マクドナル化


「マック」の仕事は、すべての作業をマニュアル化されています。

掃除も例外でなく、厨房や客席、トイレなどをどのような順番で、どの道具を使って何分で作業するのかが

細かく指定されています。

そのマニュアルに従って作業をすると、たしかに時間通りにぴったり終わります。

バイトは二人一組で、いちいち話しあったりしなくても、誰と組んでも同じ仕事が所定の時間に終わります。


この合理的な仕組を、「マクドナル化」と言います。

社会学者のジョージ・リッツアが名付けたそうです。


マクドナル化の本質は、効率性、計算可能性、予測可能性、制御にあるそうです。


効率性とは、ある地点から別の地点に移動するための、最適な方法のことです。

マクドナルドは、お客さんに、空腹から満腹に移動するために利用できる最適な方法を提供します。

車から降りずにハンバーガーが買えるドライブスルーは、もっとも効率的な食事手段です。


計算可能性とは、食事を質(おいしさなど)ではなく、量や時間など計算できるものに還元することです。

マクドナルドでは、ビッグマックやダブルチーズバーガーなどの大きさ(量)と、商品を手渡すまでの迅速さ(時間)

が重視されます。


予測可能性とは、マクドナルドが提供する商品とサービスが、世界のどこででも同一だという保証のことです。

マクドナルドの従業員は、世界中でこででも同じような振る舞いをします。

「意外なおどろきがない」ということに、大きな快適性があると思われます。


制御とは、「人間の技能にたよらない技術体系への置き換え」のことを言います。

マクドナル化した社会では、カンナで木を削ったり、包丁で魚をおろすような修練が必要な技能は、だれでも

すぐにできる非人間的な技術体系に置き換えていきます。


マクドナルドのドリンクマシンは、カップがいっぱいになると自動で止まります。

フレンチフライ機は、ポテトがカルカリに揚がったところで、カゴが油から引き上げるようになっています。


マクドナルドの合理的生産手段は、合理主義の考えが進化して、ぼくたちの社会のすみずみまで

支配することになります。


ぼくたちは、合理化された教育制度(マンモス大学)から合理化された職場(マクドナルド)へ、

合理化された家庭(高層マンション)から合理化されたリクリエーション施設(デイズニーランド)

へと以降しています。

最近では、旅行(パックツアー)や自然体験(RVで過すキャンプ場)など、ぼくたちは「合理性」という

目に見えない鉄の檻に閉じ込められています。


ぼくたちが暮らす社会は、ファーストフードやコンビニ、ドラッグストアーから、衣料品、メガネ、

家具にいたるまで、あらゆるものがマクドナル化されています。

飲食店はもちろん、医療機関や教育産業、宗教までもがお手軽で効率的な「マック化」しています。


ぼくたち消費者が、安さと快適さの両方を求めれば、企業はその需要に答えるために、合理化を進めて

マクドナル化していくのです。

そして、カクドナル化された職場で働く人が増えていきます。

消費者が安くて快適な商品やサービスを求めることで、製造業やサービス産業の現場では、合理化が加速

されるのです。


マックジョブは、だれがやっても同じことができるようにシステム化しているので、世界中の労働者と

代替可能になります。


市場のグローバル化とマクドナル化は、押し止めようのない巨大な潮流で、高度化した資本主義社会では、

いづれはマックジョブ化するだろう。

マニュアルに従うだけの仕事に、個人の判断や創意工夫は必要ありません。


マックジョブは、その性格上、不定期で短時間の仕事がしたい学生や主婦に最適な働き方です。

しかし、マクドナル化が労働市場を侵食することで、常勤の労働者にまで、マックジョブという合理化が

広がってきました。


マックジョブは、若者のアルバイトから高齢者の仕事に変わっていきます。

能力主義社会では、労働者は学歴・資格・職歴の三つで評価されます。

マックジョブには、学歴も資格も関係ないから、残る評価基準は職歴(経験)になります。



能力主義には年功序列がないので、経験が評価の基準になることで、職場で長く働いている労働者が年齢を

理由に解雇されることがなくなります。

ただし、未経験の若者と同等の給料で働くことが前提ではありますが。


ひとつの兆候があります。


アメリカの航空会社をみてみると、キャビンアテンダントが高齢なことに気づきます。

同様に、アメリカでは、マクドナルドやピザハットやスターバックスでは、たくさんの高齢者が働いています。


労働機会のほとんどがマックジョブになってしまえば、金銭的な報酬を得るためだけに、日々の糧をえるための

労働をするようになります。


グローバルな能力主義の社会では、労働者は「能力」によってクリエイテイブクラスとマックジョブに

二極化します。

そして、その大半が低賃金のマックジョブの労働者になるのです。

そして、マックジョブを若者と高齢者が取り合うことになるのです。
ぼくたちは、みんな投資家で資本家である。


経済学者のベッカーという人がいます。

この人は、「労働と投資は同じ」という主張をした学者です。


この考えは、ぼくたちに「働く」という行為の価値を変えた革命的なイデオロギーでもあります。

ベッカーは、ひとは誰でも働いてお金を稼ぐ能力を持っていると考えます。

これが、「人的資本」で、ぼくたちはみんな人的資本を持っていると考えるのです。

その人的資本を労働市場に投資して、報酬という利潤を得ている経済行為と考えるのです。


この考えは、労働市場が効率的ならリスクとリターンは釣り合っているはずだからハイリスクのベンチャー起業家は

成功すれば大金持ちになり、ローリスクの会社員はかつかつの生活しかできない。


人的資本から得られる利益は、投資と同じように、元本とリスクの大きさで決まります。

人的資本をたくさん持っている人は、小さなリスクでも十分な利益をあげることができます。

人的資本が小さな人は、大金を稼ぐには大きなリスクを取るしかありません。


ベッカーの考えを取り入れれば、資本主義社会では金融資本を金融市場で運用するか、人的資本を労働市場で

運用するかのちがいはあれ、だれもがひとりの投資家=資本家と考えることができます。


またベッカーの考えは、ぼくたちにライフステージによる経済的な戦略のちがいを教えてくれます。

若いときは資産家の子供以外は、金融資本が(貯金)が小さいから、お金を稼ぐには人的資本を投資することに

なります。

そして、家計に余裕ができて金融資本が増えると、それを株式や不動産市場に投資して利益を得ようとします。

年をとると人的資本はゼロになるから(だれも雇ってくれなくなる)、あとは金融資本(年金など)から得る収益で

生活するしかないのです。


市場は、老弱男女が入り乱れて、さまざまな立場の参加者が自らの利潤を最大化にするべく努力や競争の

ゲームを繰り広げるダイナミックな世界なのです。


大金持ちからニートまで、すべての人が資本家なのです。


では、人的資本とはなんなんだろう?

人的資本を知る簡単な方法は、いまの収入から逆算して生涯収入を計算することです。

その生涯年収を現在の価値に割り引けば、その金額が人的資本なのです。


一流企業に入社できれば、数億円の人的資本を持つことになります。

いままでは、いい高校を出ていい大学に入って一流といわれる会社に就職するという戦略は、経済合理的な

選択でありました。

これが、いままでの人的資本の考え方でした。

年功序列という日本的雇用が、それを支えてきたからです。


グローバル時代に入ったいまは、人的資本の考えが変わります。

簡単に会社が倒産したり、リストラされる機会が増えてしまいました。

そうなれば、人的資本はゼロになってしまいます。

年功序列という日本的雇用が崩壊したからです。


これからの、人的資本は何を基準に評価するのでしょうか?


それは、「学歴」・「資格」・「職歴(キャリア)」が評価の基準になるのです。


なぜか?

差別というのは、本人の努力ではどうしようもないことで、人を評価することです。

部落差別が理不尽なのは、ひとは出自を選ぶことができないからです。


この原則は世界共通(グローバル・スタンダード)なのです。


多様な属性を持つひとたちが混在するアメリカでは、人種や性別・宗教・年齢によって応募者の採否を決めたり、

従業員を評価することは厳しく禁じられています。


外資系の会社では、履歴書に記載を求められるのは、「学歴」と「資格」と「職歴」だけです。

日本は、生年月日や顔写真や趣味などの記載を求められます。

これは、世界共通(グローバル・スタンダード)の原則から言えば、明らかに差別行為なのです。

生年月日欄は、「年齢で差別します」ということを宣言しているようなものです。

顔写真は、性別や人種あるいは容姿で差別すると、暗黙に言っているようなものです。


人的資本を公正に評価する基準は、世の中にひとつだけです。

それは、「能力」です。


学歴による差別は大きな問題になってはいるが、一生懸命に勉強しなければいい大学に入れないのも

事実です。

ただ、学歴が評価の基準として公正だと言えるのはアメリカの場合であり、日本は異なります。

日本の場合、いい大学に入れるのは、お金持ちの家に生まれた子どもが多いという事実があります。

それは、教育にお金をかけれる家の子どもが、塾や家庭教師を雇って、子供を教育するからです。

同じ能力で、お金持ちの家の子供と貧乏人の家の子供では、学歴に差がでることになります。

本人の努力だけでは、選択できない理不尽なことです。


資格が労働市場で高く評価されるのは、取得の難しい資格は人的資本の大きさを示し、より多くの

報酬が支払われることを正当化します。


職歴は、本人の自由な選択の積み重ねだから、もっとも客観的な評価の基準になります。


いろいろな会社で重要なプロジェクトを任されていれば、それこそがまさに本人の能力を証明する

証になります。


能力主義が、なぜ道徳的に正しいのだろうか?

能力主義が、なぜグローバル・スタンダードになったのだろうか?


人的資本の評価基準が能力でないのなら、社員の給料を何で、差をつけるのだろうか?

人種で差をつける?

国籍の違いで差をつける?

性別で差をつける?

信じてる宗教の違いで差をつける?

思想や信条で差をつける?

容姿で差をつける? 

家柄の違いで差をつける? 

出自で差をつける?

こうやって考えれば、能力主義が差別のない平等な社会を築くための基本的なインフラだということが

わかります。


では、能力は努力で成長する?

労働が投資だと考えられた結果、「自分に投資して」人的資本を膨らませる流れが生じたのです。

こうして、能力主義社会になったのです。


効率的にお金持ちになる方法として、「自分に投資する」自己啓発の呪縛に囚われた現代社会を

どう思いますか?
前回は、行動遺伝学につてお話しました。

知能や性格は、運命のようなもので、努力によっては変わらない。

遺伝的な影響は、教育で変えることができないということを行動遺伝学は大量のデーターに基づいて

言っています。


自己啓発による「成功哲学」は、次のようなものです。

知識社会では、勉強すればするほど幸福になれる。(つまり、収入を上げることができる)



勉強できないのは、努力する習慣がないからだ。



習慣は、スポーツにおけるコツのようなもので、スキルとして伝達できる。



だから、自分が勉強する習慣を努力によって身につければ、勉強が習慣化する。



努力が習慣化すれば、それが報酬を生んで、ますます努力するようになる。



こうして、すべての人が努力によって幸福になれるというのである。


行動遺伝学は、これを否定しています。


このことを認めた上で、「成功」を目指すべきです。



ぼくたちは、働いてお金を稼がないと生きていくことができません。

労働市場という大きなマーケットがあって、会社に努め、各自の資力や能力に応じてお金をやりとりします。


ところが、労働市場には大きな問題があります。

それは、すべての能力や知能は平等に評価されないという事実です。

身体的運動能力や音楽的知能は、衆に抜きん出て優れていないと誰も評価してくれません。

会社の野球チームでホームランを打ったり、カラオケ大会で優勝するくらいでは、なんの役にもたたないのです。


それに対して、言語的知能や論理数学的な知能は、他人よりすこし優れているだけで労働市場では高く評価

されます。

ノーベル賞を取るような天才科学者になれなくても、医者や弁護士、大学教授、エリートサラリーマンとして

安定した生活を送ることができます。


知能というものは、ヒトが進化の過程で生き延びるために発達させてきたものです。

しかし、ぼくたちみんなが持って生まれた能力には得手不得手あります。


労働市場は、その中の特定の知能や能力だけを高く評価します。

これが、格差社会の原因です。


では、格差社会は悪いことなんでしょうか?

ぼくたちは、平等に扱われたいと思っていますが、格差社会はぼくたちに不平等な扱いをしているのでしょうか?


労働市場には、以前にお話した「比較優位」という市場の機能があります。

法律家のデキスギくんと、タイピストのシズカちゃんを題材にお話しました。


資本主義・市場経済社会は、上を目指す人がいる限り、競争に勝とうとする限り、経済効率を目指します。

だから、自由な労働市場では、能力が一番でなくても、比較優位の原理が働いて、みんなが仕事を得ることが

できるのです。

分業は、経済効率を目指した結果です。

お金持ちを目指さないならば、労働の分業化によって、能力や知能が劣っていてもそれなりに暮らしていけるという

ことです。


今までは。


グローバル世界の、いまは状況が大きく変わりました。

シズカちゃんはデキスギくんからタイプの仕事を得て、時給3000円をもらっていたとします。

だけど、中国にシズカちゃんと同じ仕事を300円で引き受ける陳さんがいたとしたら・・・・。


デキスギくんが経済的合理的な経営者なら、陳さんに仕事を頼もうと思うでしょう。

このように、労働市場がグローバル化するとシズカちゃんは仕事を失ってしまうのです。


日本がコメの関税を撤廃すれば、海外から安いコメが輸入されて、廃業する農家が増えます。

アメリカが日本車の輸入規制を行っていた、アメリカの自動車向上がつぶれて失業者が出るのを

恐れたからです。

貿易の自由化は、すべての国民が一律に幸福になれるわけではないのです。

労働市場の自由化は、すべての労働者に等しく富を分配するわけではないのです。

自由な労働市場では、もっとも貧しい人が、もっとも大きな比較優位を持っているのです。


だから、どこの国も関税障壁を設けたり、労働市場の開放に制限を設けているのです。


ところが、情報技術(IT)の発達が、国家の規制を無効化にしつつあるのです。

いまの時代は、インターネットで音声データーを送り、メールで文書ファイルを受け取ることができます。

外国人労働者の入国を取り締まっても、賃金格差がある限り仕事は海外に流出するのです。



労働者の分化と格差社会


グローバル化によって、3つの労働者が3極に分かれます。

①シンボリック・アナリスト・サービス

「シンボル(象徴)を操作する人」

独創的なアイデアや技術、高度な知識をグローバル展開できる専門家や芸術家のこと。


②インパースン・サービス

「銀行の窓口係やブテイックの売り子、飲食店の接客係のような対面で顧客サービスをする人」

こうした単純労働は、移民でもすぐに習得できるので、国際化によって移民に仕事が奪われていきます。


③ルーテイン・プロダクション・サービス

「製造業の労働者のこと」

工場に出かけて決められた仕事をするだけなら、世界中のどこでもできます。

グロバル化による企業の海外進出で、国内の仕事が奪われていきます。


全労働人口の8割がインパースン・サービスやルーテイン・プロダクション・サービスに従事する労働者です。

この人達は、グローバル化によって貧困層へ追いやられて行くでしょう。


この残酷な現実に、どう対処すればいいのだろうか?


「単純労働が国外に流出する以上、国内の労働者はシンボリック・アナリスト・サービスに従事する労働者を

目指すべきだ。」という考えと風潮が生まれたのです。

それが、自己啓発ブームの発端なのです。

豊かな国の労働者がシンボリック・アナリスト・サービスに従事する労働者を目指し、貧しい国の労働者が

単純労働を担えば、比較優位の交換によって、全世界のひとたちが豊かで幸福になれる。

だから、「教育こそすべて」という風潮が生まれ、セミナーや自己啓発教室などが全国各地で開かれるように

なったのです。
前回は、自己啓発と比較優位につてお話ししました。

今回は、厳しい現実の話をします。



知能の70%は、遺伝で決まる。


行動遺伝学のさまざまな研究の成果から、現在では身体的特徴だけでなく、知能や能力、性格なども

遺伝することがわかってきました。

遺伝は、ぼくたちが考えるよりはるかに大きい影響を持っているのです。


遺伝は、その人の人生に大きく影響を及ぼします。

ぼくがイチローのような野球選手になろうとしても不可能なのは、努力が足りないのではなく、運動選手

としての遺伝的適性がないからです。


運動能力の遺伝的適正は、当たり前のこととして、ぼくたちは受け入れています。


では、知能はどうなんでしょうか?

知能が遺伝することは、なんとなく、ぼくたちは分かっています。


しかし、「知能の低い親からは、知能の低い子どもが生まれる確率が高い」という主張はどうでしょうか?


「ぼくの成績が悪いのは、おとうさんに似たからだ。」とぼくたちは、言ったりします。

性格が遺伝するという主張は、どうでしょうか?

「性格の悪いのは、お母さん譲りだ。」と言ったりします。


また、「精神障害者の子供は、精神障害者になりやすい。」というのは、疫学的には否定しがたい事実として

学術的に認められています。


「犯罪者の子供は、犯罪者になりやすい」と言えば、不謹慎どころか反社会的でしょう。

しかし、最近の脳科学では、扁桃体の萎縮や前頭葉の低代謝によって、行動の先見性がなくなったり、

道徳的な問題が考えられなくなることが分かっています。

性格異常(サイコパス)は、脳の機能の欠損で、遺伝することがわかっています。


標準的な発達心理学では、知能や性格の違いはほぼ50%は遺伝によるもので、残りの50%が

環境の作用だと考えられています。

この環境とは、言うまでもなく親の育て方です。


しかし、親の子育ては、子供の成長になんの関係も無いといったら、どう思いますか?



東欧やアラブ、あるいはアジアからたくさんの移民がアメリカ合衆国にやってきます。

親はほとんど英語を話さず、子供には母国語で話しかけ、家庭の宗教的・文化的な雰囲気が家庭の中に

あります。

それでも、子供たちは、一年もたたないうちに流暢なアメリカ英語を話すようになります。

やがては、母国語を忘れて完璧なアメリカ人に成長します。


親が聴覚障害者でも、九割の子供はなんの問題もなく成長します。

聾者の子供は、親から一切の言葉を教えられないけど、他の子供達と同じように言葉を覚えます。


子供の成長に、親は必要ないのです。

なぜなら、子供の性格と知能の半分は遺伝によって作られるからです。

そして、残りの半分は家庭とは無関係な環境、つまり子供どうしの社会的な関係によってつくられるからです。


ぼくたちは生まれ落ちたときから、親や大人たちではなく、年齢の近い子供集団に同化することで性格を形成

するように、遺伝的にプログラムされているのです。

だから、自分が所属する子供集団の言語や文化を身につけ、集団の中での自分の役割を得ようとして成長

するのです。

集団への同化と集団ないでの分化によって形成された性格は、思春期までに安定し、それ以降は生涯

変わらなくなります。


一旦獲得した性格は、死ぬまで持ち続けるようにプログラムされているのです。

ばくたちは、長い進化の歴史のなかで、そう最適化されています。


行動遺伝学は、次のように言っているのです。

ぼくたちは、自己啓発しても、変わらない。

正確に言い直せば、僕たちの適正に欠けた能力は学習や訓練では向上しない。

「やれば、できる」ことは、あるかもしれない。

しかし、「やっても、できない」ことの方が多いのです。


この、「不都合な真実」は、受け入れるしかありません。

ぼくたちは、「やっても、できない」という事実を受け入れて、そのうえでどのように生きて行くのかという

「成功哲学」をつくっていくべきなのです。
「比較優位」の学説


ぼくたちは、みんな持って生まれた知能に得意手や不得意手があります。

前回は、自己啓発について書きました。

そして、能力にはさまざまあるが、市場はそのすべての能力を平等に評価するわけではないということを

書きました。


お金に換算して評価してくれる能力と、お金に換算して評価してくれない能力があるのです。

だから、経済的な格差が生まれるのです。


自己啓発でスキルアップを計る能力に、範囲が生まれます。

そこで、また自己啓発の競争が生まれます。

どこまで行っても、競争の世界です。

こんな世界で、安らぎが得られるのでしょうか?


経済的に豊かになって、安らぎを得たいと思って、自己投資して自己啓発をしたはずが、

さらなるレベルの競争の世界に、自分を置くことになるなんて。



イギリスの経済学者でデイビッド・リカードが唱えた「比較優位」という学説があります。

ある物語があります。

ある町には、子供の頃から優秀なデキスギくんとシズカちゃんがいました。

デキスギくんは、町一番の弁護士で、まち一番のタイピストでもありました。

シズカちゃんは、歌手になる夢を持っていましたが、あきらめてタイプの勉強をはじめました。


デキスギくんはシズカちゃんをタイピストとして雇いました。

デキスギくんは、法律家としてもタイピストとしても、シズカちゃんを絶対的に上回る能力を持っています。

経済学では、「絶対優位」といいます。


デキスギくんは、なぜシズカちゃんをタイピストとして雇ったのでしょうか?

経学の考えが、答えを出してくれます。


二人の能力を比較します。

法律家としての能力は、デキスギくんはシズカちゃんの100倍有能であるとします。

なぜなら、シズカちゃんは、法律の勉強をしていないから。

タイピストとしての能力は、デキスギくんはシズカちゃんの2倍早く打てるとします。

運動能力には限界があるから、せいぜい2倍でしょうから。


このとき、デキスギくんにとっては、法律家としての能力とタイピストとしての能力を比べた場合、

法律家としての能力を「比較優位」、タイピストとしての能力を「比較劣位」といいます。

能力が「優位か劣位か」ということは、他者との比較ではなく、自分自身の能力の比較であることに

注意してください。


なぜ、他者と比較しないのか?

それは、時間と経済が関係します。

デキスギくんが、1時間弁護士活動に費やした時間に対する報酬と、1時間タイプを打って費やした時間に対する

報酬の金額が違うからです。

デキスギくんにとっては、より多くの時間を弁護士活動に当てるほうが、タイプを打つ時間に当てるよりも、リターン

が大きいいのです。

だから、「法律家としての能力を比較優位」、「タイピストとしての能力を比較劣位」というのです。


デキスギくんは、この問題をどう解決すればよいのでしょうか?

そう、タイプを打つ時間を減らして、弁護士活動を増やせばいいのです。

だから、タイピストとしても能力が半分のシズカちゃんを雇ったのです。


自由な労働市場では、能力競争で一番にならなくても、比較優位を活かすことで、みんなが仕事を得ることが

できるのです。

自己啓発に励むことは必要でしょうが、競争に巻き込まれることはないのです。

他人より、優れている必要はないということです。

まさに、自分は自分であればいい。

オンリーワンです。
この世界は、残酷です。


この国は、大学や高校を卒業したものの就職できず、契約やアルバイトの仕事をしながら、ネットカフェでその日の

暮らしを続ける多くの若者がいます。


また、就職したものの過労死寸前の激務とストレスでこころを病み、孤独に落ち込んでいる人もいます。


小学生がいじめで自らが命を絶つかたわらで、老人たちは日本の膨大な借金に怯えて年金を払えと言ってます。

いまや誰もが言い知れぬ不安を抱き、グローバルな資本主義や市場原理主義を非難し、迷走を続ける政治に

不満を募らせています。


日本国は市場に余りにも無力で、希望は永遠に失われています。


いま、グローバルな時代を生き延びる方法として、自己啓発がブームになっています。

能力開発は、ほんとうにすべての人を救うのだろうか?


ぼくたちの暮らす市場経済のルールは、「働いてお金を稼がないと生きて行くことができない」というものです。

労働市場という大きなマーケットがあって、会社や取引先や消費者が各自の資力や能力(品質やサービス)に

応じてお金をやりとりします。

しかし、市場はいろいろな能力を平等に扱うわけではありません。

労働市場で高く評価される能力があるのです。


それが、格差を生むのです。
人的資本を最大化にしよう


資本主義・市場経済社会で生きていくということは、所有している資本(人的資本、金融資本)を市場に投資して、

利益を得ることです。

利益を得るとは、資本を増殖させるということです。

この経済活動を「企業(Enterprice)」といいます。


町の八百屋からトヨタ、ソニーのような大会社まで、市場の参加者を総称して企業といいます。


企業家とは企業の主体をいいますが、一般的には中小企業のオーナー社長をさします。

人的資本を投資しているという意味では、会社員(サラリーマン)も企業家だと思います。


企業には、個人企業と法人企業があります。

個人企業は、自営業者さんです。

法人企業とは、株式会社、有限会社、合資会社などの「会社(Company)」です。


会社は社会の中で、とても大きな役割をはたしています。

企業活動のための効率的な仕組みとして、考えだされました。

個人がばらばらに働くより、大規模で高速にお金を増やす(資本の増殖)ことができる企業体です。

法人格が与えられてます。


よく、サラーリーマンを続けるべきか、脱サラするべきかが問題になります。

この問いかけは、間違っています。

なぜなら、意識しているかどうかに関わらず、私たちはみんなが企業家なのです。

常に人的資本を最大にしようと企業活動をしているのです。



人的資本を最大化にするとは?

金融市場への投資(債権、株投資など)は、価値が金銭の多寡で計られます。

しかし、人的資本は、金銭以外のさまざまな基準があります。


一文にもならないけど、楽しい仕事。

人的資本を最大化にするとは、たんに多くのお金を稼ぐことではなく、その人にとっての満足度(充実度)

を一番大きくすることです。


しかし、お金がないと生きていけないので、お金がもっとも大事な基準になりますが。



サラリーマンと脱サラ。

会社勤めを続ける人と、ラーメン屋など脱サラして自営業をする企業家。

どちらも人的資本を投入して、リターン(報酬)を得ようとしていることは同じです。


とはいえ、サラリーマンと企業家では、決定的な違いがあるのです。

サラリーマンは、企業活動の主要部分を会社に委託(アウトソーシング)しているのに比べて、個人起業家は

企業活動のすべてを自分で行ってることです。


主要な企業活動とは、「会計・税務・ファイナンス」です。

会計は、収支や資産を管理する仕組みです。

税務は、所得税や消費税を国家に納税する経済行為です。

ファイナンスは、資金の流れを把握し、資本市場から効果的に資金を調達することです。


このどれをとっても、起業家にとっては生死を分かつほどの重要活動です。


サラリーマンは源泉徴収と年末調整のによって税務申告をしているので、手取り収入の範囲で生活して

いるだけなら会計も税務も必要ありません。


サラリーマンとは、起業家としてのコアー(核心)を切り離すことで、自らの専門分野に特化した人たちなのです。


よく知られているように、脱サラの成功率は高くありません。

一般には、三割程度と言われてます。

なぜ、成功率が低いのか?


いろいろな理由があると思いますが、ひとつにはファイナンシャルリテラシーの欠落があると思います。

経営学では、会計・税務・投資・資金調達などを「会計ファイナンス」といいます。

こうした知識をまとめて、「ファイナンシャルリテラシー」と呼びます。

リテラシーとは、「読み書きの能力」のことです。

知っているという、知識ではありません。できるという能力のことです。


純粋培養されたサラリーマンが、羅針盤もなく、海図もなく、市場の荒波に乗り出すこと自体が無謀なのです。

会社の財務状況を把握できず、余分な税金を払い、高い利息でお金を借りていれば、あっという間に難破して

しまします。

だから、脱サラ成功率が三割なのでしょう。
市場と資本主義


好むと好まざるとにかかわらず、資本主義と市場経済の中で生きていかなくてはなりません。


市場経済とは、「お金」という共通のものさしで物と物、物とサービスを交換する仕組みのことです。

資本主義とは、「もっと豊かになりたい」という人の欲によってお金を増やすシステムです。

この二つが合体した世界が、僕達が生きている資本主義・市場経済の世界です。


この世界でお金を獲得する方法は、ひとつです。


「資本を市場に投入し、リスクを取ってリターンを得る」

これだけです。


働く能力を経済学では、「人的資本」と言います。

会社員は、自分の人的資本(労働力)を労働市場に投入して、給料というリターンを得ています。

人的資本とは、「稼ぐちから」のことです。


知識や経験、技術、資格などによって稼ぐちからはひとりひとり違います。

大きな人的資本を持ってる人は、たくさん稼げます。

人的資本を少ししか持ってない人は、貧しい暮らしで我慢しなくてはなりません。


働いて得た給料から食費や家賃などの生活費を払って、幾らかのお金が残った場合、

このお金を資本金にして、資本市場に投資してお金を増やすことができます。

一般的な投資が「貯金」です。

これは、銀行にお金を貸して利息を得る投資です。

元本の返済が保証されているので、リスクが低い分リターン(金利)も低い。


株式に投資することもできます。

元本の返済が保証されていな分、リスクが高い分リターン(差損益)が大きい。


僕たちは、人的資本を労働市場に投資したり、金融資本(手持ちのお金)を資本市場(金融市場・不動産市場)に

投資して、生きる糧を得ています。


若いときは人的投資で稼いで、年をとって働けなくなれば金融資本と年金で生活するというのが

一般的なパターンでしょう。


人的資本の理論では、高い教育を受けた人ほど人的資本が高いとされています。

「高学歴=高収入」という法則です。

速読術、情報収集法、セルフマネジマントやコーチングなどの自己啓発術は、人的資本を高めて

より多くの収入を得ようとする戦略になります。


自己啓発という戦略の効用は、どうなんでしょうか?

みんなが同じように目指せば、少数の勝者と多数の敗者が生まれます。


お金と世の中の関係を徹底して考えることは、有効な行いだと思う。

自分がいきている世界の詳細な地図を手に入れることができれば、自己啓発なんてしなくても、

ほかの人より有利な場所に立つことができると思う。
自分の人生を、自分で選ぶ


契約社員は企業だけが一歩的に有利な雇用形態ではありません。

労働者は好きなときに好きな仕事をする自由を確保でき、能力次第では正社員よりも高い報酬がもらえます。


労働市場の緩和によって、子供を育てている女性が、フルタイムで働けなかった人たちが、仕事につけるように

なりました。


需要が限られているのに、すべての労働者が正社員になれるわけがありません。

ぼくたちが生きているこの世界は、資本主義・市場経済世界なのです。


雇用主である企業は、資本主義・市場経済世界で生き残りの競争をしているのです。

人助けをしているわけではないのです。



法律で労働者全員を強制的に正社員にすれば、企業は正社員を雇わなくなります。

あるいは、自由に雇用調整できる海外に出ていきます。



正社員とは?

窮屈な雇用契約で縛られた労働者のこと。


会社がつぶれてしまえば、結局なにもかも無くしてしまいます。

これって、「安定」を得る代償に、「自由」を売り渡すことではないでしょうか?


大企業に就職できたから安心?

磐石の財務基盤を誇ったトヨタ自動車は、2兆円の利益が一瞬で無くなってしまいました。

世界のソニーは、正社員を含む大規模な人員削減をおこないました。


公務員だから安心?

赤字自治体では、職員のリストラや賃下げが当たり前になります。


年金があるから、安心?

未曽有の少子高齢化に不況が加わって、年金財政が破綻するのは時間の問題です。

健康保険や介護保険だって、いまのまま続けられるわけがありません。


世界的大不況が教えてくれたことは、国や会社はなにもしてくれないということです。


国や会社に余力がないからです。


ましてや、グローバルな市場世界で一国家ができることはわずかです。

一国の力だけでは、ないも出来なくなってしまったのです。

それは、アメリカも同じです。


いまは、まさにグローバルなのです。

グローバルとは、そういう事でもあるのです。


自分のことは、自分でなんとかするしかないのです。

「自由」とは、理念や空虚なお題目ではなく、「人生を選択できる経済的な土台(インフラストラクチャー)」のことです。


自分と家族を養うだけの資力がなければ、結局は誰かに依存する生活になります。


何者かに、経済的に支配されている状態は、一般には「隷属」と呼ばれます。

だから、人はみんな、自分の人生を自分で選ぶべきです。


そう考えれば、自由な人生にとって、一番大切なのは自分の手でお金を稼ぐことだとわかります。
「知識社会」とは?

20世紀に発展した産業社会は終わりを告げました。

21世紀は「知識社会」の時代です。

「情報化社会」とも言います。


2002年FIFAワールドカップの戦いは1ヶ月に及びます。

日韓共催のワールドカップは、はじめからチケットの問題がありました。

日本国内で人気が沸騰し、1枚700円のチケットがネットオークションで20万で売られたりしてました。


また、チケットを手に入れるため、スポンサーの商品を買いあさり、抽選の権利を手に入れたり、山のようなハガキを送り、

ひたすら電話をかけまくった人もいます。


しかし、その一方で、ほぼ全試合のチケットを手にし、家族で観戦を楽しんだ人もいます。


なぜ、このような違いがあったのでしょうか?



ワールドカップ開幕後の空席問題で明らかになったのは、海外販売分のチケットは大量に売れ残ってたのです。

FIFA(国際サッカー連盟)が需要を見誤り、スポンサー分や海外販売分を多めに確保してました。

そして、だぶついたチケットを日本国内で販売するルートがなかったからです。


この海外の販売不振は、ずいぶん前から広く知られていた事実です。


サッカー狂のフリーガンでも、ヨーロッパや中南米からわざわざ極東の島国まで大金を出してやってくる人は

限られてます。


イギリスやドイツのフリーガンは、低所得者や無職の白人がほとんどです。

彼らは、もともと日本までくるお金を持っていないのです。


競技場に集まったのは、ほとんどがサッカー好きの旅行者です。

参加チームの中には、日本までの旅費が年収に匹敵するような国がほとんどなのです。



売れ残った海外のチケットを手に入れるのは、意外に簡単です。

インターネットでFIFAのチケット販売サイトにアクセスし、見たい試合を選んでオーダーを出すだけです。


ただし、条件がありました。

海外販売分のチケットを手に入れるには、海外居住者に限られたことです。

この条件が、流通を妨げたのです。


考えてください。

求めるチケットは、目の前に山のようにあるのです。

日本の居住者でなければ、簡単に手に入ります。


チケット1枚売るのに、わざわざ住所証明書を提出させるでしょうか?

パスポートで本人確認するでしょうか?

日本の居住者かどうかは、チケットの届け先で判断するしかありません。


だったら、方法が考えられます。


海外に住む知人に頼んで、購入してもらればいいのです。

いまは、ネットで簡単に海外に知人をつくることができます。


チケットに購入者名を印刷して、会場への入場の際に本人確認をするとされてましたが、そんな対策は非現実的

だと言うことはわかります。

案の定、チケットの印刷は遅れに遅れ、入場時の本人確認は中止になりました。


代理購入を頼める知り合いがいなければ、お金を払って業者に頼めばいいのです。

本人名義の住所を提供してくれる業者があるのです。

「メイルドロップ・サービス」(Mail Drop Service)と言います。

インターネットで検索すれば、どこの国でも簡単に見つかります。


一方には、必死に努力をしても1枚のチケットも手にできなかった大多数のサッカーファンがいます。

もう一方には、なんの努力もせずに好きなだけチケットを手に入れ、観戦を楽しんだ人がいます。


これは、現実であり、事実です。

必要な情報は、万人に公開されていました。

ごく一部の特権階級がおいしい思いをしているという話しではありません。


これが、いまの「情報化社会」です。

だから、「知識社会」とも、言われています。

情報は、瞬時に共有されていきます。

しかし、万人がそれを活用しているわけではないのです。


「知識社会」では、必要な情報を的確に入手し、それを活用する知識を持ってる人が、近道をすることが

できるのです。

「知識」が価値を持つとは、こういうことです。


知識がなければ、ひたすら回り道をすることになるのです。



オープンな社会では、情報は万人に共有されています。

これは、「公平な競争」の結果でもあります。


情報が広く公開されればされるほど、いたるところに近道が見つかります。

しかし、それをわざわざ教えてくれる親切な人はいません。


知識もなく、回り道をしたくない人は、お金を払わなくてはなりません。

それが、わたしたちが生きている資本主義・市場経済の原理・原則(ルール)です。

21世紀は、「知識社会」です。

知識を獲得するのか、金を払って知識を手に入れるのか、それとも回り道をするのか?

選択をすることになります。