又云はく

「善導和尚は正・雑の二行を立て、雑行を捨てゝ正行に帰するの文。

第一に読誦雑行とは、上の観経等の往生浄土の経を除いて已外、大小乗・顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名づく。

第三に礼拝雑行とは、上の弥陀を礼拝するを除いて已外、一切の諸仏菩薩及び諸の世天等に於て礼拝し恭敬するを悉く礼拝雑行と名づく、私に云はく、此の文を見るに須く雑を捨てゝ専を修すべし。

豈百即百生の専修正行を捨てゝ、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。

行者能く之を思量せよ」と。

又云はく

「貞元入蔵録の中に、始め大般若経六百巻より法常住経に終はるまで、顕密の大乗経総じて六百三十七部・二千八百八十三巻なり、皆須く読誦大乗の一句に摂すべし」

「当に知るべし、随他の前には暫く常散の門を開くと雖も随自の後には還って定散の門を閉づ。

一たび開いて以後永く閉ぢざるは唯是念仏の一門なり」と。

又云はく

「念仏の行者必ず三心を具足すべきの文、観無量寿経に云はく、同経の疏に云はく、問ふて曰く、若し解行の不同邪雑の人等有りて外邪異見の難を防がん。

或は行くこと一分二分にして群賊等喚び廻すとは、即ち別解・別行・悪見の人等に喩ふ。

私に云はく、又此の中に一切の別解・別行・異学・異見等と言ふは是聖道門を指すなり」已上。

又最後結句の文に云はく

「夫速やかに生死を離れんと欲せば、二種の勝法の中に且く聖道門を閣きて選んで浄土門に入れ。

浄土門に入らんと欲せば、正・雑二行の中に且く諸の雑行を抛ちて選んで応に正行に帰すべし」已上。



通釈

中国の善導は、雑行を捨ててただ阿弥陀仏を礼拝する正行をせよと説いている。

雑行には五種有り、第一の読誦雑行は浄土のお経以外を唱えることである。

第三の礼拝雑行は阿弥陀仏以外を礼拝することである。

これについて法然は、雑行を捨ててただ念仏を唱えるべきであり、なぜ百人が百人極楽に往生できる念仏を捨てて、千人に一人も成仏出来ない雑行に固執せよというのか、修行者はよく考えよと述べている。

また、選択集には、貞元入蔵録というお経の目録には大乗経が六百三十七部・二千八百八十三巻が掲載されているが、これらは読誦大乗の一句に纏めるべきだ。

なぜならそれらは衆生の機根に随った随他意の方便なので、仏の随自意の念仏門を説けば閉じられるからである。

また観無量寿経の「三心を具足せよ」の御経について、善導は念仏以外の信仰者の邪な異見は防げよ、涅槃経などでは聖道門の者を群賊に譬えて信解も修行も別の者であると述べ、これについて法然は、別解別行とは聖道門の者であると述べている。

そして法然は選択集の最後の御文に

「速やかに生死の苦悩から離れたいならば、聖道門を閣いて浄土門に帰依するべきである。

浄土門に入ろうと思うならば、ただ念仏を唱える正行に努めよ」と述べている。

客猶憤りて曰く、明王は天地に因って化を成し、聖人は理非を察らかにして世を治む。

世上の僧侶は天下の帰する所なり。

悪侶に於ては明王信ずべからず、聖人に非ずんば賢哲仰ぐべからず。

今賢聖の尊重せるを以て則ち竜象の軽からざることを知んぬ。

何ぞ妄言を吐きて強ち誹謗を成し、誰人を以て悪比丘と謂ふや、委細に聞かんと欲す。

主人の曰く、後鳥羽院の御宇に法然といふもの有り、選択集を作る。

則ち一代の聖教を破し遍く十方の衆生を迷はす。

其の選択に云はく

「道綽禅師聖道・浄土の二門を立て、聖道を捨てゝ正しく浄土に帰するの文、始めに聖道門とは之に就いて二有り、乃至之に準じて之を思ふに、応に密大及以実大を存すべし。

然れば則ち今の真言・仏心・天台・華厳・三論・法相・地論・此等の八家の意正しく此に在るなり。

曇鸞法師の往生論の註に云はく、謹んで竜樹菩薩の十住毘婆紗を案ずるに云はく、菩薩阿毘跋致を求むるに二種の道有り、一には難行道、二には易行道なりと、此の中の難行道とは即ち是聖道門なり。

易行道とは即ち是浄土門なり。

浄土宗の学者先づ須く此の旨を知るべし。

設ひ先より聖道門を学ぶ人なりと雖も、若し浄土門に於て其の志有らん者は須く聖道を棄てゝ浄土に帰すべし」と。



通釈

客は怒って言う。

明王は法則に従って世を治め、聖者は善悪を分別して社会の繁栄に努めている。

世の僧侶たちは多くの人達が帰依する立派な人達である。

悪い僧侶ならば明王は信じないし、徳がなければ賢人は尊ばない。

いま聖者や賢人たちが尊んでいるのだから、その僧侶たちは徳も高く立派なのだ。

それなのに出任せに誹謗して、一体誰のことを悪い僧侶だというのか。

その理由を聞きたい。

すると主人は次のように答えた。

後鳥羽上皇の時代に法然という者がいた。

選択集という悪書を書いてお釈迦様の教えを破壊し、人々を迷わした。

その選択集には、中国浄土宗の道綽は、仏法の浄土門と聖道門の二つに分けて、「浄土門だけを信ぜよ」と説いている。

聖道門には大乗と小乗があり、また、真言・禅・天台・華厳・三論・法相など、念仏以外のすべての教えが含まれ、それらを捨てよと述べている。

中国浄土宗の曇鸞は、竜樹の毘婆紗論に菩薩が不退の位を求めるのに、難行道と易行道の二つがあるとの言葉を解釈して、易行道とは浄土の教えであることを念仏を学ぶ者は知るべきであり、譬え今まで聖道門を学んできた人でも、志があるならば聖道門を捨てて浄土門に帰依しなさいと述べている。

今日は支部登山でした。

昨日の晩からバスで出発し、今朝到着。

朝方は寒かったのですが、昼ごろには大分暖かくなってきて、富士山もばっちり見えました。
日蓮正宗ライフ-富士山

御開扉の後、布教講演があり、坊の前で記念撮影をして帰ってきました。


今日の布教講演は自分の名前すら忘れるくらい物覚えが悪く、自分の名前を板に書きぶら下げていたと言われるスリハンドクのお話でした。


我塵を払い、我垢を除く

物覚えの悪いスリハンドクが初めて覚えたお経だそうです。


物覚えの悪いスリハンドクは朝に修行に出て、夕方に帰ってくる僧侶の汚れた草履を掃除しながら、このお経を唱えて覚えたそうです。

スリハンドクは塵や垢が草履の汚れの事ではなく、貪瞋痴の三毒であることがわかって初めて、お経文を覚えることが出来たそうです。


そして、阿羅漢の位を得たスリハンドクが初めて、尼さんに説法をする時、スリハンドクをバカにするために、皆で結託してスリハンドクより先に「我塵を払い、我垢を除く」のお経を言って笑いものにするはずだったのですが、それを口にしようとすると自分達の命の汚れに気づいて、そのことを口にすることができず、シャリホツなどの立派な僧侶でも教化できなかった尼さんを教化することが出来たそうです。


元々スリハンドクとは過去世には仏様の2万の弟子の中で一番賢い僧侶で、他の人を「バカ」だと言った因縁で物覚えの悪い子供として生まれてきたそうですが、お釈迦様の時代に身をもって法を学ぶことで罪障を消滅しているそうです。


尼さんを教化できた理由も、お経をたくさん覚えている僧侶はたくさん居るけれども、スリハンドクは法を実践したことで尼さんを教化することができたのだ。という、この770年を前に実践することが大事だという。御説法でした。


お給仕のスリハンドクの話もありましたが、ま、このへんで。。。


あ、あと茗荷(みょうが)とは、スリハンドクが名前を板に書いてぶら下げていたところからちなんで、名を荷う草というところから由来しているらしいです。

法華経に云はく

「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に、未だ得ざるを為れ得たりと謂ひ、我慢の心充満せん。

或は阿練若に納衣にして空閑に在り、自ら真の道を行わずと謂ひて人間を軽賤する者有らん。

利養に貪著するが故に白衣の与に法を説いて、世に恭敬せらるゝこと六通の羅漢の如くならん。

乃至常に大衆の中に在りて我等を毀らんと欲するが故に、国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向かって誹謗して我が悪を説いて、是邪見の人外道の論議を説くと謂はん。

濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん。

悪鬼其の身に入って我を罵詈し毀辱せん。

濁世の悪比丘は仏の方便随宜所説の法を知らず、悪口して顰蹙し、数々擯出せられん」已上。

涅槃経に云はく

「我涅槃の後無量百歳に四道の聖人悉く復涅槃せん。

正法滅して後像法の中に於て当に比丘有るべし。

持律に似像して少しく経を読誦し、飲食を貪嗜して其の身を長養し、袈裟を著すと雖も、猶猟師の細視徐行するが如く猫の鼠を伺ふが如し。

常に是の言を唱へん、我羅漢を得たりと。

外には賢善を現じ内には貪嫉を懐く。

唖法を受けたる婆羅門等の如し。

実には沙門に非ずして沙門の像を現じ、邪見熾盛にして正法を誹謗せん」已上。

文に就いて世を見るに誠に似て然なり。

悪侶を誡めずんば豈善事を成さんや。



通釈

法華経には、

「末法の悪僧は邪智で心がねじ曲がり、悟ってもいないのに悟ったと思い込み、慢心を持っている。

山奥の静かな所で修行して悟りを開いたと思い、世間の人を軽んじ賤しむ。

欲望のために法を説き、世間の人から尊敬されることは、超能力を得た阿羅漢のようである。

そして常に大衆の中にあって、正法の行者を毀るために、国王や大臣たちに行者の悪口を言って、邪見で道理に外れた教えを説いていると誹謗する。

末法の時代にはいろいろな迫害を受ける。

悪鬼が周囲の人に取り入って迫害してくる。

悪僧たちは仏の教えに方便があることを知らず、方便に固執して正法の行者の悪口を言い、顔を顰め、追い出す。」と。

涅槃経には、

「釈尊入滅の後、像法時代の僧侶は戒律を持っているように見せかけ、美味しいものを食べ、袈裟を着ているが、猟師のように信徒の布施を狙い、それは猫がネズミを見るようである。

そして常に『私は悟った』と言って、外には立派そうに見せかけて、内心は欲望や嫉みを持っている。

質問を受けると、無言の修行である唖法を修行する者のように黙ってしまう。

本当の修行者でないのにそのように見せかけ、邪見が強く正法を誹謗する」と説かれている。

これらのお経文によって世の中を見ると、本当に邪法がはびこって正法の行者を誹謗している。

それ故に、邪法を説く悪僧を誡めて正法を流布しなければ、世の中を安穏にすることができないと戒められている。

客色を作して曰く、後漢の明帝は金人の夢を悟りて白馬の教を得、上宮太子は守屋の逆を誅して寺塔の構へを成す。

爾しより来、上一人より下万民に至るまで仏像を崇め経巻を専らにす。

然れば則ち叡山・南都・園城・東寺・四海・一州・五畿・七道に、仏経は星のごとく羅なり、堂宇雲のごとく布けり。

鶖子の族は即ち鷲頭の月を観じ、鶴勒の流は亦鶏足の風を伝ふ。

誰か一代の教を褊し三宝の跡を廃すと謂はんや。

若し其の証有らば委しく其の故を聞かん。

主人喩して曰く、仏閣甍を連ね経蔵軒を並べ、僧は竹葦の如く侶は稲麻に似たり。

崇重年旧り尊貴日に新たなり。

但し法師は諂曲にして人倫を迷惑し、王臣は不覚にして邪正を弁ふること無し。

仁王経に云はく

「諸の悪比丘多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。

其の王別へずして此の語を信聴し、横に法制を作りて仏戒に依らず。

是を破仏・破国の因縁と為す」已上。

涅槃経に云はく

「菩薩、悪象等に於ては心に恐怖すること無かれ。

悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ。

悪象の為に殺されては三趣に至らず、悪友の為に殺されては必ず三趣に至る」已上。



通釈

客人が血相を変えて次のように言った。

中国の後漢の孝明皇帝は夢に見た仏教を守り、日本では聖徳太子が物部守屋を討ち取って仏法を流布した。

以来多くの人達が仏像を崇めて信仰をしている。

だから比叡山の延暦寺や、奈良の七大寺、三井の園城寺、京都の真言の東寺、或いは日本全国に星のようにたくさんのお寺が建立されている。

舎利弗の流れを組んで仏法を信仰する者たちは一念三千を知り、仏法を伝える者たちは迦葉以来正しく伝えている。

誰かお釈迦様の教えを軽んじたり、仏法を滅ぼす者がいるだろうか。

それを聞いた主人が諭して答える。

確かにあなたの云うようにたくさんの寺院が並び、多くの御経蔵が建立されている。

僧侶は竹や葦や稲や麻のように、数え切れないほどたくさんいる。

仏法を信仰するようになって多くの時が過ぎ去り、信仰心の厚い人が日ごとに多くなった。

しかし僧侶は権力者に諂って人を迷わし、国王や家臣たちはその教えの正邪を知らずにいる。

仁王経には、

「多くの悪い僧侶は利益を求め、そのために国王や太子の前で仏法を破り、国を破る因縁を説く。

国王はその言葉が邪義であることを知らずに信じ込み、仏の教えに背いて間違った法律を作る。

これを破仏・破国の因縁という」と。

また涅槃経には、

「菩薩たちよ、悪象に殺されることを恐れるな。

悪知識は恐れよ。

なぜなら悪象に踏み殺されても三悪道に堕ちないが、悪知識に惑わされると三悪道に堕ちる」と。