生田の論理 -3ページ目

春休みの存在意義

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春休みは何のために存在するのだろう?
意味はある。意味がないということは決してない。意味がない、ということ自体に意味があることは考えればわかることである。ただ存在する意味にみなさんが執着していないだけである。
春休みは実に有意義に過ごせる時期である。ここでいう有意義というのは、客観的に見た場合ではなく、主観的に見た場合の有意義である。旅行に出かける。勉学に励む。就活を頑張る。様々な行動がある。逆に家でゆっくりする。体を休める。という行動もある。これも有意義である。主観的に見た場合というのはこういったときである。
僕は旅行などは今回は行けなかったが、様々な行動をした。友達とご飯を食べに行ったり、カラオケに行ったり、スポッチャに行ったり。はたまたバイトを頑張ったり、自分へのご褒美に財布を買ったり、時計をかったり、先輩の卒業式に行ったり、家でヒューマン系映画を見たり、色々である。
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ここでひとつの結論を導きだそう。
春休みの存在意義。
それは自分の中にある思い出をさらに増やすことができるための休暇期間。または大学の講義があるときでは成すことができない何かを成すための行動期間。という結論にたどり着く。残りの春休みもみなさん主観的有意義な行動をされることが良いのではないか。しかし他にも何か別の考え方はないものか。
春休みは何のために存在するのだろう?
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最期にアイはカツ

 ランチを豪華にしたならば、その日は幸せな気持ちになる。今回はこの命題が「真」であるか「偽」であるかを論じたい。僕は間違いなくこの命題は「真」であると考える。「真」とした場合、反例(例外)はあってはならないのだが、普段の生活リズムが続いている場合。という前提条件はつけさせていただきたい。
 ここでいう豪華の定義としては、お金が高い。ということではなく、その人自身がランチに対して普段そこまでお金を出そうと思わない額を出し、かつその料理が美味しいと感じること。とする。
今回は京都四条にある「かつくら」というトンカツ屋さんでランチをした。学科の友人である佐々木亮太くんと共にランチを楽しんだ。僕はロースカツを注文した。
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 味はどうであったか。僕は料理評論家やコメンテーターのように気の利いた事は言えないので一般的形容詞を使用させてもらう。
 非常に美味しかった。もう少し述べるならば、豚肉が非常に良い弾力であり、衣と中身も文句なしの旨さであった。
ここではご飯、味噌汁、キャベツの3つがおかわり自由であり、僕はキャベツを2回程おかわりさせていただいた。ご飯もおかわりさせていただいた。
 お茶もおいしくいただいた。
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 安くてうまい。というフレーズは確かに魅力的である。その方が自分の経済的観点からみても、財布からお金が減るという事実的観点からみても良いのかもしれない。しかし考えを深くした場合、自分が本当に心の底から美味しいと思えた料理に関しては、お金を出すという行為は決して無駄使いなどではなく、極端に言えば豪華な食事をとるということは、その後の自分の人生をプラス思考に考えられる要素を含んでいると考えても決して間違いとは言えないのである。
今回はランチを共にした佐々木亮太くんに「かつくら」でのカツの美味しさを教えていただいたことに感謝したい。その後もウィンドウショッピングを楽しみ、カラオケを楽しんだ。非常に楽しかった。ありがとう。少し前の写真であるが…。
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ランチを豪華にしたならば、その日は幸せな気持ちになる。

あなたなら痛みとどう立ち向かう?


生田の論理


 痛みに耐えるということは、人生において辛いと感じられる要素に含まれてしまうのは認めざるをえない。ここでいう痛みとは、精神的な痛み、すなわち心の痛み。であるとか、物理的な痛み、すなわち外部から与えられた外傷からの痛み。の2つを指すと考えてもらってかまわない。今回僕が述べたい痛みとは、その中間地点の痛みである、何のことかというと、歯の親知らずを抜いたときの痛みである。それは物理的痛みだろうと考える人もいるだろうが・・・、僕の中では中間地点と表しても良いのではないかと考えられる。理由としては、今回は気持ちの要素が入るので、割愛させていただきたい。以下を読んでいただければそうとも考えられるかなと思っていただければ幸いである。

 先週の水曜日、僕は病院で右下の親知らずを抜歯した。友達や、周りの人たちから、「親知らずを抜くと顔が腫れる。」「抜いた後がかなり痛い。」などを聞かされていたので。僕は当日まで非常に怖かったが、当日は、何とか無事に抜くことができ、実際に病院での痛さは、血液検査のときの注射と、麻酔を打ったときの注射の痛さだけであった。無事家にも帰り、麻酔が切れ掛かった頃、痛さが少し出てきて、痛み止めを飲み、ある程度予想していた痛さであったので、その日は何とか普通に耐えることが出来た。しかし2日目、前日よりもかなり痛みが増している。麻酔が完璧に切れてしまったからか、腫れがひどいからか、など色々考えてみるが、考えたことによってそれが自分にとってプラス要素になるかと論理的思考をおこなっても何にもならないことは容易に推察できる。したがってこのときの状態はとにかく痛みに絶える。という行動に尽きる。痛み止めは効くが、4時間ほどしか効果をもたらさない。しかも効く、といっても、痛みがなくなる。というわけではなく、我慢できる痛さのレベルまで下がる。と解釈していただきたい。痛み止めは6回分もらっているが、その2日間でなくなってしまう。これはとうとうマズイ。と感じる。自分にとってどういった行動が一番理想的で適切な処置かを様々に考えてみるが、まずひたすら我慢する。という行動は、しなければならないとわかっていても、非常に辛いものであった。そこで歯医者さんに行き、痛み止めの薬をもらうことができ、なんとか耐えしのぐことが出来た。歯科医師さんは、2、3日すれば収まっていきますとおっしゃってくださったので、もう少しの辛抱だと強く願った。しかしそれが5日ほど経っても一向に収まらず、むしろ痛みが増しているような感じがした。僕は人生で初めて自分のベッドの上で寝て、起きて、寝て、起きて、をひたすら繰り返した。初めて自分の思考力が正常に働く機能が低下していると感じた。痛み止めも、歯医者さんに三度もらいに行き、合計で25回ほど飲んだが、とうとう精神的に限界に達してしまっていた。今日親知らずを抜いてもらった病院へ再び行き、また見てもらうと、「ドライソケット」というものにかかっていると診断された。親知らずを抜歯した人の内2%~5%の人にかかってしまうらしい。ドライソケットは、抜歯後5、6日後くらいがかなりの激痛であると言われた。親知らずは本当に抜いた後が怖い。これから抜く人もいるかもしれないが、痛み止めは常に常備しておいたほうが良いといえる。痛さは人によるみたいなので、そんなに痛くなく収まる方は本当に羨ましい。今も痛み止めを飲み、久しぶりのブログを書いているが、また痛さがくると考えると、先が思いやられてしまう。しかしこれも自分の長い人生の中の1ページに刻まれると考えれば、こういうこともあっても良いではないか。と思いたい。今は思えないが・・。つぎの内容は、是非楽しいことを書きたいと思う。

 痛みに耐えるということは、人生において辛いと感じられる要素に含まれてしまうのは認めざるをえない。