土佐日記 | 海豚座紀行

海豚座紀行

──幻視海☤星座──

“Tweet Memories” ことしのラストは松本隆/松田聖子の神曲にかけた記事タイトルにしたかったものの前回も尾崎豊の曲名からかりた英字表記だったし、いまいち内容ともマッチしなさそうだから今回はこれにする。ベタな旅行記にあらず。されど東京での硬直した日々のありかたに清新の風をふきこんだ海南のMemoriesをもとにして、いにしえの王朝絵巻がおりおりの和歌をさしはさんだように、ちかごろ小説ふうの記事がつづいたから、ネットの起点twitterTwitterのおりおりの140文字を記事にもりこむ基本スタイルで、まずは水面にきらめく魚鱗に眼をうばわれるような出発のときめきを文字どおりネットですくいあげた空港ものから飛行機

「瞬間」はキルケゴールのいわゆる時空の虚無点:ここで現在と永遠とがふれあう──ちかごろ琉球へ土佐へとあわただしい空旅で、ほほえみながら手をふる整備士のかたがたを横眼に──どこまでものびる滑走路に意識をむけると、ぼくの一瞬ごとの鼓動や存在の粒子にもやおら大空の永遠がとけこんでくる。


ひとつの固定された現実のかわりに、ミクロの世界は可能性゠不確定性原理の波紋におおわれている。マクロの日常でわれわれはA地点を左折するさいに、とうぜん右折したり直進したりという選択肢゠可能性をきりすてている。あたりまえだろバカといわれたらそれまでだが、たんなる物理的な道すじではなく、パン屋になるためにミュージシャンの道をあきらめたといったら、すこしは精神的な陰翳というか選択肢のあいだのブレもみえてこないか? おおむねドラマや小説のストーリーも音楽のコード進行も、そのつどの選択゠きりすての堆積でなりたっている。もちろん作品の奥ゆきをだすために、たまにはブレを委細にとりあつかうこともあるにせよ、ささいな局面でいちいち仮象にかかずらわっていたら収拾がつかなくなる。ヴィブラートでつないだだけの歌声をイメージしたまえ、ジョークじゃなきゃ横山剣さんだってそんなことはしない。およそ大局はつねに甲乙(殺すか殺されるかetc...の択一で、グレイゾーンはきりすてられてゆくから、できあがったメロディ゠ストーリーを単純で一面的だとおもう天邪鬼がでてきてもふしぎではない。シェーンベルク一派のごとくメロディを排して作曲する──ぼくがとりくむストーリーを排した小説もおなじで、かかる音響゠言語空間をもくろむのは、マクロの限定された現実からミクロの可能性のさざなみにむかってダイヴするようなものではないか? ちなみに量子力学の実験でA‐B‐C‐Dの4つの穴がある前方にむかって電子銃からÅ単位の粒子をとばしたとすると、つかまえたセミの翅が顫動して何重にもみえるように、はたして4つのどの穴も粒子がくぐりぬける軌道──ただしくは干渉縞とよばれる文字どおりの可能性が視像化される。ことしの春にやはり羽田空港の滑走路からフライトしたときに、ミクロのその可能性をはからずも観想して、つぎのtweetもポストされた。

たんに1つの結果゠現実よりもそのまわりにむらがる亡霊゠可能性現実をムージルは重視した。じっさいに量子力学の実験では不可視なはずの<可能性>が光の干渉縞を現出させる。長篇を数式として展開/未完のまま歿したムージルだが、「完成」もまた未来の文学では幼稚な概念とみなされるかもしれない。


やおら機体が滑走路から高度をあげてゆくと、ひとも車のながれも街からきえてなくなる。フェリーはスクリューの白線をひいた海上の1点にばける。ゆらめく波がしらもベッドシーツのしわのように固定される。いっさいの動体はきえて完全な予定調和のなかに世界の騒乱もきえる。われわれは自分たちの肉体の──いや思考や意識とよばれるものも構成する原子ひとつひとつの1点にとどまることがない波状のうごきを──もとより機体の高度から街をゆきかうひとびとも車のながれもみえないのとおなじで、ミクロの無窮動な世界をみきわめることはできない。ただし目的地の滑走路にふたたび着陸すると、ひとも車もまたぞろ量子のようにうごめきはじめるから、まっことマクロも不確定な世界ぜよ坂本龍馬とおもうかもしれない。


$海豚座紀行-沖縄



はやくも土佐弁が口をついてでましたよ... ちなみに上掲画像☝は琉球のビーチだが、 「リョーマの休日」 なる歓迎ポスターでうめつくされた高知龍馬空港もマリーナに面している。そして坂本龍馬などよりもぼくにとっては重要な存在といえる吉田類の英姿を表紙にした仁淀川の無料ガイドブックが空港ロビイにつみあげられている。その1冊をつかんで空港からでると、はやくもお大尽がメルセデスでむかえにきてくださっていた。ぼくにとっては沖縄とともに高知もはじめて足をふみいれる無縁の土地だから、なじむために地元名士の存在はかかせない... さて東西に室戸岬へ足摺岬へと一直線にのびる長大な海岸線の一端を車窓からながめていると、かつての言語理念にまよいこんでゆく。

ぼくはいつもローランにむりやり通訳させてラジオを聴いている。それというのも泣き声が聞こえるからです。かってな男たちの無力感と虚勢にもてあそばれた彼女たちのすすり泣く声がね... はじめのころは純粋に泣き声でした。ちかごろはべつの声に聞こえます。ふとした瞬間に悲鳴が歓喜にかわるというか、とにかく変調する。ぼくはじっと耳をかたむけた。すると人間の声ではないことがわかった。それに男が支配する陸地から発信されたものではないことも知った。海です。海からひびく解読不可能な声質、けれども美しさの極致のような歌でした。海豚の啼き声でしょうか? ほとんどの生物には2種類の性があります。ところが世界は人類、それも単性の権力によって支配されている。うしなわれた性の歌声が超音波のように海底から聞こえる。そういえば仏陀の説く極楽浄土には海がない。キリスト教の地獄や天国にも海はない。ぼくは神を見た。それはキリストでもアラーでもなかった。


『海豚座に捧ぐ百一発の砲声』 というたね○先生も愛読してくださっている拙作からの引用☞われながら感性のたしかさにうなる文章だが、 「無調」 すなわちメロディ゠ストーリーの排除という構造だけではなく、この長篇のなかで政治経済、歴史、芸術、宗教、 「神」 もいわば男性原理だけの不完全なものと断じたために、いずれ男性原理と女性原理とが融合して雌雄同体<☿>記号が世界のみえざる領域をあまてらすまでは、ほんとうの意味での “小説” もぼくはうみだしえないという不幸な宿命をおっている。ただし今回はつまびらかにするいとまもないから、それについては口をとざす... ここからが本題ということで、ふつうのブログならこれでおわるくらい冗長な序説もいまにはじまったものではないから寛恕ねがう。







さて上町の龍馬の生誕地と饅頭屋長次郎の生誕地とのあいだに起居して乙女ねえさんほか坂本家累代の墓所がある(お大尽一族の墓もそこにある)山をのぼりおりしながら鏡川でとほうにくれるような高知城下の生活をすごすあいだに、そういえば高校生のころドストエフスキイの 『悪霊』 をもとにいずれ維新回天をえがきたいと企図していたことをおもいだした。ぼくの幕末小説はひとすじの光も希望もなく、あまりの陰惨さにうんざりした読者がそのなかにようやく西郷だ龍馬だ高杉だと自分たちを救出してくれるヒーローのすがたをみつけて、かけよったとしても無慈悲なテロリストの相貌をさらすばかりで、ますます読者をその暴虐の世界におきざりにする...

わが国の記紀にはじまる神代および正史はすべて捏造にほかなるまいと高校生のぼくは直観していた。このブログでしばしば鈴木淳史の文章を引用しているが、 『魔笛』 にまつわるエッセイから今回もひかせていただく。ザラストロというキャラクターはどうも俗物教祖みたいでうさんくさいというのはクラオタがつとに感じてきたことで、もしも自分がこのオペラを演出するなら、ザラストロ役はじっさいに麻原彰晃みたいにすると鈴木はいう: 「この教団(オウム)はいろいろな情報によって徹頭徹尾ワルモノにされているわけだから、彼らを最終的に勝利者としてしまうのは観客にものすごい拒否反応を与えるに違いない。そこが狙い目」 という発想はぼくの幕末につうじるし、「お互いに(世間もオウム信者も)単純な(正邪および聖俗の)二分法でしかモノゴトを考えられなくなっていたわけだ」 という皮肉をかましたあとで以下の☟補足をくわえる。

でもさ、ちょっと考えてみましょうよ。今の日本の国家なんていうのも(どの国もそうなんでしょうが)、そもそもならず者の殺人集団が作ったわけであって、文字通り「勝てば官軍」なわけで、それに善とか悪とか意味を与えるのがおかしいのだ。ありえないことだが、オウム真理教が日本を乗っ取ってたら、わたしたちのほとんどは全員賊軍に与したものとして、住民票を発行してもらえなかったかもしれないのに。


もしもオウムや山口組や中核派のような組織が国家権力を簒奪していたら、かれらはその征服事業のみちなかばにたおれた殉難同志たちを英雄視しないか? かくして勝者によって歴史はきざまれる。どのみち薩長軍閥も山口組もかわりがない。わるいふうなニュアンスだけではなく、じっさいに3代目山口組の若頭だった地道行雄や山本健一、 「ボンノ」 こと菅谷政雄、柳川次郎など全国制覇にもえた大幹部の記録をひところ濫読しながら、ぼくは戦国や幕末なみの昂奮をおぼえたものだった。どんな組織からも傑出した人材はでてくるだろうし、こと権力闘争にからんだばあい戦国武将にせよ尊攘激派浪士にせよ広域暴力団にせよ、そんな人傑たちの智謀や天才がいわば善性にむかうはずがないのも明白ではあるまいか? 「あのころ勤皇の志士だなどと名のって、おちおち安眠できる場所もなかった」 ながらく潜伏生活と破壊工作とをつづけた土佐脱藩浪士あがりの伯爵田中光顕の述懐などからも、ぼくは反射的にやはり交番の指名手配にみる中核派の残党をおもいかえしてしまう...

ちなみにこれは高知ではなく有楽町高架下のバーデンバーデンで、サラリーマンが明治維新は世界でもまれな無血革命だなどとしゃべるのを耳にしたときに、なにが革命なものかと会話にわりこみたくなった。オウムをわらえないよ、あんたらも洗脳されてるんじゃないか? 「革命」 のその典拠もマンガじゃないとしたら、せいぜい司馬遼太郎やライトな新書のたぐいじゃないか? 『竜馬がゆく』 が日本人の正史にかわってしまったと松浦玲もなげいてたな。キラキラとした眼で青空をあおぐ龍馬のTVドラマじみたイメージにうたがいもなくのめりこむ若者たちに、きみたちも金総書記のあの理想化されて逆にマンガっぽい肖像画をありがたがる北朝鮮国家とおなじだぜとおしえてやりたい。

『悪霊』 のピョートル・ステパノヴィチのごときものとして坂本龍馬をとらえた大岡昇平はさすがに烱眼で、あまり他藩のあいだをうろつくなというみせしめのために河原町の醤油屋で犬ころのように殺されてしまったとつづる筆致の明晳さ鋭利さがこれも高校生のころ一読しただけなのに鮮烈なものとして脳裡にやきついていたから、さっそく東京にもどると大岡の 『天誅組』 をひもといた。おもしろい。なにがおもしろいって世間がおもしろがるドラマめいた展開やマンガの短絡的な飛躍のいっさいが排斥されている。ただただ微細な事実を冷徹につみあげて、つみあげられるあいだに時勢はとりかえしがつかない破局になだれこんでゆく。どうでもよい色恋や武勇伝の尾ひれをつけることではなく、ひとえに歴史小説とは史料文献にある厖大な事実をおのれの眼でいかに取捨して配置してゆくかというコラージュの芸術性にかかっている。それができたら絵そらごとのロマンスも剣戟もストーリーもいらない。ただしドストエフスキイや大岡昇平があまりに高踏的で迂遠にすぎるというなら、ノワールの “魔犬” ジェイムズ・エルロイのやりかたで幕末をえがいたらよい。

アメリカが清らかだったことはかつて1度もない。われわれは移民船のなかで純潔を失い、それを悔やんだことは1度もなかった。


『アメリカン・タブロイド』 のエピグラフで、ケネディもキング牧師も本作ではフーヴァー長官やマフィアのサム・ジアンカーナなどと同類のろくでもないやつらとして活写されているが、 「体制が腐敗しているのではなく、腐敗こそが体制なのだ」 というエルロイのライトモティーフが躍動している。からくもこの姿勢に接近した幕末作品といったら早乙女貢の 『若き獅子たち』 をおいてほかにあるまい。エルロイに私淑する馳星周が幕末を書いたらよかろうともおもう。たとえば幕臣小栗上野介のさしがねで討幕派に潜入した怜悧で卑劣なスパイ(馳作品主人公のプロトタイプ)がやおら西郷、桂、武市、高杉、龍馬など悪辣でうすぎたない首魁浪士のあいだで翻弄されながら、いっぽうでは佐幕の新選組や見廻組からも使嗾されて、おいつめられながら自滅するノワール... のたうつ主人公の断末魔とともに読者の視界も “夜あけ” ならぬ維新のくらやみにしずんで、つかのまにせよ史観は180度転換される。ことばが世界の病んだ本質をむきだしにして、ものごとの価値を顚倒させる。


$海豚座紀行-桂浜_01



「美しい国」 などというスローガンそのものが虚妄にほかならない。アドルノが全体は虚偽だとさけんだとおり政治とはおよそ古今東西において民衆をたぶらかす詐術にすぎず、いまさら政治にうらぎられただとかクリーンな行政をだとか泣きごとやきれいごとをならべるほうがどうかしている... ただし永田町界隈でぼくは愚直にもそんな毒言をまくしたてるようなことはしない。ひとづきあいもまた虚妄だとしても、ひととひととをむすびつけているものが偽善や欺瞞や幻想にすぎないにしても、けっして1点にとどまることがないミクロの可能性がこの対人間のいたるところでも白銀の波がしらをたてている。ネット上のつながりなどというもののほうが、よほど苦痛も闘争もない虚妄だとおもう。もちろん高知城下で海援隊や陸援隊の隊長をけなすようなこともしない。それどころか皿鉢料理をごちそうになりながら、ほろ酔いで即興のこんな都都逸☟をうたって、まわりの歓心をあつめたくらいだった。

〽土佐の龍馬はァァ男意気ィィ~
 ひとを撃たずに国を討つゥゥ~


「おまんツラがまえも気風もよか男じゃきに、あした酒屋でなんでもほしいもん買うちゃるぜよ」 はたしてお大尽がそんなふうにいったかどうか記憶にさだかではない。ただ泥酔した意識にゆうべのおことばがしみいりましたと主張して、はりまや橋のおみやげ屋にお大尽をひきずっていったが、 「なんでも」 をぼくはさらになんぼでもと曲解して、レジに司牡丹やら土佐鶴やら10本の大吟醸をならべたときには、さすがのお大尽もつかのま眼をまるくさせたものの4、5枚の諭吉をぬきだして、こっちにおるあいだ10本ともからにせいといって豪快にわらった大度量といさぎよさとに財力以上のさながら黒潮がたたきつけるような心的パワーの巨大さをみて、ぼくは脱帽した。じっさいに東京にもちかえることができたのは、たった1本の土佐鶴だけだった。

ところで坂口安吾はいみじくも小説とは人間関係をえがいたものなりと定義した。あまりAmebaアメーバでいろいろな書き手の創作をチェックすることもなくなったが、おおむね自分1個の存在やつぶやきに閉塞して “他者” がひどく稀薄な作品ばかりなのが気になる。じゅうぶんに人間関係でもみくしゃにされていないから、おのれ1個が確立されていないのか? まだ人間関係ができていない世界でこどもがことばをならべているような幼稚さというべきか? いくら文章の修辞や学術知識でごてごてと糊塗したところで、うわべのストーリーに数人のキャラクターを配置してみたところで、たいていの読者は無意識にこの手の幼稚さをみすかしてしまう。はたしてその幼稚さはなにかといったら、さきにのべた人間関係のいたるところで白波をたてている──けっして1点にとどまることがないミクロの可能性のまったき欠如をさすのではないか? ほんらい小説とは動的なはずなのに、おのれ1個の内部゠部屋にひきこもった作品はもう死んでいるにひとしく、けっして他人もうごかすことがない──はなから停滞/孤絶した地点でドラマティックやセンシティヴや深遠をよそおったり、いくら文章をこねまわしたりしたところで、うまく読者をだましとおせるものではない... さあネットからたちさろう。ぼくも都会にうごめく人間どものギラついて、あぶらぎった海原にもどってゆこう。


$海豚座紀行-桂浜_02



「日本史」 というものの総体をさしあたって法隆寺のような古刹にたとえるなら、つかわれている木材や建築様式など眼にみえるもの諸全をうたがってかからなければならない。はじめてそれにふれることになる小学校の教科書にたとえば伽藍は樹齢2千年の高野槇の霊木がつかわれているなどとあったら、じっさいの寺院にそんなことはできないが、「日本史」 という観念の堂宇になら遠慮なく槍をつきたてたり、ハンマーをたたきつけたりすることもできるから、おもいきり疑念をそこにぶつけたらよい。さすれば木目のシールがはがれて堂宇はアルミ製だったなどということもあるかもしれないし、 「なかに安置された止利派の本尊はインドふうのうすい天衣や肢体のしなやかさがきわだつ百済わたりの南朝様式です」 などとおしえられても、ヤスリで衣紋をけずってみたら西域わたりの神体やペルシア人仏師の名まえなどが顔をのぞかせないともかぎらない。

そもそもオリジナルな西域ふうの聖堂が建立後のわずか1年あまりで政変のさなかに焼失して、おなじ境内にまえの君主とは出自も国籍もことなる大王(おおきみ)によって建築様式もことなる現行の朝鮮式寺院が再建された可能性もある。まずは虫めがねで1語1句をひろうように記紀にあたることをおすすめするが、かりに古代史の書物200冊をひもといたら、そこには百家争鳴どころか書き手のそれぞれの解釈で150とおり以上もの “史実” がとなえられていることに、かつてはその不確定性にぼくもおどろきあきれたものだった。のっけからそんな調子だから、あまたの史料文献がそろっているはずの戦国や幕末もまだ “史実” はみえていないかもしれず、うたがいの眼目だけが捏造改竄のぶあつい城壁をつきやぶる。

さいごに可能性ということでつけたすなら、ことに信長や龍馬のばあい “if” の願望や期待がおおきいために、あまりにも後世の解釈がマンガ的な可能性をこの両名にべたべたとぬりこめてしまったのではないか? 「革新」 「国際的」 「自由」 「民主的」 といった無数のタグをみんながこの両名にはりつけて原型もみえなくなってしまったのでは? いまだにそれをやりつづけるのはこの両名に寄生する出版社や書き手、ゲームメーカー、旅行会社、マンガ゠劇画ふうに理想化された歴史上のヒーローにすがろうとする脆弱なファンたちだが、 「歴女」 とよばれる世間しらずな集団がもしもタイムマシンで晩年の龍馬をたずねてキャーキャーさわいだとしても、おそらく西郷や桂や勝やグラヴァーの走狗として暗躍した死の商人的なこの男は、すさんだ眼で彼女たちをみすえながら、やおら黴毒でくされきった陰部をひきだしてみせるかもしれない... ともあれ昨年末の記事がくしくも歴史批判で、ことしもやはり薩長史観やネット文化に毒づく憂國記事でしめくくるというのも、もとの木阿弥の自公政権にもどった日本のすくわれなさを暗示してあまりある。


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