生田の論理 -6ページ目

帽子のもたらす絶大的効果

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帽子の与える効果とは一体何だろうか。まず飲食店の観点から考えてみる。約1ヶ月前に始めた新しく初めたカレー屋さんのアルバイト。そこは飲食店であるため、帽子を被る。帽子を被る意味を考えてみる。そんなこと考えなくてもわかる、と思う人は多いのではないであろうか。確かにそうだ。帽子を被る意味とは、カレーなど料理に髪の毛が入らないための予防策だ。という結論にいたる。その他にも理由として存在することはあるのかもしれないが、僕の思考力ではあまり思い付くことがないのでその結論を「真」とする。バイトが終わり、被っていた帽子をとる。するとどういったことが起きるか。それは髪型がとんでもない形になっている。ということだ。髪の毛が非常に癖毛な僕など、長時間帽子を被っていると、その髪型の変わりぐあいは半端がない。いつも手ぐしで直し苦戦する。そこで登場するのが、その髪型を隠すための帽子だ。ファッション的観点から考えてみる。帽子を被る意味を考える。その人をカッコ良く、可愛くみせる効果。頭を目立たせるという効果。逆に髪型を隠すという効果。それらは常に周りの視点があってこそ成り立つものである。つまり飲食店の観点からみたときと結論が全く違うところへ辿り着く。帽子、という同じ名詞であっても、しかも被る、という同じ動詞の使い方であっても、その意味というものは全く違うものになる。何か別の観点からみれば、頭を守るため。というようにさらに違う発想が生まれるのかもしれない。ちなみに写真に写っている帽子はバイトの帰りに髪型で悩んでいたためそれを克服するために購入した帽子。である。これで克服されると考えると気分が安らぐ。ハンチング帽といわれる帽子である。もちろんファッションとしても使わせていただきたい。今までファッションという観点で帽子というものを被ったのは小学生以来であるので、周りからの視点がどう評価してくれるものか気にはなる。論理的に考えると被ることにより、見た目の印象が良くなる。悪くなる。変わらない。の3パターンになる。どのパターンであっても、折角手に入れたものであるので大事に扱っていきたいと考える。もうひとつちなみにの話をする。大学の友人である袴田類くんが、前回の「お好み焼きといっくん」の時の写真に写っていたsunao kuwaharaの袋を見て何を買ったのか気にされていた。そういった内容を自身のブログで述べられていた。買ったものは上記の写真で着ているPコートである。余談であるがPコートのPは様々な説があるが「パシフィック」のPが有力である。話を帽子に戻す。帽子はどの観点から見るかにより、アクセサリーにもなり、料理を守るものにもなり、極論で言えば命を守るものにだってなりうる。そう考えていけば他にも何か別な、それこそ今僕が考えているもの以上に絶大な効果だってあるのかもしれない。帽子の与える効果とは一体何だろうか。

お好み焼きといっくん

生田の論理


お好み焼きは奥が深い食べものだ。僕は単純に好きな食べ物だ。しかし格別大好きだというこだわりはない。ただ単純に、関西人ならば粉もの好きである。という、関西人は粉もの好きであるための十分条件の関係がある。そういうレッテルがある分影響を受けていると言ってしまえばそうなのかもしれない。今回はサークルの友達とバーゲンセールの帰りに晩御飯として風月に食べに行った。非常においしかった。やはりてこを使って食べたほうが雰囲気という観点からみておいしく感じる。味覚的観点からみればお箸を使って食べる場合と同値なのかもしれないが。今回僕は豚モダン焼きラージサイズを食べた。お好み焼きと焼きそばのミックスは非常に良い。麺類という粉物と焼き物という粉ものの積集合である。積集合。すなわち「かつ」の関係である。風月の場合は店員さんが焼いてくれるが、自分で焼かなければいけないお好み焼き屋さんも存在する。材料は同じであっても作り方、焼き方がが変われば味は違うものが出来る。おいしく食べるには焼き加減は重要なのかもしれない。しかしこれは僕の意見であるが、作り方がどうこうと言いながら作るお好み焼きより、みんなでわいわい楽しみながら大体な感じで作ってみんなで食べるお好み焼きのほうがおいしく食べれるんじゃないか。と言う風に考える。食事を楽しむには料理評論家以外には論理的思考はふさわしくないのかもしれない。お好み焼きは奥が深い食べものだ。

去年という過去を見納め、今年という現在を見る。

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2009年もよろしくどうぞ。今年は去年を糧にし、かつそれを凌駕する年にしたい。2008年という過去はいくら後悔したところで変わりはしない。これは僕の考えであるため、批判もあるかもしれないが、仮にタイムマシンが出来て過去にいけたとしても、その気持ちは変わることはない。過去に戻ることができたとして、例えば2008年の自分が後悔するちょっと前まで戻り、後悔のしない方法を選んだとする。簡単に考えてみる。後悔をしない方法を選んだのだからその後の自分の未来は良くなる。という考え方。もう少し深く考えてみる。その世界は過去に戻った世界がその人にとって現在となるため、過去に戻ったところからまたタイムマシンを使わないかぎりその先のことはわからない。「後悔しない方法」というのは後悔をしてしまった、タイムマシンに乗る前の自分が感じていたことであり、後悔しないと思っていた方法を試したあと、それ以降が自分の理想としていた後悔しない道であるとは限らない。したがってその行動をとったことでどうなるかは、タイムマシンに乗る前より悪くなる、良くなる、変わらない。の3パターンのいずれかになるという考え方。さらに深く考える。上記の3パターンのいずれに該当したとしても、その基準はタイムマシンに乗る前の軌跡があってこその感情になる。すなわちタイムマシンにのってしまった時点で、後悔してしまったと思っていた世界とは縁を切るということになる。したがって今の3パターンの基準すらなくなる。「後悔しない方法」を行動したとして良くなったと思っても、そこからの世界が予測不能(またその時にタイムマシンを使わないかぎり)であるため良くなる、などの基準がないため、変わらない。と言う結論に辿り着く。タイムマシンの話はこのあたりで終わりにする。2008年という年は非常に感銘を受けた年になった。人との出会いもあれば別れもあった。大学の友達。大学の友達の友達。サークルの友達、後輩、先輩。同じバイトの方々。家族。そういった人たちとの繋がりは論理的思考をはるかに越えるものが存在する。したがって論理的には説明できない、という結論に辿り着く。2009年は自分の存在。すなわちキャラというものを自分自身が見定め、かつ周りのみんなが認めてもらえるような存在になりたい。と考える。2009年を思う存分楽しむ、という要素も忘れず取り入れていきたい。2009年もよろしくどうぞ。