人はときたま不思議な体験をするのですが、これは年齢が進むに従って感覚が衰えてきます。
年齢とともに次第に常識人としての知識が身について大人になっていくわけですが、それだけに人は幼児期に通常では見えないものが見えていたり、感知したりしている場合が少なくないのです。
幼児期の記憶を辿っていくと、何やらそうした未知なるものといつの間にか遭遇していたということもあるわけです。
たとえば前世の記憶の断片を思い出す子供らも実際にいるのです。
残念なことに大人になるとそうした感性も記憶もすっかり失われていってしまうのですが、まれなことにそうした記憶が少しだけ残っていることもあります。
わたにとってはもう半世紀以上も以前の話しです。
夏のあるとき父親が、九州の水郷と云われるカッパ伝説のある自然豊かな山里の親戚の家へ連れて行ってくれたことがありました。
その家に一泊したのですが、そこで今思えば不思議な体験をしました。
わたしは当時四歳か五歳前後だったと思うのですが、そのときの記憶だけは今でも鮮明に覚えています。
ここからは紙芝居風に紹介します。
始めて訪れた所は九州の水郷と云われるだけあって、田圃の周りをたくさんの水路が縦横に走って流れていました。
幼い私にとって、こうした田舎の景観を目にするのは初めてのことでした。
そこここの水路には山からの湧き水が音を立てて勢いよく流れていましたし、私たちが訪れた親戚の家にもそうした水路が家の前を流れていて、それを渡って敷地に入っていきました。
親戚の家の庭には、水路から水を引き入れた大きな泉水がありました。
その泉水の周りには何羽かのアヒルが居たのを覚えています。
親戚の従兄弟たちはわたしよりみな年長で、ちょうど訪れたときその泉水に入ってカエル取りに興じていました。
それこそ子供らの格好の遊び場という感じでした。
幼いわたしは、赤いふんどしを着けて面白そうに無心に遊んでいる従兄弟たちの姿を見て、何とも羨ましくて堪りませんでした。
その夜のことでした。
どうしたことかその日の夕方、急にその家から大人や従兄弟たちが居なくなってわたし一人だけがひろい台所に座っていました。
何故ひとりぼっちで置かれたのか、その前後のことは覚えていません。
頭上の裸電球の周りを蛾や虫がしきりに飛び回っていたのを覚えています。
そのときでした。開け放されたままの勝手口の方に何か気配を感じて、思わずその方に顔を向けました。
何かがそこには居るようだったので、わたしは一瞬驚きましたが恐怖心はありませんでした。
何なんだろうという感じでした。
目をこらすとそこには二つの丸い目のようなものが暗闇の中に光っていました。
何者かがそこに居るのは確かなのですが、その目は瞬きをする様子もなくじっとこらを見ていました。
こちらに近づいてくる気配もありませんし、それは家の中から漏れる電灯の明かりの中に入ってくる様子さえありませんでした。
一定の距離を保って暗闇の中に佇んでいるという様子でした。
そのままの状態で、わたしとその相手とは10分近くじっと対峙していたのだと思います。
何とも大きな目玉だと思いましたし、とにかくそこに居るのは人ではないなと子供ながらにも思いました。
わたしはその光る目玉を見て最初は犬だろうかとも思いましたが、犬にしては二つの目玉の位置が高すぎると思いました。
目の高さからみるとそのものは子供の背丈ほどもあるように思えましたし、本当に犬でしたらそのまま勝手口から入ってきてもおかしくはないはずでした。
声も立てませんし、動き回る気配もありませんし、ただじっとこちらを窺っている様子です。
そのように対峙しているうちに、その大きな目玉はいきなりふっと消えてしまいました。
その直後に人の話し声が遠くから聞こえてきて、皆が家に帰ってきました。
その夜はそれだけで終わったのですが、おかしな事はそれだけではありませんでした。
翌朝、好天でしたので顔を洗った直後に父親と散歩に出かけました。
家の前の水路沿いに田舎道をぐると一周していたのですが、途中で水路脇で変な物を見付けました。
竹が水路脇に立てられていて、それには藁でくるんだヒョウタンのようなものがぶら下がっていました。
父親に訊ねるとそれは「河童祭りの供物」ということでした。
カッパは水神の使いだそうで、そのカッパに供え物として米か酒がヒョウタンに入れられているというようなことを説明してくれました。
いまではこうした風習は廃れてしまっているようですが、当時はここらでよく見られたようでした。
このときわたしはカッパというのが分からず、しきりに父親に聞いたような気がします。
父は「カッパは水神さんの使いで水辺の妖怪、お化けだ」といいました。
ここらには昔からカッパが棲んでいて、子供のような外観をしているのだとも云いました。
本物のお化けなら怖いだろうなあと思いました。
田舎道を散歩がてら一周してわたしと父はたんぼ道を伝って親戚の家の前まで帰ってきましたが、そのとき何気なく敷地に隣接する水路沿いの水門が気になって思わず覗き込んでしまいました。
その水門は庭の泉水と繋がっているものでしたが、何となく覗いてみたい衝動に駆られました。
それは、やたらとあちらこちら覗いてみたいというまったくの子供らしい好奇心というものでした。
水門はずっと奥まで続いているようで、わたしはもっと奥を覗こうとして股越しにぐっとからだを折り曲げて水門口を覗き込みました。
そのときそこに見付けたのです。
夕べ遭遇したあの不思議な目玉の主が、何とそこに居たのです。
このときわたしは目玉の住処を見付けたと思いました。
目玉の主も私の方をじっと見ていました。
昨夜と変わらぬ大きな二つの目玉が光っていました。
わたしはそのとき目玉のことを傍に居た父には何も話しませんでした。
何故だか分かりませんが、そのときは話してはいけないような気がしたのです。
目玉の主はここでそのまま静かに居続けている方がいいのだと、わたしは思いました。
いまでも目玉の主がその住処に居続けているのかどうかは分かりません。
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