台湾は一番古い日本の植民地である。それが日本の敗戦1945年まで半世紀も「日本」であった。しかし、台湾、朝鮮などの「日本人」は突然、日本国籍を剥奪され、「日本人」ではないからとさまざまな恩恵や補償の枠から外された。非人道的政策この上ない。
「日本人」であったから、当然従軍した者も多い。台湾出身者ではおよそ20万人が皇軍兵士として従軍したが、「シベリア抑留」までされた者の数は分かっていないという。これまでの研究で、氏名の判明しているのはわずか19名。横浜在住の呉正男さんは1927年生まれ、17歳で従軍し、シベリア(カザフスタン)に2年間抑留され、舞鶴を経て「帰国」できたが、もう「日本人」ではなかった。また、台湾では2・28事件で国民党政府による反共弾圧がひどくなり、ソ連での抑留中「赤化」した呉さんは、台湾にも帰れなかった。戦争に行ったのも、帰還できたのも、そして日本や台湾を選べなかったのも全部、国家政策の故で呉さんに責任や罪はない。しかし、その経験を語り継ぐ呉さんは極めて稀な存在で、同じような経験を持つ人たちは語らなかった、語れなかった。
呉さんの子ども、戦後に生まれた世代は、反共政策のもと、ソ連帰りを疎ましく思い、その体験を明かしてほしくなかった。そして植民地の人たちを戦場に送り込んだ当事者の日本政府は何一つ、手を差し伸べなかった。記録を調査、収集などもしようとしなかった。日本政府は呉さんらを棄てたのだ。しかし、そのまだ下の世代、1987年の戒厳令解除後の時代を生きる世代は、もっとフラットである。祖父の経験を聞こうとしたり、遺したいと考える人たちだ。しかし、呉さん以外はおそらくもう誰も生き残っていない。
日本の「外国人政策」については、朝鮮半島にルーツを持つ朴沙羅さんの近著『日本社会と外国人 入管政策が照らす80年』(中公新書 2026)をぜひ参照いただきたいが、この国がいかに場当たり的に、「外国人」の処遇を考えてきた(こなかった)かがよく分かる。製造業、小売業などでなくてはならない働き手、住人である人たちを、「移民」ではないと言い張るのがその典型である。しかし、その淵源はやはり、旧植民地出身の人たちをどう遇してきたか、棄ててきたか、見ないできたかにたどることができるだろう。2023年に急逝された作家、美術評論家の徐京植さんは、長らく韓国籍を選ばなかったため「国籍なし」の状態であったが、講演などで韓国に渡る用事ができ、やむなく韓国籍を選択したという。「国籍なし」の状態では、日本を出ることはできても再び入国できる保証はないからだ。朝鮮半島を植民地化し、戦後は「手放して」、韓国とだけ国交を結び、朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)国籍を認めないからこのような歪で、差別的な扱いが生まれたのだ。
いい状態とは言えないが、台湾はスポーツなどの国際大会では国家としての「台湾」の参加は認められず、「Chinese TAIPEI」として参加する。「国旗」も掲げられないし、「国歌」も歌われない。当の台湾の人たちはどう思っているのか。「やむを得ない」「仕方ない」とともに、「国家に縛られない」との感想をいただいている。とてもステキな発想ではないだろうか。
呉さんら「日本人」として認められたい、認めてほしい人の中には、戦死者の靖国合祀を望む、あるいは、靖国神社を大事に思う人もいるという。しかし、靖国には太平洋戦争の指導者であり、紛れもないA級戦犯である東條英機のような高位軍人、責任者も祀られている。東條は刑死したが、その妻は恩給などで2億円を受給したという。もちろん呉さんら旧植民地出身者には一銭もない。許されない差別である。(「零下五十度の抑留者」許明淳監督/2025/台湾)
