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kenroが見た、行った、読んだもんをつらつら書き。美術展、映画、本、旅行など。

高市早苗新首相の所信表明演説では、安倍晋三首相のそれにでもあった「法の支配」という文言が消えた。高市首相の脳内にはハナからなかったのかもしれない。何せ「働いて、働いて、働きまくる」と生存権も幸福追求権も蹴散らす覚悟のようであるから。確かに悪法ならそれに「支配」されない権利も当然ある。しかしどんな悪法でも一旦通ってしまえば、私たち国民を隅々まで支配し、「法の暴力」として牙を剥く。

言うまでもなく著者の荻野富士夫さんは治安維持法や特高警察研究の第一人者である。長く、日本はもちろん朝鮮半島や中国などの原資料も渉猟し、膨大な研究成果を積み上げてこられた。市井の一素人が研究書や資料集を読みこなすのには困難が伴うが、新書で著してくださった。しかし新書といえども500頁。同時に最新の治安維持法研究の決定版である。

章立ては、親切だ。治安維持法前史にはじまり廃止に至るまでの小史、検挙・取調から起訴、予審、公判、行刑や処断までの運用、抵抗勢力に襲いかかった「法の暴力」の実態、さらには朝鮮や台湾といった植民地下での運用と実態、「満州国」のそれ、そして「治安維持法の威力の震源=「国体」とは何だったのか」、と終章である。

よく治安維持法を擁護する論拠に「日本の治安維持法で死刑になった人はいない」と言うのがある。確かに、小林多喜二は逮捕後、起訴される前に殺され、ゾルゲ事件のリヒャルト・ゾルゲや尾崎秀実は国防保安法などによって死刑となっていて、治安維持法のみによって死刑となったのではない。しかし、目を本土外に向けてみれば、朝鮮半島や台湾、満州で夥しい数の人が死刑となっている。さらに、抗日運動の激しかった満州では、抵抗者(とみなした者も含む)はことごとく検束され、裁判が確定する前に半数近くが亡くなった事案もある。拷問である。「投獄されたのは二六○○人あまり、獄中の拷問死は五○%以上で、「秘密裡に殺され、あるいは人体解剖で死亡した人もいた」と供述」(408頁)や、「警察、憲兵、〔鉄路〕警護団が凡ゆる拷問をなしたる為、肉体的精神的に大きな打撃を受け、収容当時、既に足腰が立たず、直に病室に入る者も少なくなかった」(424頁)との資料も紹介される。凄まじい暴力はなぜ生まれたのか、可能になったのか。

大正デモクラシー期の社会運動の「過激化」を受けて、その取り締まりを主眼に制定された治安維持法はやがて、「改正」や運用によって、無産運動、共産主義=私有財産の否定と「君主制」打倒、への弾圧、さらには宗教者、そして反戦、非戦を志向すると捉えたあらゆる思想運動、文化、芸術に網をかけていく。「国体」に反するものは全て否定されるのだ。著者は、法が「暴力」化していく過程の淵源に「国体」思想とその変革、拡張があるとする。では「国体」とは何か。

高市早苗首相や参政党が強く支持する「教育勅語」には、「天壤無窮の皇運を扶翼すべし」(現代語と仮名遣い)との下がある。国体とはそもそも定義が明確にあったわけではないが、「国体とは何か」と問うこと自体が不敬、不問とされていく「拡張」の過程がある。そして、治安維持法の暴威を現実に執行した警察、検察さらに裁判所は、「天皇の警察」「天皇の検察」「天皇の裁判所」と化して、特に警察においては、思想を「前導する」ための暴力も肯定されていくのだ。「金甌(きんおう=黄金で作った瓶。筆者注)無欠の我皇国の国体を明徴にし、一意以て天壤無窮の皇運を扶翼すること」(「船塲警察署々員心得」から。471頁)。結局「天壤無窮の皇運」のためなら人の命など何ほどのものでもない。

著者は、本書の序章で「新しい戦前」の要素の一つとして菅義偉政権による日本学術会議の任命拒否問題(2020)をあげた。さらに終章では「天皇の警察」その他が、戦後それぞれの場で復帰したこと、あるいは、「共謀罪」「特定秘密保護法」その他の治安立法の動きに警鐘を鳴らしつつ、本書執筆の意図を「「新しい戦前」が出現し進行しつつある現代において、さらに一歩進んで「新しい戦中」に突入する前で立ち止まるため」と記す(493頁)。

治安維持法の実態を知ることは「新しい戦中」に抗するたたかいであるのだ。

(『検証 治安維持法  なせ「法の暴力」が蔓延したのか』平凡社新書 2024)