様々なメディアで取り上げられるようになり、観客も増えているのではないか。しかし、本作はもっともっと観られていい。いや、観るべきだ。
ファトマ・ハッスーナは24歳のフォトジャーナリスト。ガザから出たことはない。監督のセピデ・ファルシに言う。「カンヌに行ってみたい」。同時に「ガザに必ず戻りたい」とも。でもそれは叶わなかった。カンヌ映画祭で、本作がノミネートされた翌日、イスラエルの爆撃により家族ともども殺されたから。ファトマの声はもう映像でしか聞けない。
2023年10月7日のハマスによるイスラエル越境攻撃により、およそ1200人のイスラエル人が殺され、250名余が拉致されたとされる。すぐに「ハマス討伐」のためとイスラエルがガザ攻撃を仕掛け、2025年11月末現在でガザでは7万人超が犠牲となったと報道されている。「死者数の多寡ではない」と言う前に、10/7に至る前の同じパレスチナ自治政府の管轄であるヨルダン川西岸地区でのイスラエルの入植活動に伴うパレスチナ人の被害にも目を向けたい。なぜなら、この過酷な「入植活動」が10/7を引き起こしたのは明らかであるからだ。そして、この「入植活動」によって、自治政府の主権が及ばない地域が大半であるという事実を、メディアが伝える地図では正確に伝えていないことも重要だ。
空爆に怯え、あちこちで爆発音が聞こえ、ドローンの不快な唸り音をバックに、ファトマはいつも笑顔だ。なぜそのような酷薄な状況下、笑顔でいられるのか。セピデ監督の問いかけに辛い日常も明日の希望に繋げようとするファトマの前向きさに、こちらの安全な世界に安住する私たちは打ちのめされる。そう、ガザの人たちはもう思うべき未来、「前」しかないのだ。セピデ監督自身、「民主化」運動のために祖国イランを追われ、監督の前に「帰国」と言う選択肢は現在のところない。
およそ映画の体を成していないと見る向きもあるだろう。本作は、ファトマとセピデとのスマホでのやりとりをそのまま映し出したに過ぎないから。そこには113分に収める編集はあっても、作為はない。まさに今殺されようとしている、殺されていい命などないが、不合理に、不条理に、ガザに住まう人イコール=ハマス、という図式だけで消されようとしている命を差し出している一人の女性が語る現在(いま)と、現実(リアル)だけであるから。
なぜ、殺されなければならないのか。なぜ、殲滅されていい人とされるのか。ホロコーストを経験したユダヤ人国家であるイスラエルがなぜ、隣地を根絶やしにすることが許されるのか。入植者の論理に、ここは元々神に与えられたユダヤの地だからと言うのがある。しかし、旧約聖書そのままの世界が現代においても真実として通用するなどと、「不信心」な者は考えない。逆に言えば、そこに自身の拠り所を置くディアスポラ民族の悲運の歴史が個々に身体化している現実も、簡単には覆せない実態でもある。しかし、やはり「想像の共同体」や「未知の真実」のために、すでに住んでいる人を暴力的に追い出したりする権利など誰にもない。だからハマスによる10/7が惹起されたのだ。
折しも、ガザ暫定機関に日本も文民を派遣するとの報道が流れた。しかしその暫定機関にはイスラエルやアメリカは主導的に関わるが、自治政府は加わらない。そこにいるパレスチナの意思を酌まない暫定機関に正当性や倫理性は期待できるのだろうか。ファトマの希望はただ、ガザに安寧にいたいだけなのに。(「手に魂を込め、歩いてみれば」2025 フランス・パレスチナ・イラン)
