日本辺境論(内田樹著) | けんじいのイージー趣味三昧

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 情けないことだが、仕事だろうがプライベートなことだろうが、何か考えよう、企画しようとすると、どこかに手本があるのがあたり前だと思ってきた自分がいる。

 実はそれこそが辺境人なのだという指摘が最近ブームのこの本である。日本が辺境の地であったことは、世界史的にも真実だろうし、実は西欧諸国も同じだったというやや視野を広げた見方を打ち建てたのが、尊敬する梅棹忠夫先生だ。この本を書いた内田先生は、これを認めたうえで下世話な物言いで「手本はどうなっているのか、他人はどうするのかを求めてきょろきょろする日本人こそが辺境人の日本人。これは変われないし変わる必要もない」と結論する。

 その証拠として先生は、中国からもらった漢字を真名(本物)とし自ら作り出した文字を仮名(借り物)とするその発想を始め列挙する。中でも納得させられたのが、日本という国号と日の丸という国旗である。
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 べトナム(越南)が越前から越後までの北陸地方みたいな名前だとは思っていたし、モンゴルが蒙昧で古めかしい(蒙古)名前を中国につけられたとは思っていたが、「日本」もあくまでも中華帝国から見て、東から昇る日の下(本)にある国であり、それを象徴した日の丸だというのである。

 聖徳太子の「日出る国の天子、日没するところの天子に使いす」という台詞は相対的、対等な感じがして日本人には痛快事だと今まで思っていたが、何のことはない、朝鮮(中国から見て朝の鮮やかな光が差し込む方向にある国)、越南(中国から見て越えた南の方にある国)と何ら変わらない、中国から見た「日本」という命名だった。

 話が枝葉末節に流れたが、しかし「変わる必要もない」と言われるとホントに?と返したくなる。中国では今、「三流企業がモノを作り、二流企業が技術をつくり、一流企業がルール(世界標準)を作る」と、盛んに言われているという(先日の日経新聞)。企業をそのまま国に置き換えれば、手本(スタンダード)を自ら作れない日本はいずれ三流国ではないか。

 なお第3章にあたる「機の思想」の部分は、けんじいの頭脳では理解できなかったことを正直に申し上げておく。