[紫式部関連] 夫・藤原宣孝 (不明-1001年4月25日) | コンデジ片手に出かけよう

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源氏物語成立に一番重要な人物は紫式部の夫・藤原宣孝(ふじわら の のぶたか)。

宣孝は、疫病のために長保3年(1001年)4月25日卒去。『紫式部集』には、夫の藤原宣孝の死去に伴い詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められています。夫・ 藤原宣孝の経歴などを見ると、源氏物語ストーリ―に少なからず影響を与えたのかなって思っています。
 

 

大河ドラマ『光る君へ』では、佐々木蔵之介さんが演じられていますね。

 

 

藤原北家高藤流という平安中期の貴族出身で、官位は正五位下・右衛門権佐で権中納言・藤原為輔の子。紫式部とは998年頃に山城守となった頃に結婚したと考えられます。紫式部との間には「大弐三位(だいにのさんみ)」が生まれています。

宣孝は、円融朝末に六位蔵人兼左衛門尉を務め、永観2年(984年)円融天皇が花山天皇に譲位すると宣孝は院判官代に補せられた。 しかし、花山天皇の退位で職を失っている様子です。花山天皇の時に役人をしていたとなると、紫式部の父・藤原為時の同僚になります。瀬戸内寂静さんが書かれた「源氏物語の女君たち」では、紫式部を宣孝は独身時代にすでに知っていて、紫式部が父に連れられて越前武生に行ったときにも頻繁に文(懸想文:ラブレター)を送っていたそうです。

※大河ドラマ『光る君へ』では、夫・藤原宣孝はまひろ(紫式部)に会うために越前を訪れた設定になっていますね。

 



宣孝の逸話に御嶽詣(吉野金峰山詣)があります。999年(正暦元年)3月頃に御嶽詣を行った宣孝。紫式部のライバル・清少納言が書いた『枕草子』によると「御嶽は『質素な服装で詣でよ』などと仰らないだろう」といって長男の隆光とともに派手な衣装で参詣したことが書かれています。しかし、帰京後の同年8月に筑前守に任ぜられたことから、「あのとき言った通りであった」と噂されたといわれます。清少納言は一条天皇の中宮定子に仕えた人、そして紫式部が自分の地位を上げるためには一条天皇に才能を認めてもらう事が近道でしたから、この一件でさらにライバル心を燃やしたんでしょうね。

宣孝は、一条朝の990年(正暦元年)に筑前守任ぜられて九州に赴任しています。また、992年(正暦3年)ごろ大宰少弐(大宰府政庁の役人)も兼ねています。


 

 

<源氏物語への夫・藤原宣孝の影響>

源氏物語の祖型(下書きっぽいもの)は、紫式部が夫との想い出を書き始めたもの。そのため、光源氏のモデルの一人とも考えられます。また、源氏物語の玉鬘の帖で、現在の佐賀県唐津市にいた玉鬘が、両親に会いたいと都に戻ってきて念願成就の為に石清水八幡を参る部分があります。そこに「(石清水八幡宮は)玉鬘が祈願していた鏡神社・筥崎宮(はこざきぐう)と同じ神様ですから、御利益があります」というのがありました。そう考えると、筥崎宮については紫式部の夫・宣孝から聞いたこともあるのでしょうか?