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KengoBlog 日々是思考

主に日々の思考の記録。たまに言動の記録。嗜好の記録も。

一か月ほど前の茂木健一郎氏がツイッター上で興味深い話をしていたので、それを紹介して、私見を書かせてもらう。(以下、イタリック体は茂木氏の発言)


ツイッター上のやりとりで、「医者などの信用されるべき職業は黒髪であるのが当たり前」とか、「日本人なのだから、髪の毛は黒くて当然」などという人たちがいるのを見て、本当に愕然とした。「均質性」を暗黙のうちに前提として疑わない。病は深いと感じた。


日本人には“他者と同じであること”に安心感を持つという特徴があり、時にそれが嘲笑されることであることが、日本人自身に知られて久しいが(船から海に飛び込む国民性ジョークはその一例だろう)、我々日本人は均一性についてどう考えているのだろうか? ちょっと考えるきっかけになった。


「典型的な日本人」として、髪の毛が黒くて、皮膚が「肌色」の人を思い浮かべる。「基本」としてはそれで良いとして、そのようなイメージを他人に押しつけることが、いかに抑圧的なことか、気付かずにいる人がいるとは、真に衝撃的なことである。


20歳を過ぎた頃、「日米学生会議」でアメリカを訪れた。日本側は、事前に会合を重ねて入念に準備をしたが、アメリカ側は国土が広く、当時はインターネットもなかったため、会議開始の前日にしか会えなかったらしい。ところが、初日の夜のお互いの「演し物」で、入念に準備したはずの日本側よりも、即興に近い形でやったアメリカ側の方が、見ていて面白かった。アメリカ人の瞬発力と、エンターティンメントに関する感性を思い知らされた。

日米学生会議の初日の夜の演し物で、今でも記憶に残っているのが、「典型的なアメリカ人」(Typical American)である。一人ひとりが自己紹介する。そして、最後に、「私は典型的なアメリカ人です」(I am a typical American)という一言をつけて終わる。

・「私の父はフランスから来て、私の母はロシアから来ました。二人はニューヨークで恋に落ち、結婚しました。私は典型的なアメリカ人です」

・「私の祖先は、イタリアから来て、ずっとシカゴに住んでいました。父の代になって、フロリダに移住し、そこで韓国から来た留学生だった母と知り合いました。私は典型的なアメリカ人です」

・「私の父方の祖父と祖母は、いっしょにドイツから移民して来ました。母方の両親は、ロシアから来たユダヤ人です。私は典型的なアメリカ人です」

・「私の両親の祖先は、どちらも、アフリカから連れて来られた奴隷でした。解放されて、努力し、弁護士がたくさん輩出する家系になりました。私は典型的なアメリカ人です」

・「私の祖先は、1800年初頭にアイルランドから移民してきて、それ以来ずっとニューイングランドに住んでいました。私は典型的なアメリカ人です」


めくるめくような多様なバックグランドを語り、その後で、「私は典型的なアメリカ人です」と付け加える。アメリカ社会の多様性と、誰もが「典型的なアメリカ人です」と認め合う大らかさ。アメリカという国の魅力を強烈に印象付ける演し物だった。



この5つの例だけで、アメリカの多様性と、その社会性の歴史の一面が伺い知れる。まさしく興味深い。いかにもアメリカという特徴のひとつだろう。そして、もっと興味を感じたのは日本である。


それに比べて、日本人はどうか。日本人は均質であるという思い込みが、少数派に対して抑圧的に働くだけでなく、グローバル化する世界において、日本の競争力を奪う、意味のない制約になっている。グローバル化の流れは必至である。「私は典型的な日本人です」という言葉を、多様な意味でとらえる。そんなことができる時代が、すぐそこに来ている。


・「私の母は、熊本から東京に出てきました。父は、北海道から大阪に働きに出て、旅先の東京で母と知り合いました。私は典型的な日本人です」

・「私の祖先は、朝鮮半島から日本にやってきた職人でした。京都の近くに住んでいて、代々細工ものを作っていました。私は典型的な日本人です」

・「私の両親は、ベトナムから難民としてやってきて、日本に住み、苦労して働いて、地域社会に溶け込みました。私は典型的な日本人です」

・「私の父は、マンガに惹かれてフランスから東京に来て、秋葉原で母と知り合って結婚しました。私の父方の祖父、祖母は、リヨンで精肉店を営んでいます。私は典型的な日本人です」


「私は典型的な日本人です」という言葉を、多様な意味でとらえることができるようになってこそ初めて、日本はグローバル化する21世紀にふさわしい活気あふれる国になるのだろう。



そう茂木氏は綴っている。

まだまだベトナム難民としてや漫画に惹かれてフランスから移住した人が“典型的な日本人”とは呼べないと思う。しかし、将来的に日本の国際化というものを考えた時に、そのような時代が来ることは時間の問題だ。

そして、そういう状況を快く受け入れる社会情勢ができてこそ、多様性を寛容することができ、異文化というものを社会が受け入れ、多文化が混在できる世の中になるのだろう。

そんなアメリカのような状況になる日本を、まだまだ想像できないが、これからの日本が生き残る道はグローバル化しかないのだから、そうなって欲しいものである。

(“アメリカのような”状況が、それはそれで様々な問題を抱えていることはもちろん承知しているが・・・)
翻訳家、戸田奈津子さんの講演会に行ってきた。

タイトルは「字幕の中に人生」


いろいろと興味深い話があったのだが、おれと考えが同じ部分がかなりあり、自分の信念をさらに強固なものにすることができた話があった。これまでにブログなどでも書いている内容だが、自分用のメモも兼ねて、改めて記しておこうと思う。


まず、多くのハリウッド映画を翻訳する(これまでの作品は1500本以上らしい)翻訳家の彼女は、当然英語を駆使する仕事をしているのだが、“英語ができれば翻訳・通訳ができるのではない”ということ。

それはできて当たり前であって、スタートラインであること。基礎ができていれば、それ以上は、“問われるのは日本語力”であることだ。加えて、そのためには本を読むことが大事と話していた。最近劇場映画が子ども向けでなくても、吹き替えが増えてきていて、その原因が活字離れだとするならば、国家的な危機だと指摘。その要因であるケータイ文化についても指摘。

また、日本語もまともに操れないのに、小学生のうちから英語教育が取り入れられつつある現状にも驚愕していた。うんうん、そのとおりだ。

実践で初めて英語を使った仕事は、ハリウッド関係者の記者会見の通訳だったという。30歳を過ぎて、初めて接した外国人だったらしい。何度も断ったあげく、結局他に居ないからという理由で引き受けたが、当然ながら、ボロボロだったらしい。しかし、ボロボロだったのにもかかわらず、また仕事の依頼が来たと。この理由を、小さな頃から映画が大好きで映画を見まくってきたため、“映画の知識があったから”と話していた。今も、音楽関係や政治関係の通訳は全くできないそうだ。

そりゃそうだ。

かいつまんで書いたので、つながりがわかりにくいかもしれないが、普段全く同じことを考えているので、このような“成功者”が同じことを仰っていると、非常に自信になる考え方だ。


しかし、なんで英語を使って第一線で活躍する多くの人が、このことを指摘しているのに、英語さえ勉強すれば、英語を使う仕事ができるという誤解がいつまでもまかり通っているのだろう? 


また、“親の背中を見て育つ”という言葉があるが、現代では、時代の移り変わりが速すぎて、親の背中を見ても、親と同じ職業が自分が大人になる頃には無くなっている可能性があり、この言葉は成り立たないという指摘もしていた。

なるほどそうだ。




この講演会は、鹿児島市国際交流市民の会(KICS)の20周年記念大会として、行われた。他にも全国大会金賞6回の小学生ジャズバンド「リトルチェリーズ」の演奏があった(→来月NHKで特集されるらしい)。音楽の生演奏に飢えていたおれにはとても楽しい時間だった。

午後からは、マカオ出身者の中日異文化エピソードや、県の青少年国際協力体験事業の報告会の話を聞いた。


たまたま保健所で見かけたポスターを見て申し込んだのだが、行ってとても楽しいイベントだったが・・・・・

ただ、開会宣言で、いまだに留学生を見世物扱いしていたのにはガッカリしたな。

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先週告知したように、多国籍合宿がテレビで放送された。


 ■ドキュメント九州「多国籍合宿」 鹿児島発・国際交流への挑戦
 KTS  8月8日(日)5:00~5:30
 再放送 8月20日(金)14:30~15:00
 FNS九州8局逐次放送


いろいろと反論するから・・・と、息巻いていたのだが、見てみると・・・
それほど反論するような内容でもなかったかな。

細かいところには突っ込みたい部分はあったが、
あとは、ここ数ヵ月で指摘し続けた部分の課題が、分かる人には見えるような内容だったが、
番組の組み立てそのものに、大きくケチをつけるような内容では無かった。

敢えて言うなら、
「表面をなぞっただけで、深くまで掘っていない」点に関してはやや不満を感じたが、
ま、単発の30分番組では、ここまで描ければ十分なのかもしれない。
早朝の番組で重い内容を放送するのも、適切じゃないっていうこともあるのかな?

しかし、第3者の目(に自分がなれただろうか)で見ると、
活気の無いミーティングをやってたんだなあと、改めて感じた。
まあ、VTRじゃ切り貼りされてるから、しょうがないか。

実行委員長にスポットを当てたと聞いていたが、
実行委員長を中心にスタッフ数名にスポットを当てていた。
唯一(たぶん)インタビューが放送されたスタッフ以外の参加者が、
知っている人だったからビックリした。
(長らく会っていない高校生だから、たぶんだけど)

以上雑感。


九州外で、見られないという意見も多いので、
You Tubeなんかで目撃したら、教えてくださいな。・・・って、やったらいかんこと?
無視しておこうかとも思ったけど、ツイッターで中途半端に書きっぱなしにするより、一応告知しておく。


■ドキュメント九州「多国籍合宿」 鹿児島発・国際交流への挑戦
KTS  8月8日(日)5:00~5:30
再放送 8月20日(金)14:30~15:00
FNS九州8局逐次放送


そんなにたくさんの人と話したわけではないけど、全員が言っているのが・・・・

“曲げられて伝えられるんだろうなあ・・・・”


ポイントを抑えられているか至極不安。
テレビだから多少の演出はありにしても・・・・・・


まあ、間違いなく反論しないといけない点は多々あるだろうから、
見てから、そういう点はまた書こうと思う。
番組への反論と、現状の多国籍合宿への反論。

番組を見る人は、必ずおれの反論を見てください。
願わくば、“番組への反論”は無い事を・・・・。

ほんとに、怖いもの見たさ気分だ。


おれは直接インタビューとかはされていないけど、
ミーティングでいろいろ口うるさく言ったから、
そんな場面が流れるかもしれないけど、その時は触れないでおいてください。笑


一応聞いた話だと、多国籍合宿のドキュメントというより、多国籍合宿実行委員長にスポットを当てたドキュメントらしい。
東京新聞の高橋秀実氏「新聞を読んで」で、
「○○が分かった」「○○との考え方を示した」「○○の公算が大きい」などといった決まり文句の多様を指摘しているらしい。原文を読んだのではないが、どうも批判的なニュアンスで書いてあるようだ。


で、思い出したこと。


大学時代アメリカで、新聞記事を書く授業を受けていたのだが、そこで習った基本のひとつに、

He thinks ~ は、使ってはならないというのがあった。正しくは、
He said he thinks~。 つまり、

「彼は~と考えている」と書いてはならない。
「彼は~と考えていると言った(話した)」と書くべきということだった。


“彼”が何を考えているかは、記者はわからないからという理屈だったと思うが、同じように、「感じている」「喜んでいる」「怒っている」「悩んでいる」などの動詞も直接は使えないと習った。



これは英語表現においての基本なのだろうか。日本の新聞では、全くこの書き方は適用されていない。確かに、日本語でこの書き方だと、味わいがなくなってしまう。かといって、決まり文句を多用しても、それも味わいは無い。

しかし、ニュースというのは、ある程度型に分けられてしまうのは、必然ではないか。コラムのような文章なら表現力が求められるのだろうが。
インターネットを使う人も居るし、使わない人も居る。特に田舎の人と、歳が上の人ほど、使わないし、興味も無い。これは決して偏見ではない。そう思っていた。

しかし、これは鹿児島だけの話のようだ。

地方であるところの鹿児島の普及率が平均より低いというのは、想像通りであったが、まさか全国最下位。九州全県が全国平均以下とは・・・なんと福岡まで。

おれはもはやネット情報網が無いのは、テレビが無い以上に生活に影響があるが、その状況を白い目で見るような人も中には居る。まだまだネットインフラの重要性を知らない人は多いんだな・・・・九州は。

携帯回線が早ければ今年末に、俗に言う3.9世代になるそうだ(今は3.5世代。MOVA時代は第2世代、FOMAになった時が第3世代)。ブロードバンド並みに速くなるようだ。これが切り替え時期になるのかな?

いや、3.9なんて言われると、じゃあ第4世代まで待とうかなんていう気持ちにもなってくる。しかしまだ見通しも立っていないし、第4世代ってどんなに速いんだ?

話がそれた。「ネットが利用できる環境なら・・・・」というフレーズをまだまだよく使うが、東京あたりはもう電話のようにそういう環境があるのが前提? 最近携帯電話の普及で固定電話が減っているようだけど、ひょっとすると固定電話普及率より高い都道府県もあるのかいな??


===以下引用===
■ブロードバンド普及率なぜ低い九州 鹿児島35%、全国は60%
  2010.7.15 09:18
 今年3月末現在の九州での高速大容量通信(ブロードバンド)の世帯普及率は48.8%と全国平均(60.6%)を大きく下回っていることが、総務省九州総合通信局のまとめで明らかになった。中でも鹿児島県は全国の都道府県で最も低い35.1%だった。同通信局では「九州で普及率が低い理由は分からない」と首をかしげている。

 光ファイバーやケーブルテレビなどブロードバンド契約数は、九州7県で約260万件。うち光ファイバーが約137万件で最も割合が高かった。

 県別の世帯普及率は、福岡55.3%▽大分47%▽ 熊本44.1%▽佐賀43.3%▽長崎41.9%▽宮崎40.5%▽鹿児島35.1%。最も高い福岡県でも全国平均を下回っている。

 ブロードバンドをめぐっては、本年度中に全国でインフラ整備を完了する計画を国が立てており、九州でも県や市町村が光ファイバー網の設置などを進めている。同通信局によると、インフラ整備率は90%台で本年度末には100%に達するという。

 同通信局は「インフラはほぼ整備された。あとはブロードバンドの有益性を伝えていき、普及率を引き上げたい」としている。
Jungle Smileの「片思い」が今話題のアーティストにカバーされているらしいが、
ジャンスマファンから、すこぶる評判が悪い。
おれはまだ聴いていないが、あれだけ評判が悪いと聴く気にもなれない。
なにやら、注目のアーティストらしいので、恐らくヒットするのだろうが、
みなさん! その前に、是非原曲を聴いてくださいまし!!

どうも、10年前の「夏祭り」でずっこけた記憶が蘇る。

おれはこの曲でジャングルスマイルを知って、そしてファンになった。
彼らの代表曲のひとつ。

前回の日記に、さまざまな反応があった。
コメント欄に書いて欲しかったが、懐かしい人も含め、直接反応が多々きている。
どうもありがとう。


敢えて、目を引くタイトルにした甲斐があった。笑



その後、いろいろな人と話をしたが、結局、また続ける方が良いという要素はほとんど感じられない。見当たらない。
今後どうするかという考え方は、4択になると思う。


 1.今のように惰性で多国籍合宿を続ける
 2.もともとの目的に沿って多国籍合宿を立て直す
 3.多国籍合宿をやめて、同じ目的で別のものを作る
 4.多国籍合宿をやめて、新たなことにも着手しない

2がベストだが、現状としてかなり困難である。
1が一番楽な方法、3が一番難しい。
3を前回ここで提案したが、具体的な発想があるわけではなく、理想論という段階だ。

とにかく1はやったらいかんと思う。




“国際交流”が甘い言葉として日本を取り巻いているが、
本来は、摩擦や衝突を学び、感じ、解決を探り、それらを楽しむことじゃないか。

こういうものは、形が目に見えにくいし、ましてや結果はさらに見えないものだ。
そのようなものは、失敗したり、効果が低かったりすると、えてして
“やらない方がよかった”で済まないものになる。

もちろん、あらゆる意味で上手くいって、大きなプラスになることが理想だが、
上手くいかなかった場合、プラスが少なかったorゼロだった、ではなく、
とても大きなマイナスになりうるのだ。

“やったばかりにこんなに後退した”と。



今の日本に溢れている表面上の“国際交流は”こういう状況を招きがちだと思う。

とにかく外国に触れる・外国文化に触れてみる・・・というのは、入口としては良いだろうが、
現在の“まずは英語に触れてみる”という小学校の英語教育と同じようなことをいつまでもやっていても、それがゴールだと錯覚してしまうのではないか?


多国籍合宿スタッフとして、前回からの意見は厳しい意見かもしれないが、まだまだこの現状に気づいている参加者は多くないだろう。だからこそ変えるなら今だと思う。


気づいている人は気づいている。もし全員がそれに気づいたら・・・・?
それはそれで、何かを変える原動力になるかもしれない。
しかし、早いうちに気づいた人は、自身のものと重なっていたから参加していたのに、多国籍合宿の理念とは異なるということで、離れていくのではないか。



多国籍合宿には、国際交流(異文化衝突)が甘いものでないということを気づかせようという力があった。
(気づかせる力があったとまでは言えない)

今はむしろ、甘いものであるということを伝えてはいないか?

本質に迫らずに、いまだに鎖国文化を引きづって、表面的な付き合いに終始し、それで満足していやしないか?




・・・・なんか同じことを別の表現で書いて繰り返しただけになっている気がするので、この辺で。

することを提案する。主張する。



今年で10年目、10回目となった多国籍合宿は、先週末の土日に開催された。4年目から参加し、すべてでスタッフとして参加しているおれは、つまりは今年は個人的には7回目の合宿となった。


10年10回となると、ある程度形態が固まってくる。作業が効率化するメリットがある一方、組織が硬直化するというデメリットもある。最近このデメリットばかりが目立つようになったのが、この提案の一番の理由である。


多国籍合宿は、目的実現のための手段だと考えている。大きなテーマとして「多文化共生社会構築への挑戦」と銘打っている。言葉にしたら、なんと壮大なテーマである。壮大ではあるが、漠然としている。毎年、各自がこのテーマに対し、どう感じどう考えているか、スタッフ間で話し合い、そのために多国籍合宿という舞台で、具体的にどのような手段を用いて、達成させようと試みるか、議論を重ね、2日間の合宿を作り上げてきた。


こういう議論を自然とやってきた歴史がある。たかだか数年の歴史なのかもしれない。恐らくこのように文章にするとたいそうなことをやっているように思えるかもしれないが、やっていた本人たちは、さほど意識していなかったと思う。しかし、この意見のすり合わせ、情報の交換という議論が、そのまま異文化理解の手段につながるものであり、重要かつ基本的な姿勢であることは、言うまでも無い。


近年この姿勢が薄れていることを感じていたが、今年のその状況はきわめて希薄なものになり、さらにそれを立て直すことは非常に困難であった。直接的、間接的に様々な手段を通して、説き続けたつもりである。問題は今年に限らず常にある。問題は解決できれば、それに越したことは無いが、まずは問題に向かい合う姿勢が無い事には、解決なんて永遠に見えてこない。


そういった議論や衝突、問題に向き合う姿勢をできるだけ避け、とにかく楽しい2日間を作ろうとしたのが、今年の多国籍合宿だった。もちろん楽しい方が良いし、楽しくなければ多国籍合宿じゃない。しかしそれは目的達成のための手段を楽しくすることであって、2日間を楽しくすることが多国籍合宿そのもの目的ではない。楽しいだけなら、外国人が多く集まり毎週末ダンスパーティをやっている店が鹿児島にも幾つかある。そこで事足りる。


2001年に第一回目の多国籍合宿を開催した時は、初めてで様々な困難に直面しただろう。2006年は一度中止が決まり、それ以降の開催再開も危ぶまれる状況の中、秋開催(結果、例年5~6月開催だが、この年だけ10月開催されている)に向けて立ち上がった中心メンバーは、全くの新参者ばかりであった。



ここ数年、スタッフから頻繁に聞かれるフレーズが「初めてスタッフをするからわからない」「参加したことが無いからわからない」という言葉だ。偽らざる本音だろう。10年近く重ねた歴史が、新参者を臆する状況に置いてきているのか? しかし、問題はこのフレーズがスタッフとして参加して何ヵ月も経っても聞かれることだ。経験者との意見交換がほとんどなされていない。いや、経験者が居なくてもいい。多国籍合宿をどうイメージし、体現するかは、ひとりの力ではできない。新人スタッフ同士だろうが、意見を重ね合わせ、時には反論し合い、ケンカもして、作り上げてきたのだ。繰り返して言うが、これこそが、異文化理解・多文化共生につながる基本的な手法ではないのか? 他にどのような方法があるというのか? 外国人とニコニコし合いさえすれば、“国際交流”ができるなどと、甘い考えを持つ人がいまだに居るのか? 残念ながら、今の日本人にはそういう考えの人が多いので、その重要性を訴え続けている一人がおれである。



ここ数年、“実行委員長”が前年スタッフ経験者から選ばれるのが、当然の流れになってきた。初めてスタッフが加わる人間が、リーダーになることは非常に困難だと思われているらしい。排他的でない集団なのになぜ?


創造する意思がなくなってきている。創造できないということではない。創造は容易ではない。ただ、多国籍合宿を通して何かをやろうという意思のある人たちが集まったのが、このスタッフという組織だ。「こういうことをやろう」「こういうことはできないだろうか」「もっと良い方法は?」「これは無駄なやり方じゃ?」そういう議論から、創造は生み出されるものだと思っている。


今年はこれが絶対的に足りなかった。こういうことの重要性を訴え続けても、届かなかった。



いや、そもそも・・・・


こんなことをわざわざおれが言わなくても、目的と趣旨を考えれば、自然とそういう議論が活発化する雰囲気が生まれてくるのは必然だったはずだ。


どうしてこうなってしまったのだろう???


趣旨を考える人が少なくなった現状がある。前年の、前回の多国籍合宿を、ただ真似ようとする人たちが増えている現状がある。スタッフ間で議論することもなく、留学生と議論することもなく、淡々と前年のやり方を真似するだけとなった(+改善させようとはしている)。


その結果、「やらないといけないから、やっている」と堂々と発言するスタッフまで現れた。スタッフはボランティアである。義務も無ければ、仕事でも無い。学生主体のスタッフだが、いくらがんばっても単位が取れるわけでもない。ボランティアとは無償の仕事では無い。前も書いたが、好きなことを好きな人がやるということだ。


前出のスタッフは、ここ数年実施している、当日の困難なあるイベントを担っていた。準備が進まず、壁にぶち当たっていたのは知っていたが、具体的に何に手こずっているのか、個人的な相談もなければ、全体ミーティングでも明かされないので、放っておいたが、見るに見かねて、2週間ほど前に、様子を聞いてみた。このイベントは極めて難しい内容なので、中途半端に口を挟むのは良くないと思い、過去アドバイスを求められた時以外に、意見を言ったことは無かった。


予定より何もかもが遅れていた。それどころか、目途も立たず、どうしたらいいかわからないということだった。まったくもって楽しんでいる様子も無い。結論はただひとつだった。


「これ、やめれば?」


そんな状況で続ける意義を感じられなかったおれは、そう強く思い、そして、そのことを伝えた。その時の彼の反応が、先のフレーズだった。


「え? これ、何のためにやってるの? やらないといけないから?? やらないといけないなんてことは何も無いんだよ????」


別に意地悪を言ったつもりはない。この言葉を乗り越えて、より良いものを作れよ!なんていう発想でもない。そこまでのことを言うような時期では無い。先が見えなくて、ましてや目的すら“やらないといけないから”としか出てこないものを、400人の前でする意味は、それこそ何も感じられなかっただけだ。


その後も、彼らは苦しみ、結局当日まで苦しみ抜いた。・・・としか思えなかった。つまるところの責任者である小林教授も前夜のバタバタぶりを見て「やっぱり今年のこれはやめるべきだった」と発言した。


“やっぱり”


おれもまさに同意するところである。


不幸なことに(?)、当日は例年にない盛り上がりを見せたそうだ。盛り上がりという点では、かなり評価されているように思う。が、課題も当然多々あり、反省会では質問がいろいろ浴びせられた。おれも、根本的な疑問を再び尋ねた。


「しんどかったでしょう?? そのしんどさを押してまで、また来年これをやって欲しいと思う?」


ここから始まったやり取りの末、わかったこと・・・・


「何を目的にしてやったの?」「目的を持たずにやったの??」というおれの基本的な質問に対し、


「やめる理由は何ですか??」


????????


この発想にはビックリした。前年の真似をしないようにと、あれだけ言い続けていたのに、まさに伝わっていなかったことが分かった瞬間だ。前年まで毎年やっていたことを、やめさせないために、自身の目的も無くやっていたとは・・・。


「やめるかやめないかじゃなくて、今年やるかやらないかの判断でしょう??」



どうやら、このセリフも最後まで響かなかった。



誤解していないと思うが、できなかったことを責めているのではない。目的や意義も考えずに取り組んで、ただ苦しみ、周りが修正しようとしたのにも関わらず、最後まで目的を考えようとせずにやった姿勢に疑問を呈しているのだ。


これは何も、このイベント、このスタッフに限ったことではない。極端な例として挙げたが、全体的にこういう傾向になってきてしまっている。


1回目を作り上げたスタッフたちは、本当に何もわからないところから作り上げた。当時のメンバー曰く「こんなことが本当にできるか、実は懐疑的に感じていた」という。6回目の再建の時も、中心メンバーは全員が新人で、しかも1年生が中心、おれのような経験者や社会人は、時折アドバイスをする程度だった。横で見ていたおれは、一度中止になったものが、なぜ再開できるのか、遅れて合流することになったおれにとっての1回目のミーティングに参加するまでは不思議でしょうがなかったが、そのミーティングで感じた活気で一切の猜疑心がぶっ飛んだのは、よく覚えている。


こんな話をすると、技量だとか個人の能力的な問題と言う人が居る。そんなことは無い。当時のメンバーは優秀だったかもしれないが、それが成功できた要因ではない。向かい合おうとする姿勢、試行錯誤する姿勢、情報共有、意見交換・・・・そういう姿勢があったか無かったか、だ。結果的に試行したことが上手くいかないこともある。いや、むしろ上手くいかないことだらけだ。参加者アンケートで、参加者に失敗を責められると「そんな簡単にできないんだよ! じゃあどうすれば上手くいくのか教えてくれや」と、直接話したい気持ちは常にある。精一杯やっているスタッフがそんなアンケートで一方的に責められると、心底頭に来る(漠然とした記述じゃわかりにくいので、あとで連絡が取れるようにアンケートは記名式にしようという提案を今年もするのを忘れてしまった・・・)。



反省会で、この一連の話をしていると、ある大人の方が、「学生には無理」とおれに反論してきた。


「姿勢を持つことが、無理ですか?」


ここで多少冷静さを欠き、「1回目も6回目も、これまでやってきたわけだから・・・」などと、説得力の無い反論をしてしまったが・・・。


いやいや、いくらなんでも過去の学生スタッフにあまりに失礼でしょう。特に6回目立て直した状況を間近で見ていたおれにとっては、自分が直接の学生スタッフなら、キレてたかもしれん。



しかし、その一方で、今年のスタッフは、準備作業は非常に一生懸命がんばっていた。イベント運営の作業という意味ではこれまでに無いきめ細やかな配慮で、特に6月に入ってからは、これまで以上の疲れがあったと思う。

目的が見えずに(見えにくいままで)、作業量だけ大量にこなした彼らを見て、かえって虚しさを感じるのであった。いじらしいというか。


これら一連のことを考えて、おれは多国籍合宿終了の提案に至ったのである。まだみんなの前では言っていない。部分的に話をした相手がいるが、上手く伝えられず、長ーーーくなってしまったが、この文章を読んでいただければ、おれの真意が少しでも伝わるのではないかと思う。小林教授も、別の理由からであるが(しかし繋がるか?)、今回で最後と昨年から宣言していたし、ちょうど良い。


多国籍合宿は、惰性でただ、形式的な国際交流をやるイベントでは無い。400人集まって、1泊2日空間を共有すれば、国際理解が深まるなんていう夢物語は有り得ない。そんな簡単なことなら、この世からとっくに異文化摩擦や国際問題は無くなっている。400人も集めて、表面的なことをやるのは、おれには耐えられない。


2ヵ月前、過去のあるスタッフが状況を見かねて、「こんなのは多国籍合宿じゃない! 私達や先輩たちが作ったものを壊すな!」というようなことを言っていた。おれは、まあまあそこまで言わなくても・・・なんてその時は思っていたが、時間が経つにつれて、この言葉は非常に響いてきている。的を得た発言だった。



そこで、本来の提案は、ここだ。多国籍合宿を一旦全部忘れて、無くして、そして、本当に“多文化共生社会構築への実現”について考えている人間を集めて、もう1回その手法や手段を考えて、その機会を鹿児島の人、日本人、外国人、留学生に提供できるものを作りたい。


少なくとも今の流れで、「多国籍合宿」をやることはやめて欲しい。「多国籍合宿みたいなもの」は別の名称でやってくれ。



諸先輩方には、非常に申し訳ないですが、もう多国籍合宿を立て直す自信はありませぬ。個人的にはやり尽くした。


不運なことに、こういう状況である今年、多国籍合宿がドキュメント形式でテレビで取り上げられるそうだ。KTSが密着していて、8月くらいに25分番組で、なんと鹿児島ローカルではなく、九州地区放送らしい。ひょっとするとミーティングでおれが怒っているのが写っているかもしれん。KTSは「こんな熱い事をしている人たちが鹿児島に居るとは知らなかった」と言っていた。おれはミーティングでスタッフもKTSも居る時に「KTSさんは誤解している。こんなぬるい合宿は無い」と言った。いや、言わずに居られなかった。もちろん、何がどうぬるいか、ひとつひとつ挙げて、だ。多国籍合宿の名のもと、ぬるさが電波に乗って、九州全体に知れ渡る予定だ。


ぬるい状況をおれは初めから感じていたから、今年はスタッフとして自信がなかった。mixi日記やブログで参加者募集の時期に、その告知をしなかったのは、こういった経緯があったからだ。


今思えば、無くなったものを作り直した2006年の多国籍合宿というのは奇跡だ。現状を考えれば、おおげさではなく、本当に奇跡だったんだとしか思えない。



内閣支持率が凋落の一途をたどっている。そりゃそうだろう。

鳩山&小沢のカネの問題。
基地の問題。
最近では、口蹄疫の対応の問題。
細かい事を言えばキリがないが・・・・・・・


一番の原因は、単純だ。基地問題に象徴される“ブレている”現状だろう。


基地問題に、一石を投じようとしたのは、大いに評価するべきだと
・・・・・思っていた。

しかし、結果的には、沖縄県民や徳之島島民の気持ちを弄んだだけとなっている。

国民の怒りは、
“基地を国外・県外に移せないこと” でも
“基地を沖縄に残すこと” でもなく、
“嘘をついていたこと”だ。
その原因を突っ込めば、また長くなってしまうが。
結果的にであれ、そうなったことが、信用されなくなっているのは事実。


マニフェストが、価値の無いものになり下がっていないか?
そもそも価値を置いていたのが間違い??

マニフェストを比較して、支持する意見の政治家や政党に投票するというのが、選挙に臨む基本的な姿勢だと思っていたが、そもそも嘘だらけならば、それは意味が無いものとなってしまう。



なので、国会議員に直接訊いてみた。


Twitter上で確認できる88人の国会議員に、以下のメッセージを送った。

『参院選が迫っていますが「マニフェストなんて国民受けするきれい事を書いておけばいい。別にそれが実現できなくても罰則も無いし、実行するかどうかは問題じゃない」という現状に対して、反論できますか? できるなら、国民が納得できる説明をお願いします。』


何人から返答があるだろうか?
納得できる意思表示をする議員はどれくらい?


一番意見を訊きたい首相から返事が期待できないのが残念だ。彼のTwitterは完全に一方通行。本人がやっているのか、秘書など周りがやっているかも定かでない発言だから。



それから1週間。


なんらかの形で返事が来たのが6名であった。返事があったものは、すぐにあったのだが、おれがぐずぐずしているうちに、まとめるのが遅くなってしまった。その間にも、マニフェストと反する政策が決定され、マニフェスト通りに動こうとした大臣が辞めさせられるという、なんとも訳がわからないことになっている。


まず、返事があったのは、民主党の玉木雄一郎議員。
「今、マニフェストの改訂作業中です。昨年の衆議院選挙で掲げた内容を基本としながらも、財政の現状、来年度の税収見積りなども勘案しながら、規模を縮小したり、実現時期をずらしたりするものが出てくると思います。ただし、改訂のプロセスをオープンにすることが不可欠と考えます。」

最後の一文以外は、全く質問の答えになっていない。形式的な回答。


自民党、岩屋たけし議員。
「「マニフェスト選挙」なるものは始まったばかり。公約を掲げ、その実現に努力することは大切でしょう。最初のつまずきがひど過ぎましたけどね^^。これもまた学習です。政党も政治家も国民もだんだんとこういうやり方に習熟していく必要があると思いますね。」

マニフェスト選挙って、前回の衆院選が初めてではないのだが。まあ、学習がどういうことを指すのか具体的に知りたいところ。


民主党、松井孝治議員。
「マニフェスト、おそらくいろんなグループの皆さんが知恵を絞っている時期だと思うが、個人的には、国民からの信頼度のあるものにすることがもっとも大切だと思う。
 2003年にマニフェストを解禁する際、21世紀臨調の方々と議論。特に北川正恭さんほかと議論していたのは、有権者もいろんなことを「お願い」するのではなく当事者意識を持つべき、政治家は、あれもこれもやります、ではなく、やることの重点付けとその負担のあり方を問いかけるべきという点。
 いわゆるマニフェスト選挙は、03,04,05,07,09、そして今年10と6回目。もはや看板やキャッチだけでは、信頼してもらえない。8ヶ月経過時点としての自己評価と責任ある議論、内容が不可欠。」

模範解答と言える回答(?) 行動を伴わせてくださいね。


民主党、斎藤恭紀議員。
「その現状認識は間違っています。確かに暫定税率廃止は実現しませんでしたが、昨夏に出したマニフェストの22年度における実行計画はほぼ実行しています。」

ほう。じゃあ、疑問。

「であるなら、この内閣支持率がここまで急落している理由は何だと考えていますか? 初めから低い支持率よりある意味深刻だと思いますが。基地問題の最低でも県外は首相が言う「公約では無い」というのは党の共通認識ですか?」

と訊いたが、返答無し。説得力の無い回答だったということだ。


公明党、 浜田まさよし議員。
「その様な認識が広がった事は残念です。政治家の言葉の価値を再度高める努力が必要!」

今政権がきわめて酷いのは言うまでも無いが、自公政権時代がバッチリだったわけでもない。民主党不信でも、現政権不信でもなく、政党不信・政治不信・政治家不信・選挙不信に繋がっているという認識を持ってもらいたい。



さあ、そして、民主党の初鹿明博。
「もう7割近くは実現しています。」という回答で、批判・非難・失笑が広まった。Twitterの盛り上がりを、身にしみて感じて楽しかった。

当然、7割も実現しているわけもなく、実現したものは2割。遠い将来での達成が現時点で可能なものが85%。→毎日新聞より


「言い方が間違っていたので訂正します。実現したではなく着手したです。具体的には子ども手当の1万3千円の支給・高等学校無償化は実現してます。農家戸別補償制度は着手。生活保護の母子加算復活も実現。父子家庭への児童扶養手当支給は今国会で成立予定などなど」

という修正があったが、もはや先に出た一言が、世間をにぎわすのであった。

さらに、
「毎日新聞の4月19日の報道では着手率は85%となっています。178項目の政策のうち、すでに着手した政策は151項目となっています。制度を変えるのには時間のかかるものもあるので、4年の任期中に実行するのがマニフェストだと説明してきました。ですから、この数字はかなりの成果です。」
ときたので、

かなりの成果?? 

「かなりの成果と見るなら、この支持率激減の理由をどう分析しますか? 初めから低い支持率なのよりも、問題だと感じませんか? この激減が国民の答えですよ。」

と投げかけたが、これまた回答無し。



結局、初めに抱いた疑問は、全く解消されなかった。

特に民主党からの回答は、ちょっと問い詰めると答えが無い。本当に認識がずれているのか? それとも、個人の意見が党の考えと違って言えないのか?


まったく腑に落ちない結果となってしまった。


特に民主党にとっては、どう考えても反論できないと思い、反論できる意見があるなら是非聞きたかった。しかし、予想通りどころか、自分たちの首を絞める回答となったのが、可笑しかった。が、笑っている場合じゃない。


メディアのせい? 国民が馬鹿だから?

そう思っているなら、そう言えば良い。


支持率急落は、明らかにマニフェスト違反がその原因だ。
ま、初めから基地問題の解決は無理とおれは思っていたけど。あと、子ども手当もね。


政治に失望してて良いのか?