[光る君へ] 東三条院跡 (藤原兼家の屋敷) | コンデジ片手に出かけよう

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「光る君へ」で登場する藤原兼家の屋敷。兼家の娘で一条天皇(980~1011)の母であった詮子(961~1001)は,初めて女院号を与えられ,居住地に因み東三条院と名乗ったことが名前の由来。『院』の前がつけられているのは詮子は一条天皇の即位後、皇太后となり、出家したためです。
※Top写真は、高松神明神社(高松殿)にあった説明にあったものになります。


当然ですが平安当時の屋敷は残っているはずはないので、現在は石碑と案内板(駒札)のみとなっています。



<東三条院跡の駒札>



京都観光Naviでは次のように説明されています。
東三条院の址はこの辺りを中心として二条通、御池通、新町通、西洞院通に囲まれた東西約130メートル、南北約280メートルに及ぶ細長い地域をいい、平安時代に隆盛を極めた藤原氏の邸があった所である。  はじめ醍醐天皇皇子重明(しげあきら)親王の邸であったが、平安時代初期に藤原良房(よしふさ)が譲り受けた後は、藤原氏出身の女子で皇妃、母后となった人が居住する慣わしとなっていた所である。藤原兼家(東三条殿と称した)の姉娘超子は冷泉(れいぜい)天皇の女御(にょうご)となって三条天皇を、妹娘詮子は圓融天皇の女御となって一条天皇を、それぞれここで産んでいる。殊に詮子は一条天皇の即位後、皇太后となり、出家して東三条院と称した。  その後、邸は藤原道長に引き継がれたが、邸内は尊美を極め、庭内池には竜頭船を浮かべて、天皇の行幸を仰ぎ、公家(くげ)の遊宴が盛んに行われた。その華やかな様は「本朝文粹(ほんちょうもんずい)」にも記されているが、邸は安元三年(1177)に火災で焼失した。



また2024/3/20に見たのですが、京都文化博物館での「紫式部ゆかりの地マップ」では東三条殿址碑としてこんな感じで紹介されていました。



参考情報としてドラマ「光る君へ」と関連深い「堀川院(円融天皇里内裏)」「高松殿(藤原道長の妻・源明子の実家)」の位置関係がわかる復元地図をアップしておきます。