日本近代美術史を語る上で、明治政府が工業・文化政策近代化の第一歩として設立した工部美術学校(1876 明治9)が女性の入学を認めたのに対し、日本最初の美術専科の高等教育機関である東京美術学校は認めなかったことをよく紹介する。1876年といえば、西洋美術の本場フランスでもまだ印象派が現れて2年ほど、美術のセンターラインは旧守のアカデミーであって、フランス国立美術学校に女子が入学できたのが1897年(明治30)。著者によれば女子入学を認めた世界初の試みであったかもしれないとのことである。女子入学を認めた理由を、著者は工部美術学校校長の大島圭介の長女大島雛が「私も絵をやりたい」とおねだりしたため、圭介が共学を決断したと空想する。しかし、入学した女性6名はイコン画の山下りん、後進の女性美術教育に奮闘した神中糸子のほか、今となってはあまり知られていないが美術界に大きく足跡を残した面々である。
さて、男子だけ入学というのは帝国大学もほとんどそうであったように、そもそも女性の高等教育への進学は、天皇を頂点とした家父長制、家制度の価値観の中では当たり前であった。であるから、東京美術学校のみそうではないが、そこには男社会ではどの世界でも見られる競争や出し抜き、嫉妬と、ホモソーシャルの中でありがちなドロドロした部分と無縁ではなかった。
明治の文化政策の功労者であり、また、東京美術学校初代校長である岡倉天心(覚三)が、フェロノサともども文化の国粋主義政策を推し進め、その成果として西洋画科の設立を排したこと、さらには開校9年で同校から「追放」されたことは有名であるが、その経緯の詳細は必ずしも明らかではなかった。それが本書で「物語」として鮮やかに再現される。
10代の頃から漢詩と英語を操る超秀才の岡倉が若干27歳で校長に就いたが、西洋画科を欠く美術教育は当初から波乱含みであった。国際性を欠如した文化政策は、いったんは押し留めた欧化に抗しきれなくなり、帰国したばかりの黒田清輝を新設した西洋画科の教授に迎えることになる。黒田の片腕である、岡田三郎助や藤島武二ほか西洋美術の担い手がどっと入ってきた。岡倉の失脚は、従来やがて独断専行や「不倫」関係などで人望に欠いたとの一般的解説が多かったが、そのような単純な構図ではなく、「国粋と国際のはざまに揺れて」美術政策・教育そのものの葛藤と変質、そしてその落とし所の結果として美術学校史があると著者は見る。そして岡倉が腹心の友とも言える九鬼隆一の妻波津子と親しかったこと、九鬼が波津子と別居後、岡倉が波津子母子の家をよく訪ねていたことは事実だが、九鬼公認でむしろ九鬼は身持ちが悪く、「妾」がいたからと著者は推察する。
岡倉と黒田の主導権争いは、「国際」派黒田の勝利にも見えるが、ことはそう簡単ではない。岡倉を信奉する横山大観らが、今度は「民」の立場で、国家の文化政策、美術環境に大きな影響力を持つからである。そしてその背景には、1920年代以降、膨張する軍事大国化路線と、30年代には中国大陸への「進出」、それを精神的に支える「神国日本」の岡倉以来の国粋主義路線があったことは言うまでもない。
上記、戦争遂行のための挙国一致政策が進む中、美術学校の独自性は揺らぎ、弱まっていく。並行した松田源治文相による帝院改租問題(1935)などにより、本来自由な表現と不可分の美術界はその独自性を削がれ、「民」から「官」へと見事に変身した横山大観主導で大東亜戦争美術へと雪崩うっていく様が、克明に描かれる。「彩管報国」という語を生み出したのが横山であったことも初めて知った(ただし、著者の説であり、資料教示を乞うている)。
横山がその自身の技術のみならず、学校再編、文化政策や作品保持など大きな役割を果たしたことを著者は評価するし、横山が戦争画に富士と「日の出」にこだわった所以もクリアになっている点は面白いが、横山には美術家の戦争責任という大きな重石も存する。さらに、「国際」との関係で時系列に綴られているのに元号のみの表記の場合もあり、分かりにくい。これらの点を差しておいても読むべき好著であると思う。
(『東京美術学校物語 ―国粋と国際のはざまに揺れてー』岩波新書 2025)
