聖地巡礼 | 海豚座紀行

海豚座紀行

──幻視海☤星座──

ワグネリアンがつどうバイロイトにくらべたら、こちら三田の聖地はつゝましきもの... きょうはファンカデリックの記事をしあげてアップするつもりでいたが、はじめておとずれるラーメン二郎三田本店できのう内的体験がきざしたうえに、ひょっとすると二郎はこの数十年にわたって、ぼくから “書かれる” 瞬間をまちつゞけていたのではないかという妄想さえ湧泉したしだい... ともあれ自分にしか書けない文章で二郎をえがかなければならぬという急務の使命感にかられたのはたしかで、みじかくはない自分の文章キャリアでなんとかその牙城にせまってみたいとはおもう。


海豚座紀行-三田二郎_01



「味にブレがある」 と友人をはじめネットでつながりがある数人もいっていた本店だが、もっとも伝説の総帥(゠山田拓美:ラーメン二郎の開祖)も古稀がちかづいて、いつ店をたゝんでもおかしくなかろうから、いまのうちに行っておけよともいわれていたし、ぼくも味はともかく尊体をおがむ聖地巡礼(の観光)気分でそゞろに足をのばした。ついたのは13時すぎで、たいして客はならんでいなかった。ゆきつけの神保町店ならこの時間でも40人くらいの行列ができている。

のれんわけでもインスパイア系でも店のまえでかならず鼻腔にせまる二郎独特のにおいが、ふしぎと本店ではしない。かわりになにかがきょうれつに焦げる臭気がはきだされていたから、はやくもブレうんぬんの不安にあおりたてられた。なかをのぞくと、みえたのは好々爺──あれが総帥かと生来ひとにたいする敬心にとぼしいぼくは路傍の石でもみるように一瞥したが、じいさんの両わきを若輩の助手がガードするようすはまさに古刹の阿弥陀三尊か水戸黄門ご一行かといった風情──いっぽうの脇侍は顔にみおぼえがある:すこしまえまで桜台店にいた中村獅童似の助手だった。


$海豚座紀行-高野台
Chommei-ji, Nerima-Takanodai


「斜にかまえた」 とアメーバここで雑文をつゞりはじめていらい数人の聖子ファンから指弾される不埒なぼくの性向は小ラーメンの食券を買って、じいさんの背なかをながめるカウンターの末席につらなった時点ですこし変化をおぼえる:これまで二郎はどこもカウンターのたかさによって客から厨房がみえないつくりになっていた。その設計で店主も客席とのあいだに城壁をきずくというか、うちとけないピリピリとした緊迫感がはりつめるし、 「うしろで何人もまってんだよ!!」 と助手がいちど箸のすゝみの遅滞した学生をどなりつけるシーンに神保町でおめにかかったこともある: 「ごちそうさま」 といって客がたちさるときも店主や助手の仏頂面はかわらない。

ところが狷介なこれら店主たちを訓育した総帥がいます本殿のいかに平安なことか... だれかれとなく談笑する、ふたりづれの客はみんな相席にしてやる、わすれもののマフラーを学生がとりにくると、みんなに足もとをチェックさせて、ないとわかると中村獅童似の脇仏をそとにさがしにゆかせるし、 「ごちそうさま」 といって退店する客もにこやかな声でおくりだす... ぼくのまえにラーメンがだされるまでにこれだけのことがあって、なお神秘に沐浴(ゆあみ)する時間ものこされていた。ここは厨房がみえる:あるじと客とのあいだに垣根はなく、じいさんはそんなものを解脱しているようにもみえる。ごてごてと山づみにされた肉、もやしやキャベツ、よごれた庖丁、ふるい鍋。それらをみながら、とてつもないものとの遭遇の予兆にぼくはふるえた。そこにあるものすべてがにこやかに “声” をかわしあっていた。もやしも肉も鍋も空気もにおいも、いっさいがこだましあっていた。

ふつうオペラでは客席からみえないようにオーケストラは舞台の下部にうめこまれているが、ぼくは二郎の末席でヘルデンテノールが咆吼するワグナーの楽劇の世界ではなく、うすぐらいオーケストラピットをのぞきこんでいるような気分をおぼえたし、 『ジークフリート』 の神々や英雄たちの闘争ではなく、ここはむしろモーツァルトがK.525のセレナードやK.595のピアノ協奏曲で到達した晩年のまっしろな天衣無縫の空間にちかいような気がした。じいさんがにぎる菜箸は無限のひろがりをおびてみえる厨房゠楽堂のひびきを采配していた。タクト゠菜箸のうごきで、ぐんぐんと空間が波状にひろがってゆく。そして味のブレをうんぬんしていた友人たちは、ぼくがいま眼にするものを、つまらぬ現実゠味にとらわれて、けっしてこの楽堂でゆらぐことがない普遍のものを、たんに幻視できなかっただけではないのか?


$海豚座紀行-目白
Otomeyama, Mejiro


ウィーン・フィル Wiener Philharmoniker は世界でもっとも耽美的なオーケストラだった。ぼくが本拠地ムジークフェラインや東京のサントリーホールで聴いた実演からは、あいにくと往時のその残響しかきこえなかった。ウィーン・フィルの美音は50~70年代の英Deccaの録音のかずかずでいまも聴くことができるし、 「黄金のDeccaサウンド」 といったらクラオタで知らざるはなく、まずこのオーケストラの魅力は楽団員がおおむねオーストリア人でかためられていたことによる:かれらの父また祖父もフィルハーモニカだったという係累がおおく、ブラームスやマーラーがふるタクトでその作品を演奏してきたという精神的土壤とプライドとを継承しながら、ヴァイオリンはもちろんウィンナ・オーボエ、ウィンナ・クラリネット、ウィンナ・ホルンなど管楽器群もご当地の銘器と奏法とがうけつがれて、こくがある渾然一体のまろやかで優雅なひびきをまもりぬいてきた。ところが他国人をうけいれないのは人種差別だの、やれ女性奏者をいれないのは性差別だののブーイングで故習をやぶられてよりウィーン・フィルはすこしずつ音の魅力をうしなって、また楽器製造や保守をうけつぐ職人もとだえてヤマハ製をつかいはじめるていたらく... ほんらい藝術は差別的で不条理なものだという道理をあさはかな世間がわすれために、さしもの名門もインターナショナルな “自由” の空疎がたゞよう平凡なオーケストラになりはてた。

ベートーヴェンやシューマン、ディヌ・リパティやジネット・ヌヴーなど天才的な作曲家や演奏家は夭逝しがちだが、ひとり大指揮者だけは70歳80歳の長寿をまっとうするばあいがおおい:トスカニーニ、ワルター、クレンペラー、クナッパーツブッシュ... かれらの指揮は年齢をかさねるほど円熟味をくわえて、ふかみをましてゆく。よぼよぼのすがたであらわれて、たっていられないからパイプいすに腰をおろして、ぶらんぶらんとタクトをふるだけなのに、しゃかりきになってオーケストラと格闘する若手指揮者の演奏があおくさくて浅薄にきこえるくらい深遠な音楽をひびかせる。しかし21世紀にはいって、そんなマエストロの存在もきえた。ぼくのばあいオペラシティでのヤルヴィが大指揮者とのさいごの邂逅だった。タクトをふるまえから、この老人がとてつもないものを創造するだろうということがわかった。いま三田本店の厨房でじいさんの菜箸をみたときとおなじように...


海豚座紀行-三田二郎_02



いっさいは、きえてゆく... かゝる感慨とともに、はかりしれない浄福がラーメンをすゝる時間から湧泉していた。いままで神保町は超弩級のビッグサイズで味は武骨だとか高田馬場はよくないだとか桜台はバランスがよいだとか... ぼくはぼくなりの判断をもっていたが、そんなものはこの本店のまえでは無にひとしい:はっきりいって後継者たちの作品はどれも若手指揮者の演奏とおなじことで、だれひとりとして本店の深奥にはせまっていない... かえってラーメンだけを偏愛してきたコアファンにはこの要諦がつかめないのではないか? これがわかるのはフレンチやイタリアンの美食をあじわいつくしたグルマンではないか? のれんわけをゆるされた後継者たちのラーメンは、もやしはもやし、肉は肉、麵は麵といったぐあいに孤島のごとくスープの大海のなかに屹立するばかりで、おたがいがコミュニケイトすることがない。いかにも現代の閉塞した感性ともいうべきで、となりの家に醤油を借りにゆくような気やすさがない。オーケストラならヴァイオリン、ホルン、ティンパニなどが機能性をフルにいかして轟然となりひびいているが、それぞれの楽器のあいだに対話はなく、とけあっていないにひとしい。ふるき佳きウィーン... じいさんのラーメンをすゝりながら、ぼくの脳裡では戦前のブルノ・ワルターとウィーン・フィルによる名演のかずかずがこだましていた。それらは1930年代の録音でいまも聴くことができるが、もちろんその時代の技術がすべての音をひろいきれなかったにせよ、ふるい名盤からでも往古のウィーン・フィルがどれだけ爛熟した美音をひびかせていたかがわかる。ぼくの脳裡にながれていた名曲のいくつかを宇野巧芳のワルターに関する著書から抜粋してみよう。

・<アイネ・クライネ・ナハトムジーク>:ワルターが録音したあらゆるモーツァルトの最高傑作の1つ。これほどまでに美しいと、もはや批評する気も起らない。ただただ陶酔するのみ…(中略)…もちろんこれにはウィーン・フィルの、情緒がしたたり落ちるような音色が力になっていることは疑いない…(中略)…第1楽章でだんだんと速くなってゆく表現は名人芸の極(きわみ)であり、ワルターとウィーン・フィルが目指すものが同じで練習する必要もなく、また練習しないからこそこんな融通無碍でこぼれるようなニュアンスが生まれたのだろう。

・交響曲第38番ニ長調<プラハ>:現代の若手とは違ってこくがあるのだ。導入部の妙なる美しさもその比を見ないが、ここにも徹底したカンタビーレとウィーンの典雅な魅惑以上の魂の音楽が羽ばたいている。

・交響曲第6番ヘ長調<田園>:ウィーン・フィルの1人1人が心から(ベートーヴェンの)曲に共感し、ワルターに共感している。メンバーとワルターが心を通わせ合い、信じ合い、任せ任されつつ進むところ、恍惚と陶酔の世界が極めて自然に開かれるのだ。ほんのわずかも音の切れる部分がなく、すべてが丸く溶け合ったハーモニーの柔らかさは夢に聴くようだし、最近の機械的なアンサンブルに馴れた耳には、絶えずずれているような人間的な合わせ方が郷愁をさえ感じさせるのではないだろうか。圧巻は第2楽章で、小川のさざ波が5月の陽光に映えて燦(きらめ)く高弦のトリラーや、それ以上にウラッハの吹くクラリネットのカッコウが何と優しくウィーンの森にこだますることか!


これらの批評はもとより三田本店のすべてがとけあったラーメンにもあてはめることができる。スープも野菜も肉もそれぞれが有機的につながっている。さしあたって10本の指はどれも薄膜(水かき)でつながっていて、それによって味覚の世界をすいすいと遊泳してゆくような浄福にひたりきるといったところか? ひょっとすると各店舗の後継者はもっと進化したところで味と格闘しているのかもしれないが、ともかくもここには山田拓美という老人の完成した世界があって、だれも模倣することができず、おそらくはその閉業によって永遠にきえさってしまう作品にちがいない...


$海豚座紀行-櫻樹