょうか?」「おまえ、俺がわからんのか!? 話にならんわ!」

 

在りし日のミスター珍さんである。まだFMWで現役最年長最古参レスラーとしてカムバックする前、活版ページで連載していたのだが、向こうとすれば週プロの人間であれば名乗らなくてもわかるだろという認識だった。

 

「植木さん、珍さんに怒られてしまいました…」「ああそう。まあ気にしないでいいよ。珍さんには俺の方から入ったばかりの子だったんでって言っておくから」

 

プロレスラーや関係者だけでなく、読者からも「あんな記事を書きやがって!」と一方的な電話がかかってくる時がある。ほとんどは私と、同期の小島和宏記者が対応するのだが、植木さんは相手がどんな感じできても冷静沈着な受け答えをしていた。

 

受話器を置いたあとで「まったく…こっちが黙って聞いてりゃ調子に乗りやがって!」などというようにもならず、何事もなかったかのようにデスクワークへ戻るのだ。私が入るよりも前から、入稿形態が全面デジタル化された2000年代頭まで、週プロの人間は植木さんとそんな日常を共有してきた。

 

デジタル入稿になったことで活版印刷がなくなった。植木さんは60歳で定年を迎えたあとも数年ほど嘱託社員として編集部へ残り、ザラ紙ページのレイアウトと編集を続けた。

 

その契約も終え、いよいよ退職することになったその日も植木さんはキッチリとしたスーツを着て出社し、各編集部への挨拶回りを終えて自分の机の上をチリひとつないまでにきれいにすると「それじゃあ」とだけ残して去っていった。本当に、いつも帰宅する時とまったく同じ感じだった。

 

残されたデスクには透明な机上シートが張られたままだった。そこには長年業務で利用していたQ数表(文字の大きさの単位)や連絡先等のコピーをはさんであったため、文字が写ってしまっていた。

 

それが長きに渡り週プロ編集部へ植木さんがいた証だった。

 

おそらく、その後は一度もお会いする機会がなかったと思う。2年前からガンと闘病していたと知った瞬間は、まさかというのが正直な気持ちだった。

 

植木さんは、1時間ほど昼食に出て戻ってくると必ずヨーグルトを1個デザート代わりに食べていた。出勤だけでなく私生活や健康に関しても規則正しかったはずだし、酒にまつわる話も聞いたことがない。

 

あの頃の週プロのスタッフはみんながみんな、不健康な生活を続けていた。深夜作業、早朝帰宅、昼になれば取材地へ。食べることぐらいしか楽しみがないから、昼夜問わずジャンクフードやコンビニ弁当にパクつく。

 

そういう環境の中で仕事をしながら流されなかった植木さんのマイペース力は、誰にもマネできぬものだった。やはりどんな組織にもそういう存在は必要なのだ。

 

プロレスラーが輝くその裏には顔が見えぬ多くの社員、関係者、スタッフがいる。これはどの世界でも同じであり、表舞台に上がっている者だけの功績とは違う。

 

「ターザン山本時代の週プロが面白かったのは、ターザンだけでなくそれ以外の記者も個性があって、それぞれのリポートに読み応えがあったからだ」

 

後年、そんな声をウェブ上で見かける。じつにありがたい評価である。ただ、当事者の一人として言わせてもらえるならば、我々取材記者よりもまず、植木デスクの存在なくしてあの頃の週プロは成り立っていない。

 

1988年9月14日、当時は木曜発売である週プロの早刷りが編集部へ届く水曜日。その日が私にとっての初出勤だった。午前10時にいくと明かりが消されており、スイッチを入れてゴミ箱の掃除を始めると当時、フリーライターとして出入りしていた加藤毅さんができたばかりの号を取りにやってきた。

 

それから1時間ほどして植木さんが出社。「今日からアルバイトとしてお世話になります鈴木健です。よろしくお願いします!」ぐらいの挨拶はしたと思う。そして3番目に顔を出したのが布施鋼治さん。

 

布施さんもヨーロッパ留学から帰国したあと、フリーライターとして週プロで記事を書いており、主に新生UWFを追っていた。のちに増刊号のチーフとなり、そのサポートについて私は雑誌作りを学んでいく。

 

「布施君のようにやれば、プロの記者になれるよ」

 

植木さんは布施さんを見ながら、私に言った。挨拶のやりとりを除けば、これが週プロに入って初めての会話だった。

 

その後、布施さんはレスリングを中心とする格闘技ジャーナリストとして活躍されている。あれから29年以上もの時が流れた現実感などなく、あの空間を共有した者たちはついこの間に顔を合わせたばかりで、すぐにでも再会できるという感覚しかない。

 

だからこそ、植木さんと再会できぬことを頭ではなく気持ちで理解するには、もう少し時間を要する。その瞬間が訪れるまでに、ひとりでも多くの方に週プロを支えた方として存在を知っていただけたら…自分にはそれぐらいのことしかやれない。いっぱい、世話になったのに。

 

最後に挨拶を交わした日、植木さんはいつもと同じように「それじゃあ」と残していった。ならば、我々も71年間の人生に対し同じ言葉を送るのがいい。

 

「植木さん、お疲れ様でした」と。

 

あの頃、毎日のようにみんなで言っていたひとことが今、噛み締めるとまるで違う味がする。そしてこれも最後に伝えなければならないだろう。

 

「植木さん、お待たせしてすいません。最後にお渡しする週プロ野郎、書けました!」――。

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