きょうの1枚② | 海豚座紀行

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──幻視海☤星座──

「きょうの1枚」 2回めは(というか1回めは昨年9月でした!!)フェルディナント・グロスマンによるモーツァルトの戴冠式ミサ曲。ぼくのようにこの名盤を宇野功芳氏の著書で知ったひともおおかろうし、HMVHMVのレヴューなどをみると、クラおた──いやクラシック愛好家のなかでは宇野氏という大御所の批評家をめぐって毀誉褒貶のはなはだしいこともわかるが、ぼくとしては同氏の文章゠精神のカリスマ性やディスクの選択眼にいぜんとして瞠目させられる──

「メータに失望」という記事を読んだ。メータがイスラエル・フィルとともに来日し、ブルックナーを指揮する、というので聴きに出かけたが、いかにも表面的で皮相な演奏であり、がっかりした、というのだ。
僕にいわせれば、たった一言で終わりである。「メータのブルックナーなど聴きに行く方がわるい」知らなかった、とは言ってほしくない。ブルックナーを愛する者は、そのくらいは知らなくてはだめだ。


『クラシックの名曲・名盤』 の上掲文はまさに宇野氏の精神の躍如たるものがある。また音楽誌や新書でほかの評論家たちがあげる “おすすめCD” のほとんどは新鮮なようでも数ヵ月で聴きあきたり、また批評家本人の精神を反映して特徴がなく、そつがない演奏にすぎなかったりするものもおおいが、ひとり宇野氏の “名盤” だけは彫りがふかくて峻烈。まさに一生ものとよぶにふさわしいものばかりだし、 『むかしの味』 のなかで池波正太郎があげた銀座の新富寿し、たいめいけんのポークソテー、煉瓦亭のカツレツ、竹むらの粟ぜんざいなどにもつうじる味の濃さを特徴とした演奏がおおい。

ブラームスの音楽は苦手だ。ネクラでいけない…(中略)…ブラームスの作品は私小説のようなものだと思う。一生独身で過ごした彼の、うすよごれた部屋に通され、人生の淋しさをしみじみと語りあう趣がある。わるくいえばグチを聞かされるのだ。


「すききらい」 で論じるなど批評家として自誡するべき条項とはいえ、みずからの好悪もなく客観的にというか学術的にかたる木石のような論文はもとより一般読者にとって魅力のかけらもなく、やはり性根が気にくわぬとおもったらブラームスだろうとカラヤンだろうと徹底的にむちをくれる宇野氏の批評文には快哉をあげたくもなる。そんな同氏の “名盤” の代表格が、クナッパーツブッシュ゠ミュンヒェン・フィルによるブルックナーの交響曲第8番:これなど聴いていると音楽は “時” の大河をながれてゆくものではなく、ながれるどころか煉瓦にばけた音が無数につみあげられて微動だにせぬさまが眼にみえて、じっさいに鉱物のように手でつかめそうな眩惑もおぼえる。


海豚座紀行-ウィーン寺院_01


のっけから脱線をかましたところで、くだんのグロスマン盤にもどる:ヤフオクなどにこのCDが出品されると、またゝくまに1~2万円の競値がつくが、ぼくはディスクユニオンでむかし900円で買った。それでも気がすゝまぬ買いものだったのは、ふだん国内盤を買う習慣がないからで、輸入盤なら千円なのに無用の解説がつくだけで2~3倍の高値をつける国内盤の性根が気にくわないという以上に、たんに日本語表記がはいるのはデザイン的にかっこわるいという理由だけで国内盤を買わない流派にぼくは属しているから... ところが過去にいちどもこのグロスマン盤は海外でCD化されたことがなく、しぶしぶ国内盤を買ったしだいだった。

ちかごろはモーツァルトの小ミサ曲かベルクの作品しか聴かない。かつては交響曲やオペラを2時間でも3時間でも聴いていたものだが、せまい部屋でそんな非゠日常感覚をあじわおうとする虫のよさにも醒めてしまった。いくら録音技術が進歩したところで、ベートーヴェンの交響曲第9番 “合唱” をホールの立体感でもって再現することは不可能だし、しょせんは音の罐詰。しょせんは再生機器のまえで自分がねころがっているにすぎないわけで、やれ感動だの至純のひびきだの... ばかばかしくていけない。さらに音響にひたるよりも部屋でねころぶ自分の卑小さとむかいあうような空虚、やりきれなさ、いたゝまれなさがつのって、そんなCDやDVDのまえでご満悦の自分がちっぽけなエゴイズムのかたまりのようにもみえてくる。なにかに依拠して、とらわれたもの゠おたくやファンといったものを、ぼくが心底きらっているからかもしれない。

おなじ卑小なエゴイズムを、ぼくは1時間おきに自宅のまわりを掃除する老人にもみてしまう。またディスクユニオンで1日に大量のクラシックCDを買いあさる老人のせっぱつまった顔にもそれがみえる: 「おいおい墓場までCDはもってけないぜ」 といって肩でもたゝきたくなる。よいものほど廃盤/絶版になりやすいし(いかに世間が悪趣味かの証左にもなろうが)、のがしたら中古をさがすしかないわけだが、それにしたって老人はもうじゅうぶんではないのか? ほどほどの数量をたんのうしたら、あとは記憶にやきつければよい... なにもかも所有して、それらに依拠しつゞけるのは文字どおり老醜をさらすことではないか? ぼくはオペラシティで聴いたヤルヴィだって武道館や日本TVのまえでみた松田聖子だって胸にきざみつけている。それらを再生するDVDなどほしくもない。それらは生命をぬきさって現象をフォルマリン漬けにしたものにすぎない。


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かゝる信条のぼくが本ブログだけではなく、ロック誌でCD評をしたこともある。さらに笑止千万なことにグロスマン盤はまず音よりも表記にひきつけられたしだいで、ぼくが国内盤をきらう元兇のはずの裏面ジャケットの日本語が、かえって蠱惑的なものとして映じた。やはり宇野氏によってウィーン・フィルが世界でもっとも耽美的なオーケストラだということを実感させられたが、それいらいウィーン Wien という活字をみるだけでワイン Wein の薫香をかぐような中毒におちこんで、なおかつ生来のマニアックな性癖によってトーンキュンストラー管などウィーンのほかのオーケストラも聴きにゆくようになると、おりから同氏が推奨する未聴のグロスマン盤をおもいだした。

「戴冠ミサ曲」は演奏によっておどろくほど魅惑的になったり、あるいはつまらなくなったりするのである。現在出ているCDのほとんどは、このつまらない方である…(中略)…クーベリックやヨッフムもカスカスだ…(中略)…現状ではやや録音が古いとはいえ、グロスマン/ウィーン少年合唱団ほか(フィリップス - PHCP3596)を採るべきであろう。これは僕がこの曲の真価を初めて知った思い出の演奏でもある。グロスマンの指揮は宗教的な柔らかいムードを排し、モーツァルトの根源の迫力と真実の魂を彫り、深くえぐったものだ。


なるほど宇野氏の文章でウィーン少年合唱団がうたっていることはわかるが、 「オケ」 はどこか? ぼくはユニオンでCDをうらがえして、ふとジャケット(上掲画像)の日本語をみたときに昂奮した。ウィーン寺院管弦楽団 Wiener Dom-orchester だって!? カトリックの帝都ウィーンに仏教的ニュアンスの “寺院” という漢字をむすびつけるセンスがぼくを惑乱して、いったいどんな音響をとゞろかせるのかという興味をかきたてたから、ふだん手をつけない国内盤を買うことになった。

それから幾星霜:わが最愛の1枚としてCDはムージルのとなりにおかれている──いや作曲家別に整理された輸入盤のなかに背表紙のその日本語をまぜこみたくないという神経質からCDラックではなく本棚に隔離されたといったほうがあたっている──いまだに現実のひびきをしのぐ “寺院” の幻影゠幻聴がぼくをおゝいつくして、これについては精確な批評がくだせないというのが本音→だったらCD評などするなよという罵詈をあびかねないが、むしろ反゠オーディオ派のぼくにとっては幻影゠幻聴をとりあつかうことこそふさわしい所作といえよう。


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『天地創造』 とカップリングされたハイドンのふたつのミサ曲(上掲画像)は、たぶん唯一の輸入盤CDにちがいない:そもそもウィーン寺院管弦楽団とはいかなるオーケストラか? しまつがわるいことにCDの解説もそれについては言及していない× “寺院” はシュテファン大聖堂のことか、それともウィーン少年合唱団が日曜日ごとにミサ曲をうたう王宮礼拝堂のことか? もしも王宮ならオーケストラはウィーン・フィルのメンバーだが、このころウィーン・フィルはDECCAと専属契約していた。かたやPHILIPSはウィーン交響楽団を録音に起用することがおおかったから、これもやはりウィーン響の変名か? だったらハイドンやモーツァルトのミサ曲のレコーディングにかぎって、どうして変名のクレジットにする必要があったのか? ひところ疑問はつきず、ネットでしらべまくったものだが、いっこうに事情はあきらかにされず、こんなどうでもいいことに粘着しているのは世界じゅうで自分だけだろうという徒労もおぼえた。

ところがネットでひさしぶりに検索したら、あるブログから積年のなぞはにわかに解明されたので、きょうの記事にとりあげたわけだが、なんでも正式名称はウィーン司教座管弦楽団というものらしく、ますます荘重さがくわゝる──かんじんの実体はというと、ウィーン・フィルとウィーン響の混成オケ──どうしてそんなことがわかったのか!? 「ソースきぼんぬ」 といったコメントをぼくがさっそくそのブログにつけると、あちらさまも親切にこたえてくださった。

ご質問の情報元は1979年に Doblinger という Wien で一番大きなレコード屋の店主からです。聖シュテファン大聖堂で奉仕する Die Wiener Dom-orchester はメンバーが固定しておらず、毎回ウィーン・フィルとウィーン響のメンバーがアルバイト的に参加する混成オケです。


これ以上はない明晳な回答チューリップ赤 “寺院” はシュテファン大聖堂だということもわかった。ただ問題はそれがわかったからといって狂嬉するのはぼくだけだし、こんな長(駄)文につきあわされた読者はたまらない。ちかごろ何人かのかたから読者登録していたゞきまして、ありがたいことです長音記号2ただし “真” の読者とはそんな(つきあい上の)ものではなく、あるキイワード検索によってネットの宇宙をさまようあいだに、ある精神圏の引力にひきつけられるようにしながら、あるブログ記事にたどりつく。ぼくがそうなったように、おもいもよらない発見とそこで邂逅する:たとえ1回きりの記事上のおつきあいでおわるにせよ、ひっきょうブログの読者とはそんなもので共依存のそれではあるまい...