生田の論理 -2ページ目

サングラス効果アップの定理

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サングラスは人間の眼を第三者に見えなくするための効果がある。
それを行うことにより格好よさがアップするという現象が起こる。
隠すことにより格好良さがアップするとは些か良いイメージではないかもしれないが、決して悪いことではない。ファッションは身に纏ってこそ自分に輝きが与えられるのである。
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すなわちサングラスをかけることにより気分的に自分が良い気分になるという効果も得られる。
また、周りからどこを見てるのか分からなくさせる効果も得られる。これは見ていると言うのを悟られないようにするための、重要なサングラス効果の1つである。
友人の袴田類君もイケメンではあるが、サングラス効果アップの定理によりさらにイケメンになっていることが伺える。
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ビアガーデンの居心地よさ

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ビアガーデンは非常に物理的、肉体的、精神的、相対性理論的、ニュートン力学的、カオス理論的に癒される空間である。非常に楽しい場所である。
PAOさん、誕生日おめでとうございます。

春(Spring)という季節が人間に与える秘めたる力(Secret power)

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 春という季節は新たなスタートを印象づける爽やかなイメージを感じさせる季節である。

 僕は好きな季節は何かという質問には「秋」と答える。厳密にいえば暑い「夏」が続き、そろそろ涼しくなってきたな、と感じる頃の時期が好きである。つまりは暑い「夏」が存在するからこそ、涼しくなったな、と感じる「秋」という季節が素晴らしく感じる。そう考えると、夏も同じようなことがいえるし、冬でも春でもそれは言えるのではないかという結論にたどり着く。四つの季節は一つとて欠けてはいけない存在になる。ここで得られる教訓とは何か。「四季」という現象は実に奥深く素晴らしいものであるということである。

 今回は4月でもあるということで、その中でも「春」についてのLogical Thinking(論理的思考)を駆使したい。「春」は新たなスタートを踏み出す季節となる。西暦の「年」で考えると、スタートは1月、つまりは「冬」になる。「年度」で考えるとスタートは4月、つまりは「春」となる。気持ち的な間隔では後者、すなわち4月の方がスタートという言葉にはふさわしいのではないか。入学、進学、入校、入園、入社と言ったように新たに踏み出すときが「春」という季節に存在するからである。

 また、新たな人との出会い。これも1年の中ではこの「春」が一番多いのではないかと考えられる。この世の中様々な人間が存在するなか偶然にもめぐり合わせた人たちとの出会いというものの素晴らしさをこの「春」には感じる。哲学者のなかには人との出会いは偶然ではなく必然である。と考える方が多く存在するようであるが、僕は偶然であると信じたい。なぜならそれを必然と言ってしまえば、人の行動することは全て必然ということに置き換えられてしまうからである。運命は決まっているという考え方。おそらく偶然という概念が存在しないと考えているのであろう。偶然と見せかけていることが実は必然。すなわち偶然は必然であるための十分条件であり、必然は偶然であるための必要条件的な考え方なのかもしれない。簡単に言えば偶然という概念は必然という概念の中にのみ存在していると考えているのかもしれない。僕は偶然と必然は空集合、すなわち全く別のものであると思いたい。僕の考える必然の例を挙げるならば、「人間の死」であるとか、「出会った人との別れ」などに相当するのが必然であると考える。これを深く考えてしまうと本当に難しくなりそうなので今回はこのあたりで割愛する。おそらく僕では到底理解できない、膨大な知識と考え方で偶然は必然と考えられているのであろう。

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 話は戻るが、ではその新たに踏み出すときや、新たな人との出会いを実際に体験した人間の視点になって考えてみる。おそらくその人の気持ちは「楽しみ」というプラスイメージが存在するのは納得である。人間新しいことをはじめたりするときは楽しさという感情は人によって様々ではあるが、少なからず思うであろう。他に与えられる感情といえば「不安」というマイナス?イメージである。マイナスに?をつけたのは「不安」と言う言葉がマイナスイメージと解釈していいのかが賛否両論になると感じたからである。少なくともプラスイメージにはならないのでここではマイナスと扱わせていただく。「楽しみ」というプラスの気持ちと、「不安」というマイナスの気持ち。その大きな二つの気持ちが一気に襲ってくる時期がまさに今、「春」という季節である。つまりは人間に非常に大きな力、肉体的力ではなく精神的力を与えるという効果が「春」には込められていると解釈しても何ら不思議ではないのではないか、と考えられる。

 視覚的分野から「春」を見てみる。春といって連想されるもの、やはり桜のイメージが強い。桜は本当に良い。眺めていると「今年も新たな生活が始まるんだ。」という気持ちでいっぱいになる。人によっては桜のイメージが嫌な思い出となっている人がいるかもしれないが、ほとんどの人が桜は良いイメージではないかと感じる。

 僕は大学の取得単位数が足りず、留年という実に残念な結果になってしまった。なので新たなスタート。という印象は去年の繰り返しのため今回はないのであろうな。と春休み期間のときは思っていた。しかし4月になり、桜の花や、周りの友達の就活や研究室での頑張っている姿を見ると、やはり僕の中でも留年したとはいえ、新たな一年はスタートしているんだと実感した。みんなと一年遅れてしまったという事実はしっかり受け止め、反省しなければならない点はいくつも存在するだろう。しかし、今のこの状況を考えれば、悔いるという行動より、新たに進む、という行動のほうが自分にとってプラスの方向になるだろうと非常に感じる。同じ留年をしてしまった友達もいてるので、ともに協力し合い、励ましあい、自分自身にとってプラスの方向になるような学生生活を送ることが望ましいと考えられる。

 It goes so far as to say(極論すると)、留年したということ自体Positive thinking(プラス思考)で考えれば、この2009年度は留年、というレッテルに縛られず、しかも改めて極論だが、「留年したおかげでさらによくなった。」と思えるくらいの気持ちでこの1年様々なことに励んでいきたい。春という季節がだんだん好きになってきた。

 春という季節は新たなスタートを印象づける爽やかなイメージを感じさせる季節である。

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