マイクロアグレッション。例えば「外国人なのに日本語がお上手ですね」、「障害にも関わらず頑張っていますね」などの言葉。聴者の夫がろう者の妻に対して、こどもの世話を先回りしてしまう。そこに生まれる(被)差別感、疎外感、孤立感。多くの場合、発する側、先回りする側に「悪気はない。」しかし、この「悪気のなさ」が問題なのだ。
ろう者のアンヘラは、妻に対しては手話を使う聴者の夫エクトルと穏やかに幸せに暮らしている。しかし、アンへラが妊娠すると、両親らは耳が聞こえる子が生まれるかどうかに気をもむ。やがて生まれた女の子は、聞こえることが分かったが、エクトルとの間もギクシャクし始める。いやアンヘラにとって、両親の懸念や、出産時に医療者らとの意思疎通がうまくいかなかったこと、そして手話使用を忘れて話したエクトルの態度など、自分が「特別な存在」として見なされ「普通の存在」になれなかった思いをずっと抱えていたのだ。エクトルの両親に会いに行く日、二人は大喧嘩してしまう。アンヘラはろうコミュニティーでやっと落ち着きと安心を取り戻す。
優れた作品である。それはアンヘラを演じるミリアム・ガルロ自身が監督・脚本のエバ・リベルタの実の妹、ろう者であり、他の共演者も実際にろう者が演じているからでもある。リベルタ監督は、ガルロを主役にすでに短編映画を成功させている。その制作過程で、ガルロがろう者として子どもを持つことの不安を吐露していたことから、この長編が生まれた。
近年コーダを取り上げた映画(「Coda コーダ あいのうた」など)のヒットで、ろう者の親を持つヤングケアラーとしての視点や親子の葛藤を描いた作品に焦点が当たってきた。しかし、ろう者の母が遺伝もあり得る子を持とうと思い、それを家族を含め周辺がどう捉え、感じているかは詳しくは描かれてこなかったのではないか。これは、耳が聞こえないという機能障害にとどまらない。内部疾患やさまざまな困難が子にも遺伝するのではないかという恐怖やためらいは、遺伝しないことが分かっているハンセン病(らい病)などの罹患者に施された「断種」手術など国をあげて、「不良因子」を取り除こうとした差別政策が助長してきた。
同時に、耳が聞こえないということは人間にとってコミュニケーションに不便を来たすことも事実である。だから、手話という言語が生まれ、発展してきた。そう手話は現在、口話の代替手段ではなく、別の言語であることが国際的に認識されている。だから、エクトルやコーダはバイリンガルやマルチリンガルなのである。聞こえない、見えない親に代わって役所で手続きをするなどコーダのヤングケアラー負担は小さくはない。しかし、例えば親の日本語能力が低いので、日本語がネイティブである子どもが親を助ける姿はヤングケアラーではあるが、バイリンガルとしてとても有益な人材である。であるのに、その子どもまでも「仮放免」という法的に不安定な地位に置く日本の移民・難民政策は間違っている。ヤングケアラーは「ヤング」が問題なのではなく、「ケア」を社会化していないことが問題なのだ。
アンヘラとエクトルの二人の愛娘オナに、アンヘラは聞こえない世界を体験、通常化させようとヘッドホンをつけようとするが、オナはすぐに外してしまう。二人の喧嘩では、エクトルが「君は聞こえない夫と娘を望んでいる」と言ってしまう。家族の溝は決定的にも見える。いや、だからこそ、「断絶」や「違い」は乗り越えるべき「障害」ではなく、共生、併存するべき個性であるのだ。決して障害のある側がそうでない者を頼ったり、逆に障害のない者が、そうでない者に一方的に手を差しのべる関係ではなく。(「幸せの、忘れもの。」2025 スペイン)
