タイトル:障害者と射撃

 障害者と射撃の取り合わせとは意外かもしれないが、射撃は身体障害をもつ人の競技としても確立されている。パラリンピックの正式種目として、北京では12種目の射撃競技が実施される。日本は2000年シドニー大会で初出場し、アテネでは2名の選手が決勝に駒を進めた。北京大会へは5名の出場枠を獲得しており、これから最終的な選手選考が行なわれる。
 射撃の選手には、脊髄損傷、切断、ポリオなどが多い。音声で照準する装置を使う視覚障害者の種目もある。国際的な障害者射撃の発想は明快だ。健常者の射撃に身体障害に対応した最小限の用具や規則を追加することで、障害者の残存機能を最大発揮しようとする考えが貫かれている。そこには障害があるから競技を易しくしようという発想は一切なく、重度障害者の参加にも配慮しつつ、内容に妥協はない。
 他の多くの障害者スポーツと同じく、障害者射撃もヨーロッパで生まれ、育ち、世界に広まってきた。障害をもつことはその人のなんらかの能力低下だという捉え方をする社会からはこのような競技体系は決して誕生しなかっただろう。この国にも、その形だけでなく心が根付くことを願っている。

(執筆:平成20年2月17日(日))
タイトル:身体を操る

 身体感覚こそがあらゆるスポーツの本質部分で、射撃では誰もがストレートにそこに入っていけると述べた。そこからの話をする。
 今、私は「体幹内操法」と言う方法論に注目している。これは、栢野忠夫(かやのただお)氏が体系立てたもので、「筋肉ではなく骨格を主とした身体の操作方法であり、骨格操作を高めることで筋肉操作プログラムの書き換えを促し、骨格の中でも特に体幹内部の骨格操作をリーダーとして身体を操る方法(栢野忠夫著「動く骨」より、一部改変)」だ。
 これを読んで気になった方には氏の著書の一読をお勧めする。私がこれに注目したのは、多くのライフル射手が、身体の表層、末端あるいは身体と用具との接点の感覚にしか関心を払っていないと感じつつ、それとはちがう次元のなにかを示せずにいたからだ。これまでの射撃理論では、専ら人間の身体は銃の重量を支える物理的構成体として捉えられていて、骨格操作により筋肉操作の調和を求めようとかいう発想はなかった。栢野氏は、日本古来の武術にも発想の原点を求めて探求を続けておられる。非力を承知で、射撃スポーツの世界で体幹内操法の活かし方を求めることが私の課題の一つだと考えさせてもらっている。

(執筆:平成20年2月8日(金))

タイトル:不完全ノススメ

 先週、射撃に重要な能力のことを書いた。逆に射撃に向かない人もいる。それは完全主義者だ。
 たとえば600点満点の600点というフルスコアが出ることがある。それは1点の失点もない完璧そのものであり、すべてを完璧に実行しえた結果ではないのか。なのに、完全主義者こそ射撃に向かないとはどういうことだろう。
 実は、完璧あるいは完全というのは概念として存在するだけで、私たちが棲む物質を基盤とする現実世界には存在しない。フルスコアというのも、人間が10点満点だと取り決めた範囲に60発のショットを撃ち込むことができたという相対的に優れた状態のことだ。
 人間とはどこまでも不完全な存在で、人間に可能なのは完全に向かって努力して少しでもそれに近づいていくことだけだ。仮になにかを完璧になしうる者がいるとすれば、それは神様以外の何者でもない。
 完全を求めないと気が済まない人は、かえって競技中に自己崩壊しやすく、もろいタイプの射手になりがちだ。逆に、人間というのは不完全だが努力により完全に近づけることを知っていて、しかもそれを率直に喜べる射手は、強い。「完全」という蜃気楼から目を覚ますと、いろんなことが見えてくると思う。

(執筆:平成20年1月31日(木))