R. I .P. | 海豚座紀行

海豚座紀行

──幻視海☤星座──

なき伯父は公言をはゞかる職業といおうか職業ともよべないなりわいで半生を渡世した。もとの語意とはことなる “本職” というものの流儀で、ぼくらに自分のことをオジキとよばせていた。享年59歳:なくなったのは盛夏... すいこむ大気さえ火焰のように肺腑を灼く酷暑のみぎりで、たえざる蝉の鳴声もみえない四壁にばけて喪服のぼくらを圧迫してくるかとおもわれた。あわたゞしく親族がたちまわる部屋のかたすみで一生涯を大喝しつゞけた存在がふしぎな沈黙をまもりながら永眠の寝蓐についていたが、くだんの蝉の声をぼくはオジキという終熄した熱病的な “生” の現象がこの世になお持続させる残響として耳にしたかもしれない。

くちびるにはやはり死後もあの不穏な微笑をはりつかせているのではないかと予想したが、あんがい表情はしおらしく演戯をきめこんでいた。また炎暑とて遺体は腐爛するかもしれないと危惧したが、もとより現代にそんなこともなく万事が平凡にすすんで、なんだか鼻しらむおもいで、ぼくのほうが生前の故人のごとく場ちがいな微笑をくちびるにはりつけていると、みとがめて立腹した妹がこんな場で白い歯をみせるなといってきた。とはいえ万事が事務的なのは肩すかしだったし、オジキという存在の苛烈をかんがみて、そこはやはり “生” に末期の一喝をくれるべく腐爛していなければならない... むくろは腐(な)れて室内にきょうれつな悪臭をたちこめながら、ぼくらをその生前のはためいわくぶりでへきえきさせてほしかったという天邪鬼の願望がなかったといったらうそになる。

もえさかる夏に、オジキの肉体は荼毘の火炉でもえつきた。ありがちな任俠映画のワンシーンのごとく、のこった骨はもろすぎて、なかなか竹箸でつかめない:やばいものを体内にながしこみすぎたせいだろうが、それ以上に59年ものあいだ苛烈な精神をいれてきた瓦器たるオジキの骨肉は摩耗しつくして、ぼろぼろだったのかもしれない... どこにゆこうと蝉の声はとだえることがない。ぼくのまわりでその鳴声も葬列をなして、さしずめ古代の殯儀のおゝげさな哭泣をはりさけんでいるようにもおもわれた。だれがえらんだのか知らないが、はたして東京の郊外にこんな魔境があったのかとおそれるくらい山上にかまえたオジキの墓は、たどりつくまでに峻嶮をきわめた。ほとんど車は90度にそりかえりそうな急坂また急坂をのぼりつめた山の絶顚。のぼりつめたさきはなお炎熱の地獄で、ティベットか崑崙にきたかという鉱石めいた青空の永遠の重量がぼくらの有限な存在にのしかゝる──きりたつ巖岩の断崖から下界をのぞきこむと、やおら地霊の大喝が──いや大喝は “現在” ではなく、こしかたの記憶からとゞろくものにほかならず、ぼくは山上よりみずからの幼年期にめがけて落下した。


$海豚座紀行-兇変_01



おさないころはオジキの来訪を、まさに颱風の席捲として恐怖するばかりだった。もとよりその現像の輪郭さえ正視することはできず、ただ風のうなりと暴威とをおそれて、じっさいに幼少期のこゝろは颱風一過のはげしい散乱になげくこともしばしばだった。あれは幼稚園のときだった。オジキがぼくにクラスですきな女の子はいるだろうとたずねた。ぼくは2、3度ばかり首をふったが、 「だれにもいわないから、こっそりとおしえろ」 といって自分の片耳をゆびさすので、ぼくはそこに口をちかづけた。そんなことは申告したくもなかったにせよ、もういちど首をふって否認したら暗雲は閃光をはらんで、たゞちに雷喝がおちるだろうという恐怖もあったので、にこやかな押問答ですんでいるあいだに、ぼくはクラスですきな女の子の名まえをそっとオジキに耳うちした。 「エリカちゃん」

「おいおいエリカだってよ」 ぼくの口がまだ耳からはなれないうちにオジキは大声でぶちまけたから、わが家でそのとき酒宴をはっていた十数人からいっせいに哄笑があがったが、 「エリカちゃん」 の名をつげるぼくの内面は文字どおりガラスがはりつめた情態で、オジキの暴露がガラスにどんな惨状をもたらしたかは言を俟たない。ただし問題はふみにじられた内面うんぬんではなく、ここで雷撃的にさとらされたのは、ぼくという脆弱な存在には一瞬たりとも自分のナイーヴさをかばったり、たいせつなものをどこかにしまいこんだり、まもったりしながら生きる権利などありはしないということで、むしろ脆弱さはいさぎよく外界にさらけだしながら、ふみにじられるまま抛下゠消滅させるしかあるまいという悟達さえもが、くだけちったガラスのこゝろで号泣する幼児の意識の深層からこのとき顔をのぞかせていた。つまるところオジキはぼくにとって天変地異そのもので、たゞたゞおそろしさに顔をそむけながら、はからずもその暴威におそわれた瞬間には峻厳な “生” の実相をみすえて動じない果敢さや疆毅をぼくにさずける逆説的な訓育をほどこしていた。

わが家にくると、オジキは父親とふたりで酒をのみながら、きまって夜ふけには泥酔による激昂のどなりあいをはじめた。ベッドにもぐりこみながらも、ぼくは階下の居間からとゞろくそれを地獄のはらわたと直結したもののように恐怖した。いつベッドとカーペットとに穴があいて、そこに自分が顚落してゆかないともかぎらない... ところで長ずると赤鬼青鬼のセットにしかみえなかったものに、ぼくの眼はだんだんと差異をみとめはじめた。父親の激昂はせっぱつまったものだったが、おなじように激昂して怒号するオジキの顔はかならず微笑におちつく。ひっぱられても、きれることがないゴムのようで、ぶきみな余裕をのぞかせてみせる。それが特異な智性や経験を背景にもつものだとわかったのは、ぼくが中学にすゝんでからだった。

ぼくが文学になじむようになると、オジキもそれが予定されていたかのように文学をかたりはじめた。それまで父親から何度となく “神童” をうたわれるほど聰明だったというエピソードをきかされていたし、 「あたまがよすぎた」 ことが邪悪な人生にのりだした原因だと親族一同のあきらめにもなっていたくらいだが、 「塀のむこう」牢屋で万巻を読みつくしたという口上につゞいて、オジキがぼくのまえで講釈しはじめたゲーテやドストエフスキイの作品論の──はては歴史上の英雄たちの人物評の──なんと独創的だったことか!! したゝかに酔えば詩興はさらに滾々とわいて、やおら話題は虚実ないまぜになりながらも聴き手の判断や思考を麻酔にかけてゆく名人芸は、まこと奇矯な半生の稼業でつちかったものか天性の煽動家(デマゴーグ)か? 「詩を書かなかった」 ランボオ、 「絵をかかなかった」 カラヴァジォ、 「テロリスト」 たる史的イエス像などという逆説的な存在をぼくはこの火焰のことばをわめく怪人物にあてはめていたかもしれない:さてテロル以外に人間社会をまとめる手段はないというのが、たゞひとつのオジキの政治的表明だったことをしるしながら、ここで人物描写はおわりにする。ぼくが書きとめておきたいのは、オジキの来歴でも為人(ひとゝなり)でもなく、このひとの口からはきだされた精神の一塊゠あるエピソードにほかならない。


$海豚座紀行-サン=ジュスト



だるまストーヴをごぞんじだろうか? わかいひとはイメージもわかないのではないかと危惧するから、リンクをはっておくが、むかし家庭にも学校にもおかれていたストーヴ。こんにちのガスや電力をつかったエアコンとはちがって、じっさいに内部を発火させて部屋をあたゝめる... それがどうしたかというと、オジキが少年のころ家にこれがあって、おりから1匹の黒猫が家によりついていた。ただし極貧で自分たちがろくに口にするものもないから、わざわざ猫にくれてやるようなものも、だんだんと底をついてきた。オジキは自分が空腹だった。えさをよこせと猫は鳴く。だんだんとその鳴声が癇にさわって、オジキは黒猫をつかみあげると、だるまストーヴにほうりこんだ。このエピソードは文学上のながい談義のあいだにさしこまれた小休止のようなものだったが、ぼくは鮮烈におぼえている。オールド・グラン゠ダッドをすすりながら、オジキはいった。 「だるまストーヴから “ギャッ” という声があがって、それでおわりだった」

ぼくはこのエピソードを耳にした瞬間──こいつはフィクションだなとおもったが、もとより実話でもうそでもどちらでもよく、フィクションなら切味はいやますだろうということで、ぼくの精神はこのとき鉄鞭がふるわれる音を──だるまストーヴで猫が焼けたゞれて死ぬことに、ふしぎと陰惨さも邪悪なものも感じることがなく、むしろ清冽な大気をすいこんだようにさえ錯覚したが、こいつは禅問答のひとつではないか? ある朝に鴉(カラス)の鳴声を耳にするにおよんで、にわかに活眼゠さとりをひらくと、おなじ日に叛乱の火ぶたをきったという古代中国の邪教の開祖──いずれの教団だったか名まえは失念したが、どのみち黄巾の乱のたぐいではないか? わが国でも一休禅師がおなじ鴉鳴によって大悟したとされるが、うさんくさい煽動教祖のほうがオジキにそぐわしい──さとりをもたらす猫の一瞬のさけびを、ぼくは禅修行の警策のごとく肩にうけた。むちのしなる炸裂音を、それいらい幻聴でときおり耳にする。そして焼失した古刹の遺構から焦げのこった鬼塼瓦(おにがわら)をひろいあげるように、いまでもときおりオジキの大喝をおもいだす。