#今回は、伊都国が古代日本の大陸との交流拠点という重要な地位を占めていたことから、その港湾を探索してみようと思います。
古代の糸島地方は東西から泊〜志登間の陸橋状低地まで内海が迫っていました。穏やかなその内海が大陸との交流拠点をつくったと言っても過言ではないでしょう。東からの内海は古今津湾、西からの内海は古加布里湾と呼ばれています。
最初に東側からのルートをご案内します。
玄界灘から博多湾に入ったあと、古今津湾に進入、今山・長垂海岸の後背地の内海に進路を取り南岸の「今宿五郎江遺跡」に接岸したのでしょう。古今津湾内において、怡土地域の交易集落としては今宿五郎江遺跡しか確認されていません。
○今津湾の入口周辺と今宿五郎江遺跡(国土地理院地図を一部加工)
○毘沙門山から博多湾を望む(中央:志賀島 右:能古島)
荒ぶる玄界灘から志賀島と糸島半島の間を縫って波静かな博多湾に進入しそして能古島と毘沙門山の間を抜けて今津湾の入口に迫るのが東側からのルートでしょう。
今津湾入口の景観は古代から変わってはいません。博多湾に入った一行は今津湾入口を目指し今山を回って東向きの進路を取り今宿五郎江遺跡に接岸したのでしょう。
○長垂海岸から今津湾入口を望む(左:今山 〜今津橋〜 右:浜崎山・毘沙門山)
〇南上空から望む今宿五郎江遺跡(赤い部分)
遠く左手に浮かぶ陸繋島「志賀島」、中央に浮かぶのは「能古島」、その手前左手には「毘沙門山」、その手前「浜崎山」今津橋を挟んで「今山」、右手に延びる海岸は「長垂海岸」、右端は「長垂山」。高祖山の北麓が数条に亘り舌状に広がっているがその先端部には内海から崇めるように前方後円墳が築造されている。
(福岡市埋蔵文化財ホームページ掲載写真)
(今山は古代、陸繋島)
○今山・長垂海岸の後背地が内海であった痕跡として水田が見える写真
(福岡市博物館展示を加工:カラー写真なので昭和30年以降に撮影されたもの)
○長垂海岸から望む今山(その後背地は内海)
○今山から望む長垂海岸・長垂山(今山と長垂海岸の後背地は内海)
○現地案内板(今宿小学校正門)
○今宿小学校正門:東から(今宿五郎江遺跡)
○北から見る今宿小学校付近(小学校は道路の右)
○今宿五郎江遺跡の位置図(国土地理院地図一部加工)
○高祖山中腹から今津湾の入口を望む (陸繋島「今山」の面影はありません。)
その後背地は今や建物がひしめきあっています。
(左端手前は今山、今津橋を挟んで、その向こうに浜崎山・毘沙門山、遠く中央に志賀島、その右には能古島が見える 左端遠くに見えるのは玄海島)
○毘沙門山から今山を望む(手前の山は浜崎山)
○今宿五郎江遺跡の直ぐ南に位置する今宿大塚古墳から遠くの今山(左端)を望む
○古今津湾内北側に建てられている「圃場整備記念碑」からの今津湾入口の眺望
左(北)から毘沙門山、浜崎山、今山
西側に目を転ずると、末盧国(唐津市付近)方面からは着岸に適している深江湾が近づきます。
(糸島市立伊都国歴史博物館展示図録「伊都国」)「糸島西部の遺跡、深江井牟田と御床松原は伊都国の港であったと考えられている。それぞれ深江湾、引津湾という波の静かな天然の良港に面しており、大陸・朝鮮半島との交流を示す遺物が出土している。」
「深江井牟田遺跡は弥生時代中期後半〜古墳時代初頭にかかる複合遺跡である。古砂丘上に立地しており、土坑群を主体に甕棺墓、溝状遺構、土器溜りが検出され、楽浪土器が数多く出土している。楽浪土器は種類も豊富で、鉢、筒杯、甕、盆、などがある。中国式銅剣が2本出土している。」
●202国道から深江海岸を望む(唐津市方面から)
○深江井牟田遺跡(糸島市立伊都国歴史博物館展示図録「伊都国」から転載)
○深江井牟田遺跡の周辺遺構(二丈町文化財調査報告書から一部加工して転載)
1→深江井牟田遺跡
●背振山系から深江海岸を望む(写真中央の入江)
●深江湾(左端:西)・加布里湾(その上:北)、陸繋島の「船越」の北には引津湾
陸繋島、船越の北側には引津湾が広がっています。
(糸島市立伊都国歴史博物館展示図録「伊都国」・続き)「一方、(引津湾に面する)御床松原遺跡は弥生時代後期〜古墳時代を主体とする遺跡で、標高4~5mの低砂丘上に立地する。石錘、土錘、釣針、ヤス、アワビオコシなどの漁労具とともに、貨泉、半両銭、鏡片、楽浪土器などの遺物が出土している。」
○引津湾の入口(船越の「綿積神社」からの眺望)
○引津湾の景観(下段右手は加也山)写真中央付近:新町遺跡・御床松原遺跡
○引津湾と御床松原遺跡(「糸島市10年のあゆみ」を一部加工して転載)
○新町支石墓群と御床松原遺跡の位置図
(糸島市教育委員会発行「弥生時代のはじまりと新町支石墓群」から転載)
古加布里湾は泊〜志登間の陸橋状低地まで奥深く入り込んでいました。
〇空からみた糸島低地帯(西側の加布里湾上空から今津湾方向を望む)
(写真注釈)「糸島半島西部の加布里湾から東部の今津湾にかけて標高5m以下の低地が帯状に連なる。糸島低地帯と呼び、かっては『糸島水道』という海峡であったと考えられてきた。この糸島低地帯を境に南側(写真では右側)が怡土郡、北側が志摩郡に分かれる。」(糸島市立伊都国歴史博物館常設展示図録「伊都国」から一部修正して引用)
○加布里湾西側からの景観(雷山川河口には弁天橋〈写真中央〉が架かる)
○古代糸島地方の地形略図(前原市教育委員会作製を一部加工)
(糸島市立伊都国歴史博物館常設展示図録「伊都国」から引用)「糸島の地勢として、糸島地方は、大きく二つの地域に分けられる。玄界灘に突き出た半島部であるシマ地域と三方を山に囲まれ平野部を擁するイト地域である。両地域の間には幅1kmほどの帯状の低地があり、かっては糸島水道と呼ばれる海峡があったと考えられてきた。現在では、貝化石の分布や遺跡調査などにより、中央部の志登~泊間おいて、陸橋状につながっていたと考えられている。」
○加布里湾のイメージ
(東風〈はるかぜ〉公民館・東風小学校〈潤地頭給遺跡〉脇に立つ案内板)
糸島半島の怡土郡側の付け根にある潤地頭給遺跡では遠浅・河川用の準構造船と思われる船材が発見されました。
○潤地頭給遺跡出土の準構造船(糸島市立伊都国歴史博物館展示)
この潤地頭給遺跡では朝鮮半島系の土器なども多数出土することから、何らかの港湾施設があったと考えられています。中国や朝鮮半島から戻ってきた大型船は御床松原集落に寄港し、そこで積荷を準構造船に移し替えた後、地頭給遺跡まで海上輸送し、そこからは陸路で内陸部の三雲・井原遺跡の王都まで運び込まれたことが示唆されます。
○糸島地方のシマとイトを繋ぐ陸橋状低地(泊〜志登間)の遺構
(「糸島のあゆみ10年」を一部加工して転載)
○潤地頭給遺跡(東風〈はるかぜ〉公民館・東風小学校:道路左側正面)
○潤地頭給遺跡案内板(東風公民館・東風小学校脇)
○糸島地域の弥生時代の主な集落
(赤い印の三雲・井原〈みくも・いわら〉遺跡は伊都国王都)
(糸島市立伊都国歴史博物館展示図録「伊都国」から転載)
港湾都市に陸揚げされた品々は伊都国の王都(三雲・井原遺跡)に運ばれたのでしょう。
最後に魏志倭人伝に記載された「伊都国」に触れて今回の投稿を終えることにします。
魏志倭人伝には邪馬台国に行く途上の国として伊都国が登場します。
伊都国の記述には110文字程度が割かれており国々の中では最多の情報量を誇ります。
①世々王有るも、皆女王国に統屬す。郡使の往来常に駐まる所なり。
②女王国自り以北には特に一大率を置き諸国を検察せしむ。諸国之を畏憚す。
〇魏志倭人伝に記された伊都国(「三國志魏書東夷伝」より抜粋)
(糸島市立伊都国歴史博物館常設展示図録「伊都国」から転載)
郡使が常駐或いは滞在したとされるのは、三雲・井原遺跡(伊都国王都)の番上地区と考えられています。板石硯や多種・多量の楽浪系土器が出土したからです。
○伊都国の王都 三雲・井原遺跡全体図
(糸島市立伊都国歴史博物館編集発行「伊都国の王都を探る」から転載)
邪馬台国の時代、伊都国は日本の玄関口として大きな役割を担い日本の礎を築いたことは確かでしょう。古墳時代になると伊都国域はヤマト王権との強い繋がりを保ちつつも、玄関口は遠賀川流域や宗像地方にシフトして行きます。