FMWのルーツは新宿駅ホームのベンチ~高橋英樹×茨城清志トークバトル前編 | KEN筆.txt

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鈴木健.txtブログ――プロレス、音楽、演劇、映画等の表現ジャンルについて伝えたいこと

さる8月1日、池袋にて超戦闘プロレスFMWを旗揚げした高橋英樹さんと、元W★INGプロモーション代表・茨城清志氏によるトークショーが開催された。当日は、進行役を務めたのだが、選手が出演しないにもかかわらずマニアックなファンの方々にお集まりいただいたほか、ジャパン女子プロレス時代に2人と同僚だった山本雅俊リングアナウンサーにも足を運んでいただき、ところどころ話に入っていただいた。単にFMWvsW★INGという図式だけで語るのではなく、あの時代の団体関係者がどんなことをやっていたのかがよくわかる内容となったので、2回に分けて紹介する。
 
▲左からジャパニーズキニョネスこと高橋英樹さん、ヤマモこと山本雅俊さん、そしてイバラギングマイウェイこと茨城清志さんのジャパン女子フロント三銃士(写真提供:ヤマモさん)
 
鈴木 えー、これまでイバラギさんはFMWやW★INGにゆかりのある選手や関係者のトークイベントをおこなってきましたが、自分が表に出ることは頑なに避けていました。まるで何かから逃避しているかのように…でも、今日は見たところ債権者の皆さんはいらっしゃっていないようなので、ご安心ください。というわけで、どういう風の吹き回しなのか本人が表に出るというので、とりあえず身柄を拘束いたしました。本日の試みはチョー貴重だと断言できます。それではまず、13年間の空白を経てFMWを再興させました高橋英樹さんをご紹介いたします。高橋さんはFMW時代、営業部長として活躍された方です。そもそも、なぜこのタイミングでFMWをもう一度やろうと思ったのでしょうか。
高橋 前に働いていた全日本プロレスを、ジャイアント馬場さんの十七回忌を機にやめたんです。やることはやったなと思ったんですけど、FMWが13年前にああいう形でうやむやのうちに終わってしまって、それでもハヤブサは今でも車イスの生活を続けながら復帰を目指していると聞いて、FMWっていうのをやれるのは俺しかいないと思ったんですね。それで支援者の方々に相談したらやりましょうと言ってくれて。
鈴木 その支援者の中にこの方(イバラギ氏)は入っていたんですか。
高橋 あー、頭のどっかにイバラギさんのことは入っていましたよ。基本的に仲いいんで。フロントはFMWvsW★INGとかないと僕は思っている。同じ釜の飯を食った人って、そういうもんでしょう。そこに座っているヤマモ(山本雅俊さん)もそうであって。
鈴木 お二人が知り合ったのはどういう形だったんですか。
茨城 えー…ジャパン女子という団体があって、旗揚げ前だったな。自分はその頃、T紙(なぜか東京スポーツ紙とハッキリ言わない)の特派員みたいな感じでやってて、帰ってきてある人の紹介で江戸川橋にあった事務所にいったんです。ほんで、ドアを開けたらそっち系の人みたいなのが座っていて、それが高橋。隣にはすごく太った人が座っていて…浅子っていうんだけど。
高橋 サンボ浅子選手ね。
鈴木 本名の浅子文晴でジャパン女子の営業をやっていたんですよね。
高橋 『ビッグレスラー』に載っていた社員募集を見て、旗揚げした年(1986年)の3月に入ったんです。そのあとに山本さんが入ってきた。
茨城 俺がいったその翌日に(グラン)浜田がソチとエステル・モレノを連れてメキシコから帰ってきたんだっけか。
鈴木 高橋さんから見たイバラギさんの第一印象は、やっぱり胡散臭かったですか。
高橋 胡散臭かったっていったら胡散臭かったかな。その頃は浜田さんがブッカーをやるってなったんですけど、やっぱりレスラーだから好きにやられてしまうとなって、それで英語が喋れる人はいないかっていうことで…イバラギさんが登場したんじゃなかったっけ? (紹介したのは)永島(勝司)さん? ウォーリー山口? あれ? フランク井上?
茨城 (モゴモゴ何かを言うが聞き取れない)
鈴木 ねっ、言葉を濁すでしょ?
茨城 濁してないよ! 横井さんっていう人がいて、その人の紹介だよ。誰も隠してないよ。
鈴木 要は外国人選手を呼ぶためにジャパン女子へ入ったと。
茨城 それまではマスコミだったわけだからフロントはやったことないんだけど、プロレス関連の仕事に就けるんだからいいかなって。
鈴木 それでじっさい、どんな選手を呼んでいたんですか。
茨城 んーと、シェリー・マーテル。マッドドッグ・バションの妹でビビアン・バション。タッグのルナティックス。
鈴木 デメンティアもそうだったんですか。
茨城 そうなんだけど、デメンティアは俺がやめたあとに来たんで、その分のギャラをもらっていない。
鈴木 それを今、ここで言われても。数えるほどしか呼んでないんですね。
茨城 そんなことないよ!
山本 1シリーズ4、5人呼んでいました。
鈴木 それでメキシコからは浜田さんが呼んでいたと。モンスター・リッパーとか。
高橋 モンスター・リッパーってメキシコなの?
茨城 カナダ、カナダ。メキシコでもやっていたけど。
鈴木 その時、高橋さんは営業を?
高橋 営業と広報をやっていました。
鈴木 ジャパン女子で一緒だったお二人のうち、どちらが先に離れることになるんでしょうか。
高橋 ジャパン女子って旗揚げしてすぐ給料が出なくなったんだよね。8月に後楽園で旗揚げして、翌々日の大宮スケートセンターがガラガラ。
茨城 プロレスの興行に関しては素人の集まりなのに、大阪城ホールでやったよね。
高橋 少女隊呼んでね。
鈴木 それで早々とイバラギさんは見切りをつけたと。
茨城 (高橋氏に)当初は一緒にやめる予定だったのが居ついちゃったよね?
鈴木 イバラギさんと違って立場的にやめられなくなったんでしょう。
高橋 そうですねー。
鈴木 FMWができる前の年の12月に、ジャパン女子のリングで浜田さんと大仁田さんが試合をやりましたよね。あの時はいたんですか。
茨城 1月の頭にやめたから、いた。でも、FMWの前に話があって全女にいったんだけど、気持ちの上で今日やめて明日いくっていうのは嫌だったんで、ひと月遊んで。
鈴木 高橋さんはジャパン女子からFMWですか。
高橋 ジャパン女子で給料が出なくなって1年ぐらい経った時、ウォーリーから電話があって全日本プロレスの広報が胃に穴が開いてやめたんで、代わりを探していると。それでキャピタル東急にいって馬場さんと元子さんと面接して入ったんです。
鈴木 胃に穴が開いたって聞いているのにいくのはすごいですよ。それで、この二人がやめたあとも山本さんは残ったと。完全に被らされましたね。
山本 うらやましかったです。自由にやっているなーって。
鈴木 山本さんが苦労している時に、全女で気ままにガイジンを呼んでいたと。
高橋 よく山賊(全女が経営していたレストラン)でただ飯食っていたよね。
茨城 ただ飯じゃないよ!
鈴木 払ったんですか? 払ってないでしょ。
茨城 払ったよ! 当たり前じゃない。
鈴木 いや、その当たり前ができないからイバラギさんはこうなっているわけで…。
茨城 向こうとは時差があるからさあ、電話で会話するのにほとんど休憩がないんですよ。だから空いた時間を見計らって食いにいって、それで戻って…。
鈴木 そんな全部の時間いる必要はないんじゃないですか?
茨城 いや、それ以外にも雑務とか…あって…(語尾が聞こえない)。
高橋 一日中会社にいて「ハロー」しか言わない。
茨城 だって(山賊は)社員は100円引きだったんだよ。
鈴木 そんな全女と全日本に分かれたお二方が、どうやってFMWでまた一緒になったかなんですが。
高橋 大仁田さんはたぶん、イバラギさんに一番初めに相談しにいったんですよ。で、パイオニア戦志(の旗揚げ戦)で剛竜馬さんとやったあとあたりに、イバラギさんが俺に「いやー、ニタがね、女子プロも格闘技もミゼットも集めて団体を創るって言ってんだよ」って言っていましたもん。
茨城 俺が全女をやめたあと、ジャパン女子が2つに分かれたんだよね。
鈴木 いや、JWPとLLPWはもっとあとのことでしょ。
山本 いやいや、そっちじゃなくてジャパン女子とグッズの方を担当するJWPプロジェクトに分かれたんです。
茨城 それでそっちの部署から(どっちを指しているかは不明)ガイジンを呼べないかって言われて、いってみたら当時、コーチとして呼ばれていたニタがいた。それで近くの喫茶店で雑談をしていたら団体できないかなって話された。

イバラギさんは大仁田厚のことを“ニタ”と呼んでおり、それにちなんで1990年に大仁田がアメリカ遠征したさいペイントレスラーに変身したことから週刊プロレス・宍倉清則次長がグラビアで「グレート・ニタ」と報じ数年後、大仁田の別キャラとして登場。その遠征時のトニー・アトラス戦がコチラ。貴重なグレート・ニタ初登場映像だ
 
鈴木 あの時代、新日本と全日本以外で団体を旗揚げするというのは相当なことじゃないですか。聞いた時、率直にどう思いました?
茨城 資金面であるのかというのはあったよね。当時の大仁田は住むところがないぐらいの状態だったから。極端にいえば喫茶店のコーヒー代さえなかったから、新宿駅のホームのベンチに座って話していたよね。
鈴木 FMWは5万円から始まったというのが定説ですが、じつはその前があったと! 新宿駅ホームのベンチからFMWは始まっていたんですね。
茨城 それで何回か会って、後楽園飯店のところに喫茶店があったんだけど、そこにいったら雄介(ウォーリー山口)がいるんだよ。
鈴木 その時点で、2人の間で話は固まっていたんでしょうね。高橋さんに連絡したのはどの段階だったんですか。
高橋 連絡というよりも、やめたあともよく会ってはいたんですよ。そこでFMWのことを聞いていたんで。入るってなったのは、10月に旗揚げしてから…ああ、テッド・タナベが最初は営業をやっていたんだけど、やっぱり新興団体だけに知られていなくてうまくいかなかったんです。
鈴木 テッドさんもジャパン女子経験者ですよね。
高橋 それで営業経験がある人間はいないかってなって。俺はもう全日本をやめていたんですけど、そこに大仁田さんから連絡が来たんです。
鈴木 ということは、FMWへいくために全日本をやめたのではなく、その前の時点でやめていたんですね。胃に穴が開いたんですか?
高橋 ご存じの通りのキツさで。ただ、プロレスは馬場さんのところが最後だと自分は決めていたんで、ほかのところにいくという考えはなかったんです。それで芸能プロダクションの仕事をやっていたんですけど、テッドがやめて人がいないからどうしても来てくれと。それで12月の後楽園(日本初の有刺鉄線デスマッチがおこなわれた日)の翌日から合流しました。イバラギさんもいたな。あと荒井クン、W★INGのリングアナをやる大宝や営業の遠藤クンも。
鈴木 遠藤さんは営業ながら面白いアイデアを出す人でしたよね。あの馬込にあった小さい事務所へそんなにスタッフがいたんですね。
高橋 ウォーリーがやっていた「マニアックス」っていうショップを閉じて、そこが空いていたんで事務所に貸してもらったんだよね。地下にはリングもあったし。
鈴木 あのリングで、のちにプロレスラーになる人たちが練習しているんですよね。
高橋 邪道&外道に大塚(MEN'Sテイオー)もいたねえ。でも、入ってみたら最初から借金の山で。
茨城 人件費、維持費だけでもかかるわけだからね。
鈴木 旗揚げした翌年8月の汐留を迎えるまでは大変だったでしょう。
茨城 あれは国鉄の持ち物で俺、知っている人がいたんだよね。だから借りられたんですよ。
鈴木 イバラギさんがいたから伝説の地を借りられた!
茨城 知らなかった?(ドヤ顔)
鈴木 知らないですよ。ただ一日中電話の前に座っていたわけではなかったんですね。
茨城 仕事の鬼だから。
鈴木 (スルーして)高橋さんは当時、何をモチベーションに営業で頑張っていたんですか。
高橋 早く借金返して給料ほしいと。出なかったですから…憶えてますよね?
茨城 ……憶えていない。
鈴木 ああ、濁した! イバラギさんはもらうもんはもらっていたんじゃないですか。
茨城 そんな20年以上も前のこと、憶えてないでしょ。大宝たちは当時、10万だったのを憶えている。俺は最初、ベースボール(マガジン社=月刊プロレス誌の海外通信員を務めていた)で40万もらっていたからね。
鈴木 何、自慢してんですか。
茨城 それで、俺も大宝と同じ額だったっていうことを言おうとしたの。
高橋 でも、独身だったから俺もそれぐらいですよ。
茨城 俺、家賃10万以上のところに住んでいたからさ。
高橋 なんでそんないいところに住んでいたんですか!
茨城 いやー…(語尾が聞こえず)。
鈴木 やっぱり汐留以後はよくなったんですか。
高橋 まあまあよくなったかな。その前だっけか、人もだんだん呼べるようになって、イバラギさんがリッキー・フジをカナダから呼んだんだったよね?
茨城 まあ…ね。浅子もやりたいっていって来たりとかね。
高橋 工藤(めぐみ)たちもイバラギさんが連れてきたんでしょ?
鈴木 全女をやめた3人(天田麗文、コンバット豊田)を後楽園に招待したんですよね。なんだかんだいって、人脈は持っているんだよなあ。
高橋 そういうところだけは強いですよね。栗栖正伸さん、桜田さん(ドラゴン・マスター)を連れてきたのもイバラギさんのアイデアでしたよね。
茨城 栗栖はね、レスラーになる前から知っていたんですよ。ロサンゼルスのオリンピックオーデトリアムで当時、ベースボールの通信員をやっていた人に「こいつ、プロレスラーになりたいらしいぞ」と紹介されて。新日本に入ったあとに電話をもらったりしていた。
高橋 ポーゴさんもイバラギさんでしょ?
茨城 関川はパット・オコーナーのところにいく予定がダメになって、俺のところに連絡がきたんだけどね。
鈴木 こうして聞くと、けっこうFMWに貢献しているんですよね。そうそう、最弱空手家の異名をほしいままにしたレイ・バレラ&コディ・テンプレトンはどこから見つけてきたんですか。
高橋 あれは売り込みが来たんじゃなかったっけ? 団体をやっていると、海外から資料とか送ってくるんですよ。
茨城 旗揚げして、汐留前に大仁田とアメリカ遠征にいったんですよ。そのツアー中にウルトラマン(アミーゴ・ウルトラ)やワイルド・ブルマンを見つけて。
鈴木 ワイルド・ブルマン! 牛男の異名で鼻輪をつけて試合をするんですよね。当時、地方にいくと宣伝カーの荷台に乗せて「今日はこういう男が出場する」って街の中を走るわけです。
高橋 やったわ、やった。(宮城県)白石だっけか。
鈴木 さっき話に出た遠藤さんが鎖をくくりつけて、牛皮を羽織って角をつけたブルマンが「モーッ!」とか叫んで、地元の皆さんを驚かせるんです。それでなんかすごいのが来たぞって街の噂になって見に来るという。

ワイルド・ブルマンの貴重なお姿を見られるアメリカマットでの映像はコチラ。現地では「ブルマン・ダウンズ」を名乗っていた

 
高橋 あれも遠藤の発案だった気がする。
鈴木 李珏秀は?
高橋 あれは…あの“オヤジ”って言われた人でしょ?
鈴木 マネジャーの方ですよね。
山本 あの“オヤジ”って人は何をやっていた方なんですか。
高橋 ……。
茨城 ……。
鈴木 誰も知らないという。上田勝次さんは?
高橋 当時、大仁田さんは八王子方面に住んでいて、ジャパン女子の持丸社長さんが近くだった関係でコーチになったんですよ。それで上田さんもそっち方面でトラックの運転手をやっていたんだと思う。社長経由で紹介されたんじゃないですかね。
山本 持丸さんが「今度、オニッタっていうのが入るよ」っていうんですよ。
鈴木 外国人選手みたいですね。
山本 そうしたら来たのが大仁田さんで。プロレスファンでしたから、大仁田厚だ!って興奮しました。あれは大仁田さんがかわいそうでしたよね。大仁田さんは選手の面倒も一生懸命見ようとしたのに、選手側は嫌なやつが来たみたいに思うのってあるじゃないですか。
鈴木 当時、キューティー鈴木さんのイメージビデオが出たじゃないですか。
山本 『ジャンピングinエルニド』ですね。
鈴木 そうそう! そのビデオの中で、キューティーさんと大仁田さんの砂浜での特訓シーンがあるんですけど、どんな特訓をするのかと思ったら水をかけるキューティーに対し、コーチの大仁田さんが「そっちが水ならこっちは砂だーっ」とか言いながら砂浜の砂をキューティーめがけて投げているだけなんですよ…なんですか?
茨城 (別の話をしたそうだった)ビースト・ザ・バーバリアンっていたじゃない。パンフレットか何かで見ただけで、これ面白そうって住所も何もわからないのになんとか探し当てて呼んだの。
鈴木 名前だけで見つけ出すってネットがない時代であることを考えるとすごいですよね。汐留の話に戻すと、最後の方は売るチケットがなくなってしまって、ポスターを切って裏にマジックで書いて当日券にしたという伝説がありますが、本当ですか。
高橋 したかもしれない。全女や全日本でもそういうことがあったんですよ、昔は。
茨城 あの時、天候がよくなかったんですよ。ヘリコプター借りて空撮しようと思ったんだけど…。
高橋 ええ、本当に!? どこにそんな金があったのよ。
鈴木 なんでそんな勝手なことをするんですか。
茨城 いや、ビデオ用に。時間は忘れたけど飛び立って。結局、天候が悪くなって飛ばなくなった。
高橋 でもあの時、降らなかったでしょ。
茨城 雨が降らなかったら飛ぶってわけじゃないから。
鈴木 汐留大会で史上初の電流爆破デスマッチをおこない、大仁田厚がブレイクします。その後、1周年記念大会を両国国技館でやると発表しながら貸してもらえずに駒沢体育館に変更されましたよね。
高橋 やろうという発案はありました。それでじっさい貸してもらうよういったんですけど「デスマッチをやっているから貸せない」って言われました。しかも「お宅は1万人も集められるの?」とまで言われて。
鈴木 じゃあ、そこでOKが出たら本当に旗揚げ1年で両国やっていたんですね。その駒沢からビクター・キニョネスが登場しました。
茨城 俺、W★ING創るまでビクターとほとんど話したことない。
高橋 ソ連チーム(グレゴリー・ベリチェフ)も駒沢だったよね。
鈴木 駒沢の目玉として一度来日が発表されながら、結局来なかった空手家のゴールド・ウイリアムスはなんだったんでしょうか。
茨城 今聞いて、そんなのいたような気がするなあっていうぐらいしか憶えていない。初期は後藤も呼んでいたしね、フロリダにいたから。
鈴木 ザ・グラジエーターとかがそうですよね。
茨城 名前が地味だったから、グラジエーターって俺が考えたんだよね。
鈴木 グラジエーターの名付け親はイバラギさんだったと!
茨城 ただの“バーバリアン”をビースト・ザ・バーバリアンにしたのも俺。
鈴木 それはあまり重要ではないです。今をときめくウルトラマンロビンさんも2試合ほど出ましたよね。
高橋 (山形県)酒田でいなくなったんだっけ?
鈴木 いなくなったのではなく、酒田の平和を守ることを優先したんですよ。
高橋 ウルトラマンロビンもジャパン女子にいたんだよね。
茨城 何年か前にスポルティーバ? あそこにいったら飯食ってんだもん。
鈴木 ロビンさんだって飯ぐらい食いますよ。
高橋 FMWに来たウルトラって、最初は帰ってきたウルトラマンっていうリングネームだったでしょ。
茨城 あれは大宝の命名ね。
高橋 それが途中からアミーゴ・ウルトラに替わったのは、円谷プロに帰ってきたウルトラマンを使わせてほしいって話にいったんですよ。でも「ウチはもうウルトラマンロビンに使わせているからできない」って断られて。それでアミーゴに替えたんですよ。あれ、よく承諾取れたよね。
鈴木 取れなかったら名古屋の平和を守れないですから。
高橋 バルタニア星人とかもそうですよね。バルタン星人だと怒られるからって、あれは荒井クンだったな。
鈴木 そうやって、どうにか抜け道をみんなで考えた時代だったんですよね。ここに抜け道のスペシャリストもいることだし。
茨城 なんだよ、それ!
山本 ジャパン女子に福士っていうレフェリーがいて、そのあとに入ってきたのがタナベだったんですけど、そのあとにレフェリー志望で入ってきたのが尾内(隊員)だったんですよ。
高橋 当時、中京地区のファンをテッドと浅井クン(ウルティモ・ドラゴン)と尾内が牛耳っていたんですよ。
山本 浅井クンより尾内の方が先輩なんですよね。
鈴木 それは話がややこしいです。
山本 それで山本小鉄先生が浅井クンを連れてきて「ウチ(新日本)には背が小さくて入れないけど、練習を見てやってくれ」っていうんですけど、そこに尾内がいて浅井クンの方が「あ、尾内さん!」ってなって、尾内が「やあ、浅井クン元気?」って。メキシコへ修行にいきたいって言ったら「メキシコなんてやめなよ。ヨーロッパだよ、ヨーロッパ。ランカッシャーレスリングだよ」って今と同じ口調で。
鈴木 ロビンさん、ランカシャーではなくランカッシャーって弾みますもんね。
高橋 邪道&外道もヨーロッパでデビューしたんだよね。あと、ジャパン女子にいたウラ・キヨノも。
鈴木 ウラ・キヨノ?
山本 キヨ・ホンダのことですよ。
鈴木 キヨ・ホンダを知っている人いますか?(誰もいない)
高橋 だからさ、ジャパン女子ってティン・パン・アレイみたいなものでさ。
鈴木 YMO前のという意味ですか。
高橋 その後、世に出る数々の人たちがいた団体だったんですよ。
鈴木 それでイバラギさんはどの時点でFMWをやめたんでしたっけ。
茨城 大仁田が俺をやめさせようとしているって聞いたんだよね。ビデオ問題じゃないの?
鈴木 FMWのビデオは「ミラクル」というイバラギさんの個人会社が製作・販売していました。
茨城 クエストの社長さんに聞いたら、なんだかんだでビデオを作るのに100万はかかるという。そんな金は会社になかったから、じゃあ俺が作って会社にパーセンテージを入れますよっていうことで始めたんだけどある日、大仁田に呼ばれて大手のレーベルから出すことになったんで素材を貸してくれっていう話をされた。こっちは給料出ないからビデオの売り上げで食っていたわけだからね。それである日から会社にいかなくなった。
鈴木 ミラクルが出した最後のビデオは91年の「後楽園×2」ですから、そこまではいたことになります。
高橋 当時、大仁田さんはいろんな人に不信感を抱いていたと思うんですよ。FMWを一緒に作った大迫さん(初代W★ING社長)とか。
鈴木 組織が大きくなるとそういう歪みは出てくるものです。
茨城 その頃は関川も日本とプエルトリコをいったり来たりしていて、それで日本へ帰ってきたら俺がいなくて「イバラギはどこへいったんだ!?」ってなったみたい。それで渋谷かどっかで大迫和義と偶然会ったんだよ。その時に団体をやるっていう話を聞いたんだけど、あの人は格闘技へのこだわりがあった。それで仕方なくW★INGの前に「世界格闘技連合」って入れるようにした。
鈴木 我々は“セカクレン”と呼んでいました。
高橋 大宝と遠藤もやめるってなった時に、荒井クンと俺は「どうする?」ってなったんですよ。それでいろいろ考えたんですけど、ここまでになりながらFMWを捨てるのは嫌だよねってなったんです。
鈴木 FMWの3文字へのこだわりが踏みとどまらせたと。で、イバラギさんはW★INGを設立するわけですが――。(つづく)