Forget-me-not | 海豚座紀行

海豚座紀行

──幻視海☤星座──

むだに東京がはなやかで、むだにリッチなひともおおくて、むだに女性はプライドがたかくて、むだにショッピングや交際にあけくれて、むだに多忙だった気もするバブル経済のたそがれ... いまではみかけない高級クォーツ時計やオーディオ機器のCMが深夜TVの時間枠をムーディにいろどっていた。ぼくら大学1年生も昼に夜にサークルだ合コンだとおおわらわだったし、 「パー(ティ)券買わない?」 とキャンパスで声をかけられない日はなかった。そんな時代のおはなし... くる日もくる日も六本木がよいで、ぼく自身はすこしも所持金がなかったのに、なぜだか中学生のころから親友は富豪のせがればかりで、いつでもどこでもおごりだった。おごられてとうぜんだとおもっていたふしもあって、おひらきの時間はたいてい終電のあとで、たいてい友だちのポルシェ・カレラやNSXでわが家にご帰還だったから、ぼくは同年代のかれらをアッシーよばわりしていた女の子たちとおなじメンタリティだったのかもしれない...

「個人情報保護法」 などの末梢神経的なものも携帯電話もなかったころで、さまざまなルートから自宅にも勧誘電話がかかってきたが、 「ナカジマくんの紹介で」 などといってイヴェント企画会社なる現代ではけっして存続しえない営利団体の女性から深夜に電話がはいったときも、ことさら警戒することはなかった。 「じつはナカジマくんがはいってるラ・ネージュ(※スキーサークル)のパーティをおととい表参道で企画させてもらったの」
「たけしっすか?」
「たけしって名まえだったっけ?」
「だって顔がビートたけしにそっくりじゃないっすか」
「ごめんなさい、オータニのバイトがあるとかでナカジマくんはこなかったから面識はないの。でも電話でさっき彼としゃべる機会があって、そのときに何人かの電話をおしえてもらったの」
「たけし」 ことナカジマ・カツユキはつまり何人かの電話番号をリークすることで、こんな勧誘を早々にきりぬけたというわけだった。ぼくは相手にたずねた。 「んで... どんなご用ですか?」
「あのね」 せきをきったように電話のむこうの女性はしゃべりはじめたが、はたしてどんな用むきの電話だったのか? いまのぼくはおもいだすことができない。ただし電話をうけたときに時計がすでにAM2時をまわっていたことや、とりとめがない相手のはなしよりもヴォリュームをしぼった深夜映画に意識をむけていたことはおぼえている。 「あさってまた電話するから、それまでに検討しといてくれない? えぇ~もう4時!? ほんと長電話でごめんなさい、おやすみ☆」

「長電話」 という意識はしらじらと夜があけそめないかぎり彼女の内部にうかんでこないものらしく、こちらもそのせいで1時限めの講義にまにあわず、たびたびB神父からフランス語の呪詛をあびせられた。もはや勧誘とはいいがたく、おしゃべりのためだけに彼女は夜ごと電話してきた。ぼくもそれを無下にしりぞけなかったのは、やおら相手の口吻からにおう病理に興味をいだいたからかもしれない... さきにのべたとおり勧誘とは無縁で、ただ慾得もなく電話でしゃべりまくる。しゃべる内容の9割は尾崎豊のことで、あいにくとこのミュージシャンにぼくは彼女の病理にたいする興味の0.01%ほどの関心もなかったが、 「存在」 「ダンスホール」 などの曲名を彼女がうんぬんしたときに、それらのメロディやフレイズが脳裡をよぎらないほど無縁だったわけでもなく、それどころか中学生のころからファンがまわりに何人もいたので、デビューアルバム以降のなかば伝説化された3部作は聴くともなく聴かされて、いきおい耳になじんでいた。

冬の黄昏ははやい。おれたちは青山学院まえの歩道橋を歩きながら暮れてゆく夕やけ空をながめた。「この歩道橋で尾崎豊が曲をいっぱい考えたのさ」 と峰雄はいった。
おれは尾崎豊がきらいだった。


『白い血』 という拙作からの引用で、ぼくたちが高校生だったころのメンタリティもここからつたわる。くしくも河出書房新社の1月初荷として本作が出版された1992年に尾崎豊やエディ・ヘイゼルがドラッグで落命しているが、このころ染谷俊はみずからがパーソナリティをつとめるラジオ番組で本作をとりあげたために尾崎ファンからすくなからぬ投書がまいこんだことをぼくにうちあけた。それでもリンクをはったブログにあるごとく染谷アニキはいまでも拙作にふれてくださる... ぼくが蛇蝎視したのは尾崎豊本人ではなく、ささいな否定にさえ激昂するような重症の尾崎ファンたちだった。ドゥビュシィは先輩格の作曲家ヴァンサン・ダンディをきらっていたが、やはりダンディ本人よりもその追従者たちによる “勢力” をきらっていたふうにみえるし、はなはだ皮肉なことにドゥビュシィ自身もおなじ指弾をまぬがれるわけにはゆかなかった。

わたしがドゥビュシィを攻撃することはない。わたしにとって不快なのはドゥビュシィ主義者たちだけだ。


「おれは尾崎豊がきらいだった」 という上掲の一文のニュアンスも、エリック・サティのこのアイロニィにちかい。いい歳をしたファンという種族には虫酸がはしるが、ことに日本のタレントやミュージシャンのコアファンは度しがたい。もっと海のむこうや時代のむこうに眼をむけたなら、すぐれたものや偉大なものが無数にみつかるのに、おなじ皮膚感゠言語感のあまえに閉塞して無智から対象にへばりつく。かれらは無教養ゆえに新興宗教や四柱推命にいれこむ地方の信徒たちとかわるところもなく、いなかくさい体臭をたちこめながら集団化している。いかにもいなかくさい。ローカルの貧相な集団がぼくをいらつかせる。いかにもまずしい。きっと仕事のスリルや恋愛のよろこびとも無縁だろうし、すくいがないのは対象のミュージシャンにいれこむことで逆にかれらは自分たちの生活がゆたかなのだと錯覚していることだった。あるタレントやミュージシャンのことばかり四六時中かんがえている連中がゆたかであるはずもなく、ひととして魅力があるはずもなく、まわりに自分という存在がどんなふうに映じるかという想像力もうまれつき欠乏しているのではないか? どうでもいいタレントのブログアメーバにコメントをつけているような連中のことも、いったいなんのために生きているのかとおもってしまう。ちなみに太宰治(もしくは村上春樹)オンリィな読者なんていうのもチープきわまるが、そういえば尾崎豊はぼくの文学的想念をあのころシンボリックにかすめる存在でもあったことが想起される...

むだな労苦のすえに合格した大学の講義はさえないものだった。かといってギターや油彩画や映画理論をまなぼうとしたこともないし、たわむれに詩作してもフランス象徴派のあの精緻な語法の構築が日本語という平板で単純な未開の道具でものにできないことは、ロックを日本語でうたうあやまちとおなじ必然の帰結だった。だいいちバイロンやキーツなどの詩人と、ロックシーンやアクション映画が出現したあとも貧相な詩句をつらねる現代のアナクロな連中とが、おなじ人種だといえるのか!? ふりかえると20世紀のなかで詩人にちかいイメージをおびているのは、やはりピート・ハミルやキング・クリムゾンのピート・シンフィールドといった70年代プログレの旗手だった。


『マゴット・ブレイン』 という拙作からの引用で、ここにはまさに入学当初のぼくの倦怠がぬりこめられている。いまとちがって19世紀の詩作は金になった。スポットライトをあびていた。これは看過しがたいところだとおもうし、 「アウシュヴィツ以降に詩を書くことは野蛮である」 というアドルノの警句になぞらえるなら、ロックシーンやアクション映画の出現以降に詩を書くのはあまりに無益だといえまいか? ことばはそれらから驚異やスリルもうばいさられて、ひからびて黄ばんでしまった。わが師ともいうべき松本隆が詩人ではなく、わかいころ日本語ロックのパイオニアとして世にあらわれて、のちに作詞家になったのもゆえなきことではあるまい... きわめて不幸なことに日本語を母語として生をうけた明治大正のわかい浪漫派詩人たちが、ふたたび20世紀末のこの島国にうまれかわっていたなら、ペンではなく尾崎豊や染谷俊のようにマイクをにぎったのではないか? すぐれた若者はびた一文にもならないことはしない。みずからの表現や魅力でマネーをつかもうとするエロティックな本能をうまれつき身にそなえている。

わが国でいま詩人たらんとするなら、どのみち尾崎豊になってしまうんだろうというのが大学1年生のぼくの感慨だったが、 「長電話」 もさすがに忍耐の限界にさしかかっていたから、おなじ学科で尾崎豊(と村上春樹) ファンだったWの電話番号を彼女におしえて、こんな夜ごとの苦境からおさらばしようとした。あくる日にあんのじょう寝不足で眼を血ばしらせたWが学食にあらわれて、こちらの顔をみるなりテメーおれの電話番号をキ○ガイ女におしえやがってと忿怒をぶちまけた。ぼくは餡パンをかじりながら眉をつりあげた。 「いいのか、そんなことをいって? あの女はオザキの(練馬区内の)中学校の先輩で恋人だったんだぜ」
「オ、オザキってまさか」
「まさかのユタカくん」
「うそだろ」 かげでモアイ像モアイとよばれていたWの濃すぎる顔は、みるまに驚歎と歓喜の色にそまる。そして夜あそびにもつきあわずに、そそくさと1本の勧誘電話のために帰宅してしまった。これは計算外だった。ぼくにとってWも終電後の六本木から自宅にはこんでくれるアッシーのひとりだった。あくる日のキャンパスにあらわれたモアイ像は嬉色満面だった。きっと電話ごしに彼女から尾崎の “肉声” をきかせてもらったのだろうが、 「キ○ガイ女」 というWの当初のひとことは正鵠を射たものだった。このころもまだ尾崎は中学時代の恋人にときおり電話していた。なきわめきながら、わけがわからないことをはりさけんでいた。ちなみに尾崎は薬物がらみの刑期をすませたばかりで、このころマスコミもシャットアウトしながら、なりをひそめていた。

かつての恋人はそんな雌伏中のきずついたカリスマをなぐさめながら、いっぽうでは電話機の留守録用テープに夜ごとの号泣のせりふをおさめると、ぼくら部外者にもそれをきかせる... おぞましい女だよとおもいつつも、ぼくはそんな相手の病理にすいよせられた。ただし彼女がこっそりと録音したものがほんとうに尾崎の “肉声” だったかどうかの確証はない。たんなるヤク中の男友だちのそれにすぎなかったのかもしれないが、それにしてはネットもなかったあのころ彼女はデビューいらい尾崎が所属事務所(アミューズだったか?)から課せられつづけた苛酷な要求のなまなましい秘話だとか、かつてのヒットナンバーによる復活ライヴの企画中にとんねるずの石橋貴明がいまさら15の夜でもないだろうといったので、ちかごろ尾崎は新曲をつくりはじめただとかの相手はやけに内情につうじていた。ことの真偽をぼくは問うつもりもないし、 「長電話」 から解放されてよかったという安堵のほうがはるかに重要だったが、わずか2回の電話で彼女はあろうことかWをみかぎって、ぼくをふたたび夜ごとの犠牲者にえらんだのは、いかなる理由によるものか!? 「おごるから、あそぼうよ」 ぼくはそのつど鄭重なおことわりをしたが、 「こっちにこない? こんやはモデルの女の子が何人かくるんだ」 という誘惑にやすやすとつりあげられて練馬区内のどこかの駅からさらにバスにとびのったのも、バブル末期のうかれた大学1年生のむりからぬ反応だった。


$海豚座紀行-谷原



いまではなじみぶかいこのあたりだったか? わからない。ともかくも尾崎豊ふうにいうなら、ぼくの10代の地図だけにしるされた非゠現実的な空間なのかもしれない。バスからおりて指定された方角にあるくと、あたりいちめんは草むらで月光があまねくそこを白銀色にそめていた。ぼくは夜風をほおにうけて、ふみしめる草もどことなく雪の感触をにじませながら、そぞろあるくごとに銀世界の夢幻はなお鞏固なものとして現実の土地にふみかためられていったのではないか? 「モデルの女の子が何人かくる」 というせりふはもはや絵そらごとでしかなく、だまされたといった後悔や計算もあやかしのこの月野原にはいりこむ余地はなく、ぼくをまちうける相手のたくらみや病理をおそれる必要もない... ほおをうつ風は魔性の歌をうたっていたし、 「月」 はもとより病んでゐる。ここは現実の土地ではなく、ひとりの女性のつめたい鼓動がさしだす銀世界だから、ぼくはいま狂気の胎動のまっただなかで歩をすすめているのだから、あやかしの世界のそれが本質なのだから、なにも病理をおそれる必要はなく、ただただ鏡花や亂歩がつむぎだすような妖美にくるめき酔いしれればよい... みわたす草むらが風にそよぎながら琳瓏ときらめいて、どぎつい凝脂粉黛めいた花のにおいをもたらしたときに、けざやかに月魄(つきしろ)のしずくをたらしたごとく前方におおきなゴールデンレトリヴァーをつれた純白のかぼそい女性がほのうかんだ。ぼくがちかづくと相手はわらった。あまりのその外見のうつくしさと、ふたたび風がはこぶ名もしらぬ草花の薫香とにはからずも眩惑させられた。

「そっちは?」 あらかじめそれが初対面の儀式だときまっていたように、ぼくは彼女にまずレトリヴァーの名まえをたずねた。はにかみながらシェリーとこたえる相手をみて、それが愛犬の名まえにえらばれるよりもまえに、かつての恋人から彼女自身にささげられたものらしい有名曲のタイトルだということがわかった。ぼくはシェリーのあたまをなでながら、ここにあらわれるやつが変態男だったら、たのもしいボディガードになったんでしょうねと皮肉をかました。すると彼女もわらいながら、どきっとするような上目づかいで妖精のひとことをもらした。 「でも電話でしゃべって、きみやWくんがどんな外見のどんなひとかもよくわかってたよ」
「ビートたけしやイースター島もみえたんですか?」
「みえたよ」 いたずらっぽい彼女の笑顔にだけ月光はまとわりつこうとする。シェリーを自宅にもどして、ぼくたちは商店街のカラオケスナックにたどりついた。こんなところにモデルの友だちがいないことは決定的だが、もうどうでもよかった。ぼくのまえを金魚の尾ひれのような優雅さと可憐さとでゆらめく彼女のシルエットしか眼にはいらなかった。あんのじょう店内は男でうめつくされていた。ぼくたちが奥のソファにすすむあいだ何人かが彼女にあいさつした。あのころはまだバーボンやラムの味もわからず、いまとおなじでウィスキィの水割はだいきらいだったから、ビールをたのんだとおもう。よくおぼえていない。ともかくもソファにおちついてしばらくすると、やぼったい甚兵衛をはおって黒縁めがねをかけた7年くらい大学受験で浪人しているふうにもみえるデブがマイクをにぎった。こんなやつの歌は聴きたくないとおもったやさきに、スピーカーからイルカの 「なごり雪」 のイントロがながれたものだから、かんべんしてくれダサダサじゃんよ~とおもって顔をそむけたが、そのとき超音波がぼくをとらえた。ぴんとはりつめたギター弦のようなものに両耳をつらぬかれたといってもよい──ふるくさいフォークソングから、たぎる激情──だれかがステージにハンディカメラをむけていたが、 「街のドラッグにいかれて 俺の体はぶくぶく太りはじめた」 という歌詞さながらの7回浪人生デブはなんと休業中のオザキそのひとだった!! 「オ、オザキって」 あくる日の学食でそれをきかされたWは声をふるわせた。 「まさか」
「まさかのユタカくん」
「うそだろ」 かげでモアイ像モアイとよばれていたWの濃すぎる顔は、みるまに驚歎と羨望の色にそまる。あげくのはてにぼくの胸ぐらをつかむと、なんでよばなかったと怒号した。オザキじゃなくてモデルがくるっていうはなしだったからと弁明すると、モデルだっておれをよべばいいじゃないかとモアイ像はますます激怒した。きっと声だけで相手のすがたを透視できる美女がこんな形相をまのあたりにしたら、たのもしい番犬にこの男の殺害さえ命じたかもしれない。とりかえしがつかない昨晩の時空をひきもどそうとするかのようにWは濃すぎる顔をぼくにちかづけながら、すがるような声でたずねた。 「それでイルカの 『なごり雪』 をうたったんだな?」
「うたったよ」
「ほかにもオザキはうたったか?」
「大阪で生まれた女」
「よかったんだな?」
「よかったよ」
「ぶっ殺すぞ、テメーにそんなもの聴く資格はねえんだよ!! 『邦楽はクソ』 『オザキなんて百姓みたいに貧乏くさい曲ばかりで聴いてらんねえ』 なんてぬかしやがるバカにそんな資格はねえんだよ!!」
「じっさいに邦楽でおれがもとめる緻密な構築性だとか官能美だとかを内包したものは皆無だからな。ジャップの曲なんて幼稚で貧乏くさくて聴いてられないけど、ゆうべのカラオケはよかった。さすがにしびれたよ... あとオールレーズンの曲な」
「オールレーズンっていうな!!」
「ゆうべの熱唱は中学の同窓生がヴィデオ撮影してたから、ダビングがすんだらまわしてくれるってオザキのあのモトカノがいってたぜ」
「ほんとか!?」
「おまえの出番だ」 ぼくの口吻はわらいをにじませながらも、さみしさの冷気にふるえた。ほどなくしてダビングしたからテープをとりにおいでと連絡がはいった。ぼくは彼女がつとめるイヴェント企画会社のまえでおちあう時間をきめて、そこに自分がゆくかわりにモアイ像をさしむけたが、ふたたびあの月野原に──ぼくは尾崎豊と彼女とがおりなす妖美と狂気の──あやかしの世界におぼれそうな自分をきらったのだろうか? 「ゲットしてきたぜ」 あくる日の学食でWは、ほこらしげにVHSテープをとりだした。 「すげえ美人だったな。いそがしかったみたいであっというまに会社にUターンしちゃったけど、あのまま喫茶店にはいったとしても緊張でしゃべれなかっただろうな... まえに電話でしゃべってたときは正直にいってそこそこのブスだろうっておもってたよ。オザキの中学時代の気のまよいっておもってたから、おどろきはなおさらだった。テメーみたいに厚顔無恥なやつは、あんな美人のまえでも身のほどしらずに漫才とかできるんだろうな」

「きみはユタカと逢っておかなきゃいけないの」 ふるくさいイルカのフォークソングから尾崎豊の激情がほとばしったときに、ぼくは彼女からそんな運命をみすかすような妖精のひとことをきかされた。たぶん横死するまで尾崎はずっと彼女と月面のうしろがわにひろがる闇黒のような領域でひとつにおりかさなっていたにちがいない。そしてステージにたつ彼はぼくらの内なる夜にむかって月光のあやしいきらめきをそそいでいた。イヴェント企画会社という白日゠理性のもとに身をおきながら、そこからのがれるように彼女も夜ごと尾崎がひそむ闇黒にかえっていったのではないか? にどと彼女からの連絡はなく、パーティだ合コンだの喧噪でこの一夜のあやかしも忘却のくらやみにおきざりにされたが、おなじ年にいよいよ尾崎豊が新曲をひっさげて復活すると予告された夜の歌番組はみのがすことがなかった。やはり7回浪人生みたいな風貌であらわれるのだろうかという杞憂はまたたくまに霧消した。ぼくはこの夜の尾崎豊がわすれられない。

『最高の塔の歌』 を書きながらハシシュをきめる少年詩人ランボオがタイムワープして、この日本人青年の皮膚にとじこめられると、フランス語からみたら未開にもひとしい日本語をもてあましながら、きちがいじみた野獣のおたけびにちかいシャウトをあげるばかりな仮象もイメージさせる絶唱: 「演じられた孤独」 の虚像と緊張とのせめぎあいが狂気の真実をはらんでいる。すくなくともこの夜の歌番組からほとばしるものが、ぼくにとっての尾崎豊の白鳥の歌だった。ちかごろ本記事のために何枚かのCDを聴きかえしたが、 『Forget-me-not』 『街路樹』 の2曲が印象ぶかく、ことに前者はこんなの東鳩オールレーズンそっくりじゃないか、うわーダセェ~とWのまえでよくディスっていたものの当時から気にいっていた。

「わすれな草」 およそ20年まえの時空からコアファンにむかってではなく、ぼくのように彼のマグダラのマリアから血と肉との秘蹟をさずかったものにむかって尾崎豊がおれをわすれないでくれといっている気がしてならないし、 『白い血』 『MOONCHILD』 などの作品にあの夜をふうじこめることで、ぼくも故人にたいして返歌をはたしたといえる... わずか一夜とはいえ永遠を幻視したようなこの銀世界を、どなたか映画化してくださらぬものか? いまでは尾崎豊もぼくを表現世界にみちびく “天使派” のひとりだったと確信しているが、かかるブログの駄文が故人および周辺におもわぬ被害をもたらすのも本意ではないから、いちおうは公言しておく☞この記事はフィクションですクマ


$海豚座紀行-鏡川



追記メモゆえあって滞在中の南海高知城下で電子書籍用の改訂をすすめているものの作業がはかどらず、わが菲才をのろいながら鏡川でとほうにくれる。そんなときはやけに7回浪人生のころの尾崎豊のすがたが川面にちらつくが、 「なごり雪/尾崎豊」 「大阪で生まれた女/尾崎豊」 などの検索をYouTubeYouTube(Tube)でかけてもあの一夜のカラオケ映像はでてこないところをみると、いまだにヴィデオテープは親近者のあいだで秘蔵されているものとおもわれる。こんにち銀座の大手宝飾店につとめるWの手もとにもまだそれはあるだろうか? ともあれ川のながれと袂別して、ぼくはぼくの道をゆく... またしてもエディ・ヘイゼルの記事を書くことができなかった。エディがなくなったのはX’マス・イヴの前夜で、そちらの20周忌もせまっている。