[茶道関係] 人物:高山右近 (1552-1615) | コンデジ片手に出かけよう

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私の旅の思い出を紹介します。

 


高山右近は代表的なキリシタン大名として知られるカトリック教会の福者。 父は摂津国人・高山友照、母は洗礼名マリア。バテレン追放令が秀吉によって施行され、しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに隠れ住むが、1588年に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らしていた。1614年加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去。マニラに向かい病死。茶道では千利休の門下で、利休七哲のひとりでもあった。 




<高山右近の生涯:複数Webサイトからの抜粋>
キリシタン大名として、多くの大名に影響を与えた高山右近。大阪府茨木市の千提寺や下音羽地区は、キリシタン大名として有名な高山右近の領地でした。キリシタンの信仰が幕府によって禁じられた後も、信者たちは遺物を守り続けてきました。



<高山右近の生涯:複数Webサイトからの抜粋>
◎1552年 畿内の実力者三好長慶に仕えていた、高山友照の嫡男として生まれる。
◎1564年 キリスト教の洗礼を受ける。洗礼名ユスト(ジュスト)。
◎1568年 将軍となった足利義昭の家臣の和田惟政が、織田信長から摂津国高槻城を与えられると、その配下に。

◎1571年 和田惟政が荒木村重配下の中川清秀に討たれ、幼い和田惟長が後を継ぐ。
◎1573年 主君、和田惟長の高槻城をのっとる。
◎1578年 荒木村重が織田信長に対し謀反を起こした際、翻意を促すが失敗。
◎織田信長から、降参しなければキリシタンの皆殺しを行うとの通達を受け退城。
◎この行いが織田信長から認められ、そのまま高槻城主にとどまる。
◎1579年 荒木村重が有岡城から脱出。父、高山友照は追放処分に。
◎1582年 本能寺の変で織田信長を討った明智光秀から尽力を求められるが拒否し、羽柴(豊臣)秀吉に従う。
◎山崎の戦では羽柴(豊臣)秀吉の先鋒として活躍。
◎1583年 賤ヶ岳の戦では岩崎山砦の守備を担当。
◎1585年 播磨国明石へ転封となり、船上城を築城開始。
◎1587年 豊臣秀吉からバテレン追放令が出されたが、大名の地位を捨て去り、キリスト教徒としての道を選ぶ。
◎父とともに小豆島で小西行長の庇護下に。

 


◎1588年 前田利家に知行1万5千石で招かれる。
◎金沢城修築に貢献。

 


◎1599年 前田利家死没後も、後継の前田利長から庇護される。
◎1609年 前田利長の越中国高岡城築城に貢献。

 

 

◎1614年 徳川家康のキリシタン追放令に従い、フィリピンのマニラへ。
◎マニラでは、スペイン人総督から歓迎される。
◎1615年2月4日マニラで死没。(享年64歳)