JR四谷駅のすぐ隣、雙葉学園へと曲がる角に、大きな石垣があります。今では地名に名を残すのみとなった、四谷見附の枡形門の一部です。
四谷見附の交差点をそのまま東に向かえば、そこは半蔵門。その先は皇居。すなわち江戸城です。
東京は江戸城を中心とした城下町であり、平成の今に至るも、外堀通り、桜田門、丸の内など、そこかしこに江戸の名残が現存します。
今日は、江戸時代について書いてみます。
四谷で江戸時代とくれば、四谷怪談を誰もが思い浮かべるでしょう。
話の元となった於岩稲荷田宮神社(お岩稲荷)は、四谷警察署の裏手に現存しています。
モデルとなった田宮家に嫁いできたお岩さんは、苦しい家計を助ける為に奉公に出たりした働き者でした。田宮家にあったお稲荷様を大切に拝んでいたところ、やがて田宮家は家運が上向くようになりました。さてはお稲荷様のご利益と近隣の評判も高まり、お稲荷様を詣でる人が増えていったのだそうです。
さて、評判が高まれば妬みヤッカミも増えるのは人の世の常。
今で言う「都市伝説」のような形で、お岩稲荷に関する怪奇話が噂にのぼります。
それと当時の現実の事件をいくつもまぜて脚色して作られたのが、「東海道四谷怪談」です。
当初、これは「仮名手本忠臣蔵」の中のエピソードとして作られました。
お岩を裏切る夫、伊右衛門が、赤穂藩士(劇中では塩冶藩士)として設定されているからです。討ち入りに参加できなかった藩士としてのエピソードでした。
時は元禄、世は太平。
芸者をあげてドンチャン騒ぎをしていたのは、大石内蔵助だけではなく、紀伊国屋文左衛門もいました。「好色一代男」もこの時代の話。
元禄文化の発展の影には、徳川幕府の財政赤字の問題がありました。
幕府はこれを解決するため、小判の改鋳を行なったのです。
それまで流通していた慶長小判は金の含有率が84%~87%ありました。これを56.4%まで下げて発行したのです。
これにより、幕府は慶長小判二枚作る費用で元禄小判を三枚作ることができます。
さらに慶長小判100枚を元禄小判120枚で交換するようになると爆発的に元禄小判が流通しました。
そして幕府は利益を得、市中には貨幣の流通量が増えて経済が活性化し、元禄文化が花開くようになります。
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(システム担当・K)