総括 | 海豚座紀行

海豚座紀行

──幻視海☤星座──

ブログをはじめて1年に垂(なんな)んとするにつけ、おりから桜樹も満開のゆうべに2年ぶりでとしまえんが園内を無料開放するというので足をのばすと、いきおいこの1年で書きのこした記事よりも削除した記事のほうが数はうわまわったかもしれないことに思念はおよんで、としまえんを逍遥しながら、しかつめらしく<総括>なるタイトルで記事の草稿をひねっているしだいだが、この夕の空もようもぼくの嗜好というか思考にかなった暗灰色のおもくるしい曇天で、あわたゞしく秒針や長針の歩をすゝめる時計時計とはさかしまに園内をわたる足どりは記憶のもやいだ奥処(おくが)にすいよせられてゆく...

ディズニーランドディズニーランドの出現いらい都内近県の遊園地には “現在” からおきざりにされて、セピア色にくすんだようなわびしさがつきまとう... としまえんの上空からもこの日サーカスのうらぶれたビッグトップがきこえてきそうだったし、とりわけクレープ屋からたゞようにおいなどは文字どおりバブル以前 '80年代という辺疆のふんいきを濃密によびさますかにみえた。そういえばクレープ屋ではないが、ぼくは高2の夏に7つのプールでアルバイトして、ここのソフトクリーム屋の女の子とつきあっていた。


$海豚座紀行-としまえん_01



【過去】 おもくるしく荒涼たる暗灰の上空をふりあおぐと、あわたゞしく変転きわまりない “現在” のかわりに、かわりようがない “過去” から存在をだきすくめられたような安堵と、こゝちよいせつなさにつゝまれる:ティンパニの一撃がきこえないまま上空に残響の層雲をおしひろげて、われわれの “過去” のおもいでをしまいこんだ脳髄のひだをかたちづくるような曇天... ぼく個人のおもいでに極限するなら、やはり松田聖子の歌声がきこえてきそうな曇天というべきだが、ぼくのAmebaアメーバ上のうぶ声゠たましいの来歴もそこにみられる昨年6月の記事(削除済)のさえずりが、おもくるしくもなつかしく存在にのしかゝる曇天゠記憶からこだました。

ぼくにとって松田聖子は永遠に霽(は)れないくもり空...


あとから削除したのは、おゝむね聖子ちゃん関連の記事:ぼくはデビュー数年のあいだの彼女を愛するあまり “現在” にたいして本ブログでも苛烈なむちをふるったが、かゝる惨忍さを悔い愧じて<聖子抄>というテーマ記事をあらかた削除したわけでもない。かんたんにいうと、いい歳をして聖子ちゃんもなかろうという後味のわるさを記事投稿のたびにあじわうからで、しょせんは往年のアイドルにすぎない。いくら文学の素材として彼女をとらえて、ことばの贅をつくしても外界にそのニュアンスはつたわらない。ひとから自分がどうみられているかを忖度することは、あるいは小説においても主観的な感性以上にもとめられるかもしれない。ロマンよりも批判精神がたいせつということで、はたからみて聖子ちゃん聖子ちゃんとさけぶノスタルジアおやじはやばいだろうという客観性はすてるべきではない。

ちかごろ女子大生からおしえてもらったことだが、いまをときめくAKBの握手会場はあぶらぎった洗髪していない男どもの臭気におゝわれているらしく、なかんずく握手のあとの男子トイレは長蛇の行列が... みると小用はがらあきで、みんな<大>の個室があくのをねらっている!! 「ファン」 というやつが自己処理のおしだまった性欲だけを知覚する冷血動物や爬虫類として脳裡にうかびあがる... はからずも女子大生はぼくの内心のつぶやきを、このとき1字1句あやまたず口にしてみせた。「ほんとオマエらみたいのAKBがすきになるかっつーのって感じですよね」

いくつになっても男女ともども外見にこだわる色気をわすれるべきではない。みずからの身なりもかえりみずに他者を──いやアイドルという自己の妄想を愛するのは貧乏くさすぎるし、かりに聖子ちゃんと対面したなら恋される男でありたい──というのは逆にもっともやばい妄想か!? さらに彼女の歌声をとおして文学を表現するというのは、それこそ小説などの創作なら可能だとしても、ブログという日常性のつよいものでは書き手の病理だけがうかびあがる。やれ神曲だ傑作だという讃美のことばは、アイドルを愛する圏内での主観的な真実で、むろんその外部にいるひとびとの耳にはこっけいにしかひびかない。それらの主観を閉塞した圏内(グルっぽ?)で共有したり、なつかしんだりもしたくない。ぼくらの世界にはシュレーカーの音響、ココシュカの色彩、ホフマンスタールの美文などがみちあふれて、ざんねんながら松田聖子という光はすくなくともブログの表現では美のたかみにとゞかない... ところで先日Twittertwitterでだれの手になるものともしらぬ以下の1文がぼくのところにもRTでまわってきた。

物語は、それを書かないと死んでしまう者が書けばいいと思う。結局、力を持つ物語はそういう形でしか生まれないし、読み継がれないのだと思う。


「なるほど」 いちおう合点はいったものゝ思考の根柢からわきあがる反撥感はなにか? ぼくは物語゠小説を書かないと死ぬとおもったことは1度もない。とくにこの10年くらい書くということは、やけに気がおもく、もちあがらない重量のベーベルをつかんだときの無力感をおぼえるし、あたまをなやませて1日じゅう輾転反側したすえに、うみだされた文章はわずか2~3行という便秘状態もざらで、ひょっとするとバーベルよりもロッククライミングにちかいのか? きりたった断崖のわずかばかりな隆起をつかんで、たどりつくはずもない頂上をめざす。すこしでも気をゆるめたら、まっさかさまに顚落死... なるほど書かないことよりも書くことのほうに “死” の危険がひそんでいそうにみえたわけで、それゆゑ上掲のtweetに反撥をおぼえたのだろうし、おもえば聖子ちゃんのこともAmebaではなく、もっと苛酷な創作上の生死を賭した登攀のなかに書くべきだったと気がついたわけだが、だったらブログとはなにか?

はじめブログを書くことはたのしかった。ひまつぶしや気ばらしに最適といえるが、かゝる重圧のない気やすめの代償もおおきく、ある一定期間をへて再読した自分のブログのなんと生命力がなく、なんと気のぬけたサイダーのような文章のていたらくか... けだし小説の文章はナイフのごとく日常生活も感情もたちきって、まっくらな異界をすゝむものだが、とかくネット上は現実とのなれあいの文章しかみあたらず、ふみならされた感情=道程をたどるばかりだから、なんらそこに発見もない──ひまや生活のあじけなさをうずめるべく日々ブログを更新したり、さゝいなことを1日に何十回もつぶやいたりするのは、ことばをティッシュがわりに──いや鼻をかんだティッシュをごみ箱になげこんでゆくようなものだとおもいつゝも、けっきょくはぼくのブログも再読すると質的にそれらと大差がない。ひまつぶしの産物にすぎず、ことばは洟水にまみれていた。そんなものを人生の記念にとっておくべきでもなく、むしろブログを花ざかりの “森” にしたいなら、ぜんたいを腐蝕させないために不要な記事はどんどん伐採したほうがよい。ブロックだろうと削除だろうと、サイトの機能はフル活用したほうがよい。


$海豚座紀行-としまえん_02



【未来】 こしかた/ゆくすえのあいだにはさまれた1枚のうすいガラス板が “現在” ではないか? としまえんの宴席はまだ無人で、この夕のうすら寒さをかんがみるに夜のとばりがおりてからも、さほど客はあつまるまい──いや無人の “現在” はそんな数時間後のことではなく、もっと “未来” を──うらさびれた遊園地のまさに永遠の消滅をきざして現像の尖端をふるわせている。そして文学の “現在” もまた無人のこの荒涼とした情景とおりかさなって、はたして “未来” はあるのかという反問がいまも季節はずれな寒風のように身を斬る。としまえんではないが、せんだってtwitterでも終焉の空漠をことばにしてみた。

ディズニーシーの火山をあおぐと、ヴェスヴィオスの噴灰にしずんだポンペイのように、ここにもいつか終焉の日はくるという観念が、ぼくの意識の水面に指をあてながら異界の諧調゠波紋にさらう... まばゆい光彩と火焰とがおりなす一夜のパレードの熱狂もまた標本にされた蝶の燦爛たる翅の沈黙にしずむ。


とはいえ園内のうらさびれたありさまとかわらない文学から “未来” の可能性をみいだしたい願望もきえず、そゞろあるく思案の霧中にうかびあがったメリーゴーラウンドのきらめきにも、パサカリアを幻視する。ふるくはビバーやコレルリのヴァイオリン曲から、おなじ楽器によるバッハのシャコンヌをへて、さいごはブラームス、ツェムリンスキイ、ウェーベルンなどがオーケストラからとゞろかせた音楽上のもっとも精緻な形式... くりかえされる低音固執主題のうえで音楽がたえず舞踏しながら変奏されてゆくパサカリアを、ぼくも自分の小説のなかに夢みながら、それをtweetした。ちなみに以降のイタリックもすべてtwitterからの引用:

小説という無形式表現にとりくんでいると、ソナタをはじめとする音楽の精緻な形式や技法にあこがれをいだくが、ことにぼくが愛するのはパサカリア:「機能」がとまりかけた小説の気息奄々たる心臓をその無窮の回転体にはめこんで、まぼろしの技法のなかで強圧的に律動させたいという熱病的欲求がある。


ちかごろ作曲技法とともに夏流氏からおしえられた量子力学にもとりつかれている。この世のなぞ、不合理、怪綺、精神世界のいっさいを否定しながら発展してきた二元論の科学が、いよいよ量子力学にいたっては宗教とも哲学とも手をとりあって連環した普遍的゠一元的な世界像をえがきだすような予感をいだかせる。また従来のごとく情念だけではもう文学の “未来” のドアをおしひらくことはできないと痛感していたやさきに、まいおりた預言鳥 - Vogel als Prophet - のような異質の数学領域だった。

「量子力学の世界は詩のことばでしか語ることができない」というボーアの箴言をきょう雪の国でくらす詩人からおしえられたときに、ぼくはピアノの白鍵でできた螺旋階段を天空にむかってグリサンドでかけあがりながら、それを書きとめた瞬間に自分の存在がばらばらに解体されそうな未来の小説を夢みた。


このtweetひとつをみても、ぼくが量子力学との邂逅でどれだけ胸をはずませたかがわかる。れっきとした学術書はとうぜん理解できないので、おもしろ本みたいなものに何冊かあたっている。わけもわからずに雑学的なふいちょうにおよんだり、つごうよく自分の世界観に牽強付会(こじつけ)したりしないようには気をつけているが、まよいこんだ未知の地平からさえずろうとする内心のはずんだ “声” をおさえることはできない。

ことばは星──むすびつけた星座が詩や小説だが、いまや夜空はそれらにうめつくされて、いっさいはむすびつけられている:「闇」なる非゠物質──いや非゠文学の表現領域に眼をこらそう。ぼくらを宇宙服もないまま投企して、ばらばらに解体する未来のことばを、ダークマターから量子論でさがしだそう。


たんに1つの結果゠現実よりもそのまわりにむらがる亡霊゠可能性現実をムージルは重視した。じっさいに量子力学の実験では不可視なはずの<可能性>が光の干渉縞を現出させる。長篇を数式として展開/未完のまま歿したムージルだが、 「完成」 もまた未来の文学では幼稚な概念とみなされるかもしれない。


「完成」 という定義がなりたゝないくらい文学はその内部にますます膨張をはらんで、ますます複雑に数式化゠変数化しながら、ことばのミクロ=コスモスから大宇宙にすがたをかえてゆくのではないか? ますます単純化して、マネー経済のもとにますます娯楽化する商業ベースのベストセラーとはうらはらに... くらやみがにじんで、そろそろ園内にもイリュミネイションがともりはじめた。ふきわたる風はなお肌につめたく、さまよう意識はいまイリュミネイションの反射によって足もとにきらめく数式や変数をふみしめながら、ほかでもない “未来” にむらがる無数の可能性現実のなかをわたってゆく浮游感とともに、つよい引力による思考の出口を──ひとつの確固とした現実がすがたをあらわすだろう出口を──おもくるしくも燦爛する曇天のたそがれにとけこみながら、かつて耳にしたことがない歌声を聴くように、こしかた/ゆくすえのはざまに感得していた。


$海豚座紀行-としまえん_03


光は振動数によって7色にかわるが、ふつう肉眼では白色光しかみることができない:そもそも地上のあらゆる物質に色はなく、ひとの脳にはいりこんだ光の振動数がやはり色彩をうみだしているにすぎない──冀願(こゐねが)はくば文學のことばも、ぼくらを7色の偏光で魅せるプリズムや虹霓であれかし。


【追記】 としまえんのプールでのアルバイトの体験を、ぼくはむかし短篇にしたてたが、 『野性時代』 の企画でそれは秋元康氏や柴門ふみ女史の作品とともに同誌に掲載されたあと角川書店から詞華集(アンソロジィ)として上梓された。いまとなってはこの小品そのものがプリズムめいた虹色にきらめく青春のおもいでになっている...