習い事をさせるには今も昔も変わらず、
やはりお金がかかる
私の母は洋裁の内職をしていた
最初のうちはぬいぐるみを作っていたと思う
(ピンクパンサーの足や手がいっぱいあったのを覚えている)
あっているのはピンクだけ
その後はウェディングドレス(だと思う)や、
お酒のお店で着るようないろいろな色のドレス
を作っていたのを覚えている
(ミシンもアイロンもうちにあったのは工業用だった)
私のエレクトーン発表会のドレスも(友達のドレスも)
幼稚園のお遊戯会のドレスも
修学旅行で着た友達とおそろいのパジャマも
高校の時の部活で使う衣装も
母に作ってもらっていた
内職とはいえ、正直今の一般事務職以上の収入があった・・
という話をチラッと聞いたことがあり、
もはや内職というレベルではないような感じだったのではあるが・・
そこまでしてどうしてこんなにたくさんの習い事をさせてくれていたのか?
私が1歳半くらいの時に家を買っているので当然ローンもあったはず
そのためだけではなく習い事にもお金をかけてくれている
いろいろやらせてあげたい
子供の可能性を見つけたい
純粋な親心かもしれない
子供に対する期待値が高かったのかもしれない
けれども
それと同時に
自分の時間(内職=仕事の時間)を確保
するという気持ちもあったのではないか?
どちらの比重が多いのかはわからない
習い事にお金はかかるけど、
それ以上に習い事の時間や練習の時間は子供の時間になるので
私の相手をしなくても大丈夫な時間でもある
行き帰りに親がついてくるのはバレエだけで、
それ以外は低学年のうちは自分で歩いて行ったし、
3年生ともなれば自転車で行ける
なんたってうちの母親は自動車の免許など持っていないので、
どこに行くにも自転車
今の子供達のように親が送り迎えなんて考えられない・・
送り迎えしなくて大丈夫な習い事を選んでいるのも事実かな
エレクトーンにいたっては自分の家に先生を呼んで来てもらい、
近所の子も通っていたりしたくらい
昔は今ほど不審者と呼ばれるような人もいなかったのかわからない
(近所で殺人事件もあったのだけど・・)
けれども
教室は学校のすぐ近くで学区内だから、
重たい習字道具を持って子供の足で15~20分かかるようなところを
歩いて通っていた
最初は心配したかもしれないけど、
大丈夫?と聞かれて
大丈夫!と答えたような記憶もなくはない
一人遊びも得意になっていたので、
習い事の行き帰りでさえ遊びの一環になっていた
子供の習い事は
子供のためでもあり、
親が自分の時間を確保する手段
でもあり一石二鳥
どちらも良いことのようだが、
時としてマイナスを引き起こしてしまう恐れのあるものなのかもしれない
この頃の記憶では親と遊んだ記憶はあまり・・というかほとんどない
親に ~~して
とか ~~欲しい と
わがままを言った記憶もほとんどない
父親は私が起きている時間に帰ってきていた記憶が少ない中
母親が毎日家で仕事をしているのを見ていて
子供ながらに邪魔しちゃいけないという思いがあったのかもしれない
邪魔しちゃいけないという思いも、
ある意味母を助けるにつながっていたのかもしれない
与えられたものは受け入れるが、
自分から~したいということはほとんどなかったと思うし、
その後も素直に自分の思いを表現したことはなかったと思う
(小学6年と中学3年の時の2回を除いては)
自分の感情を表に出さないのが当たり前になって一人遊びもできるし、
自然と周りの様子を察知して対応できるようになっていた
自然と「我慢」が身についていったことは間違いない
もちろんこれは親が望んでいたことではなかったはずだし
自分も意識はしていなかった
習い事は子供のためになることがほとんどかもしれないけれども
場合によっては子供のためにならない部分も出てくる・・
すべては加減が大事なんだと思う
子供のため・・・という名のもとの習い事も
親の都合もあるだろう
親の都合の比重が大きくなり、さらには親のエゴ・見栄・期待し過ぎる
習い事や教材は子供を苦しめるものになってしまうかもしれない
単純に習い事させてもらってありがたい・・で良かったのでは?
と思われるかもしれないが
私が最近まで苦しんでいた原因が、実はこの時期から
無意識に行っていた「我慢」だった
この我慢のはけ口は必ずどこかにあるもので
私自身も忘れられない・・
申し訳なかったな・・
という苦い思い出になる出来事の一つを引き起こしていたのだと
今になって思う (その話しはまた後日)