皆さんこんにちは。
どうもけんちくんだよ。
唐突ですが、どこ(職場・学校…)に行ってもバカにされる、距離を置かれる、変わった存在として嫌厭される、享受される、そういう人間はこれ読んでくれる人間の中にいるだろうか?もしも仮にいたら、それはけんちくんと同じカルマを背負う人間なので、一刻も早い解脱をお勧めする。この世の侮蔑という洗礼をその身に受ける前に、桜のように美しく散った方が、概念として、人間として尊厳を保つことが出来る。
以前、ブログで、けんちくんのポリシーが「逆張り」だという話をしたように思うけれど、やっぱりあれはやめといた方がいい。所詮、人間という種は猜疑心を胸に他者を凌辱することでしか生を実感出来ない生き物なのだと思う。生の美学だとか、生きることは素晴らしいみたいな論を唱えられるのは、最終的に腐ったみかんのダンボールから離脱出来た優秀な個体、もしくは、人間に対する解像度が著しく低い個体だけなので、所謂、平均的な個体或いは私のような平均以下の個体にとってそのような論は、単なる欺瞞と驕りでしかないように思う。人間というのはクソだ。クソな面を含めて人間は美しいだとか、あまり調子に乗るな。普通に殺す。
だからこそ、「逆張り」という生き方は、自分自身を救う命綱にもなり得るが、一方で自身の首を絞め続ける縄にもなり得る。いっそ、人間一個体としての尊厳を捨てて、猜疑心を胸に他者を凌辱することでしか生を実感出来ない生き物として、周囲に同調し、個体としての実感を殺して生を享受する方が合理的なのかもしれない。だれしもが、この人間の本質に気づいているからこそ、誰でもないなにかを目指したり、自分には才能があるとか盲目的に信じ込んで、リアリズムから逃れようとしているんだろうと思う。
仕事と同じで、うまくいかない奴は何をやってもうまくいかない。人生がうまくいかない奴は環境を変えようが、何をしようがうまくいかない。そもそもの個体として欠陥があるんだろうと思う。
けんちくんは、面と向かって侮辱してくる人間は大好きだ。目の前に出るリスクを負っている点を最高に称えたい。けんちくんになにをされるか分からないのに、わざわざコストをかけて出てくるんだから、そんなの愛じゃないか。ただし、目の前に出てこない人間は本当に心の底から軽蔑している。ノーリスクで、自分と自分の周りで気持ち良くなろうなんて、あまりにも身勝手だ。「逆張り」には常に、侮辱というフィルターを通して見えないところで誰かを気持ちよくさせる効能がある。勿論、逆張り側は全く気持ち良くなんかないが。
けんちくんという個体は、いい意味でも悪い意味でも目立ってしまう。なぜかはわからないのだけれど。散々学生時代から、周りを気持ちよくさせてきたわけだけれども、正直、社会人になってまで、その効能が続くとは思ってなかった。単に学生という点で、周囲のレベルが低いからこそ生じ得ることだと理解していたけれども、実際はそんなことは無くて、世の所謂「大人」と言われる人間もその程度で、学生とさほど変わらない、どころかむしろ学生よりもレベルが低い。けんちくんは、所詮、誰かにとっての侮蔑の対象であり、称賛を得るために活用される道具でしかないという事を改めて理解してしまった。優しい俺が全部悪いよな。また、これが明確な他人である「誰か」ではない点が痛いところで、身近な人間の方が、けんちくんに対しての解像度が高いからこそ、より気持ち良くなれるという点でけんちくんの価値は高いため、明確な一個体が対象だったりする。
けんちくんという個体は、猜疑心を胸に他者を凌辱することでしか生を実感出来ない生き物達の為のオアシスであって、そういった醜い個体達を快楽に陥れる為にこの世に創造されたのだろうと思う。改めて自身の責務の大きさに辟易してしまう。
常に何かに追っていないと自我が保てない。ここでの何か、は対人ではなくて、数字であったり、思考であったり、概念であったり。その時々で様々ではあるけれど、これもある種の執着ではあるが、取り組みやかけたコストはある程度の割合で返ってくるからこそ、期待を持てて、やっていて苦痛どころか、快楽なんだろうと思う。対人は期待値が分からない。どこまで期待して、どこまで返ってくるのか。わかっているようでわかっていないんだと思う。そういう意味で、社交的根暗という言葉は得てして私の本質を突いていて、感涙に咽ぶ。
結局、人間というのは、優しくしてやればやるほど付け上がるような生き物だからこそ、やはり優しさなんていう概念は偽善的なんだと思う。優しくしてきた私がバカだった。
やはり私には人間社会の仕組みや人間という生き物の枠組みがわからない。
本当に何ひとつわかっていない。
もう動けない。
ファッションガチ恋(23)