佐藤ハルエさんがまだ赤ん坊のひ孫をあやす姿を見て、ハルエさんに深い広い愛を感じてしまった。赤ん坊の母親、孫の三代さんが「私の赤ちゃんを見せた時も拝むんですよね。仏様みたいな感じで。子どもを見る目が本当に温かくて。」ハルエさんこそ「生」の尊しさ、大切さを実感している人はいないのではないか。
満蒙開拓団の一つ岐阜県黒川町から入植した黒川開拓団が、敗戦直後にソ連軍に未婚の女性ら15人を、団の安全を保障する代わりに「性接待」として差し出した事実が公になったのは、佐藤ハルエさん自らの証言が始まりだった。1983年当時、ハルエさんが作家の林郁に実名でいいと言ったが、伏せられ、そして95年にも岐阜新聞の記者に語ったが、記事にはならなかった。おそらく、83年や95年当時は、「性接待」を決定、ソ連軍に差し出した側の団の幹部が存命だったからではないだろうか。もちろん、#MeToo運動のはるか以前であり、被害女性が告発するのがより困難だった時代だからとも言える。
ハルエさん以外にも証言に積極的だった安江善子さんは、開拓団遺族会会長の藤井宏之さんに事実を伝えるとともに、「乙女の碑」建立も強く働きかけていた。しかし、碑にはなんの説明文もなく、なぜそこにそれが建てられているのかさえ不明であった。それが、2013年ハルエさんが満蒙開拓記念館での「語り部の会」で証言し、藤井会長らは説明碑文の建立に動き、2018年にはその除幕式で「親の世代の罪として記録した」ことを踏まえて謝罪する。ちょうど安倍政権の時代、安倍首相は「戦後70年談話」で、戦時期の日本がアジアに勇気をもたらしたとし、子孫やその先の世代に「謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と戦争責任への対応をこれでピリオドとする意思を示した。宏之さんの「勇気」はその真逆をいくものである。
ハルエさんらの証言が公になり、碑文へと繋がるのになぜこれほどまでに時間を要したのか。それは帰国した女性たちの戦後の苦難も大きかったからである。「ロスケ(=露助。ロシア人に対する蔑称)に汚された女」と差別・中傷され、故郷を離れた女性も少なくない。そういった中傷を「性接待」を主導した団の幹部男性も言い放っていたという。根深い女性蔑視、家父長意識、性暴力に関するタブーなど、女性らを黙らせた構造は黒川村だけのものではない。日本中のどこにでもある「ありふれた」構造であったのだ。
松原文枝監督が取材を始めた当初は、名前も顔を明かさず手だけ映っていた安江玲子さんは、とても明るい表情で顔出しするようになったに80年もかかっている。「性接待」の公表に反対していた水野たづさんも、2024年にハルエさんが亡くなると、自ら話すようになった。「レッテルを貼られて生きるより正々堂々と生きていきたい」。
「性接待」被害者・当事者を支えた一つが、同じ痛みを知るシスターフッドの関係であり、証言した祖母を深く尊敬する孫たちの姿だ。トラウマは消えないかもしれないけれど、薄まったり、それと付き合いながら生きる術を関係性が与えてくれたのだ。
伊藤詩織さん、大阪地方検察庁の上司男性から被害にあった女性検察官。被害者が性暴力を公に告発できるようになるまで何十年もかかっているし、まだほんの一部であろう。選択的夫婦別姓が進まない理由の強固な家父長制(家制度)意識、声を上げる女性への苛烈なバッシングの背後にあるミソジニー。その手を退けて。足を退けて、しゃべらせて、とこの世にある人の当たり前の尊厳を貶める皮を一つひとつ剥いでゆきたい。
(「黒川の女たち」2025 監督:松原文枝 語り:大竹しのぶ)
