思えば、小さい頃から生きることに意味を求め過ぎて居たように思う。

恐らく生そのものに意味なんて無い。所詮、交尾の結果でしかなくて、そこに愛やらなんやらがあってもそれはエゴでしかない。生きる意味は自身の生きる意味を見つけることだけれど、多分それはどこにも無い。


多分、人間という種の営みが理解出来ないんだと思う。

思春期特有の悩みとかではなくて、生物として、人間という種として、きっと根本のところからズレてしまって居るんだと思う。

このズレを矯正するだけの力がもう無い。

きっと素直過ぎた。人を信用し過ぎた。人間を美化し過ぎた。


意味が無いならそこに必要性は無い。

27まで生きて、と思っていたけれど、先送りしていただけで、

自分が思っているよりもずっと近くに選択肢はいつもあった。

これからを見ることに期待を持てない。

同じような結果が転がっているように思えてならない。


決して胸は張れないが悪くはなかった。

ただただ疲れた。

世間一般でいうところの幸せを感じてみたかった。

 どうも、最近女と全然上手くいってなくて、2日で1箱のパーラメントが1日2箱になった男、けんちです。もう俺、幸せになれる気がしないよ。殺してください。この世には不幸が多すぎる。結局、幸せになれないかつ、面白くない人生を送るくらいならば、この世のありとあらゆる不幸を全て俺にください。この世から不幸を無くしたい。


 そんなのは所詮、マザーテレサの形式的な言葉遊びに過ぎないと思っているそこのお前、センスがない。けんちくんはこれを結構マジで思う。所謂、イエスキリスト的な隣人愛という概念を顕在化させるとこういう話になるんだと思う。なんかこんなような話をしたら、女に「自分が幸せになるのを諦めないで」とか言われたけど、じゃあお前が幸せにしろよ。殺すぞ。と普通にイラついてしまった。自分が責任を負って履行する気がない奴にしか出せないライム。どうせお前は、そのパッとしない彼氏と付き合い続けて、井戸端会議で夫の愚痴を言うような、浅い人間になるんだろ。配偶者の愚痴を言うの、普通にダサいから辞めろよ。結局、自分のセンスがない事を周囲に恥ずかしげも無く露呈して、責任転嫁してるだけだろ。自分がもっといい男捕まえれば良かっただけの話で、そういう発想に至らず、自身に対しての内省がない時点で、やっぱりお前は頭が悪い。だから俺は女が嫌いなんだよ。でも女がとても好き。そういう浅い所とか意味不明なところも含めて俺は好きな女を愛したいんだけど、なかなかそういう情緒が女には伝わらなくて、本当に馬鹿馬鹿しくなる。俺もパッとしないけど、今の男より余程いいだろ。アホくさ。

 愛だの恋だの、そういう美化された一般論やフレームに当て込んで論じるから、本質からズレる訳で、そのズレに気づくことも無く、そうやって惨めに生きていけばいいんだよ。男はロマンチスト、女はリアリスト、なんて言葉があるけれども、俺からすれば真っ当な恋愛が出来ているだけ充分にロマンチストなのであって、自分自身に対してリアリズムを向けている人間は、真っ当な恋愛など出来るわけが無いんだよ。

 最近は変わりつつあるとはいえ、世間は結婚がある種のステータスであり、独身はヤバいみたいなバイアスで見てくるけれども、単に世の人間のレベルが低いだけでしかなくて、本質を見ようとせず、そういうバイアスでしか物事を判断出来ない連中がこの世を回しているから、この世はイカれちまってるんだと俺は思う。「狂ってるのは僕か?世間か?」と言ったジョーカーという作品はやはり天才的で、この世の本質を深淵から覗かせていると思う。ただ、そのイカれちまってる連中の言う、独身はヤバいも、割と合っていて、数十年生きて、人間と関わってきた癖して、誰の1人にも愛されないというのは、やはり悲しいことで、何らかの欠陥があると判断するのは合点が行く。


 結局、自身のエゴを出すことでメリットを享受した経験が無いから、エゴを出すことが怖くて仕方がないんだと思う。エゴを出さずに、虚ろな瞳で虚空を見つめている方が俺は幾分マシな存在になれるんだろうと思う。誰にエゴを出しても、享受されずに倦厭される状況を踏まえると、私自身のエゴは、酷く醜く歪んでいるのだと思う。もう、逃げ道なんかない。初めから無かった。この事実から目を背けて、本質を逃していたのは、前述の世の中の人間達と同様で、私自身も浅くて醜い人間の一員でしか無かった。


 先日、メンタルヘルス関連の研修会で、社内の産業医が来て、講師をしてくれたけれども、けんちくんには、単なる茶番にしか見えなかった。印象的だったのが「人は他人に存在を肯定されることによって自我を形作り、健やかな人生を送ることが出来ます。なので、出来るだけ周りの人を大切にしましょう!」という言葉で。あぁ、コイツは何も分かってないなと思ってしまった。あまりにも綺麗事過ぎる。コイツも、医師という名目に酔っているだけで、自分本位の優しさを凶器に変えて、周りを刺し殺してしまうタイプなのか、と。仮に、コイツが言っていることがファクトならば、周囲に存在を肯定されない人間は、社会生活から隔絶され、歪んだ自我で決して健やかな人生など送れないということにならないだろうか?思わず笑みがこぼれてしまった。あぁ、やっぱりそうだったのか、と。ぼんやりと掴んでいた社会や人間という実態が明確化にされてしまった。だから俺は幸せになれないんだ、と。そしてそれはこの自我を携えている限り、永遠に変わらないんだと。ある意味で救いになった。




 私は自分自身が幸せになることを諦めているんだろうか。というよりも、私は目の前の揺るぎない現実と向き合い過ぎてしまったのだと思う。現実主義的であることは、幸福から遠ざかる最大の行為だと思う。私はいつか、"生きててよかった"と心から思えるだろうか?やはり希望なんてものは持つべきものじゃない。現実主義的な癖して希望を直ぐ抱いてしまう自分自身が憎くて仕方がない。





ファッションガチ恋(23)


皆さんこんにちは。

どうもけんちくんだよ。

 

 唐突ですが、どこ(職場・学校…)に行ってもバカにされる、距離を置かれる、変わった存在として嫌厭される、享受される、そういう人間はこれ読んでくれる人間の中にいるだろうか?もしも仮にいたら、それはけんちくんと同じカルマを背負う人間なので、一刻も早い解脱をお勧めする。この世の侮蔑という洗礼をその身に受ける前に、桜のように美しく散った方が、概念として、人間として尊厳を保つことが出来る。

 

 以前、ブログで、けんちくんのポリシーが「逆張り」だという話をしたように思うけれど、やっぱりあれはやめといた方がいい。所詮、人間という種は猜疑心を胸に他者を凌辱することでしか生を実感出来ない生き物なのだと思う。生の美学だとか、生きることは素晴らしいみたいな論を唱えられるのは、最終的に腐ったみかんのダンボールから離脱出来た優秀な個体、もしくは、人間に対する解像度が著しく低い個体だけなので、所謂、平均的な個体或いは私のような平均以下の個体にとってそのような論は、単なる欺瞞と驕りでしかないように思う。人間というのはクソだ。クソな面を含めて人間は美しいだとか、あまり調子に乗るな。普通に殺す。

 だからこそ、「逆張り」という生き方は、自分自身を救う命綱にもなり得るが、一方で自身の首を絞め続ける縄にもなり得る。いっそ、人間一個体としての尊厳を捨てて、猜疑心を胸に他者を凌辱することでしか生を実感出来ない生き物として、周囲に同調し、個体としての実感を殺して生を享受する方が合理的なのかもしれない。だれしもが、この人間の本質に気づいているからこそ、誰でもないなにかを目指したり、自分には才能があるとか盲目的に信じ込んで、リアリズムから逃れようとしているんだろうと思う。

 仕事と同じで、うまくいかない奴は何をやってもうまくいかない。人生がうまくいかない奴は環境を変えようが、何をしようがうまくいかない。そもそもの個体として欠陥があるんだろうと思う。

 

 けんちくんは、面と向かって侮辱してくる人間は大好きだ。目の前に出るリスクを負っている点を最高に称えたい。けんちくんになにをされるか分からないのに、わざわざコストをかけて出てくるんだから、そんなの愛じゃないか。ただし、目の前に出てこない人間は本当に心の底から軽蔑している。ノーリスクで、自分と自分の周りで気持ち良くなろうなんて、あまりにも身勝手だ。「逆張り」には常に、侮辱というフィルターを通して見えないところで誰かを気持ちよくさせる効能がある。勿論、逆張り側は全く気持ち良くなんかないが。

 けんちくんという個体は、いい意味でも悪い意味でも目立ってしまう。なぜかはわからないのだけれど。散々学生時代から、周りを気持ちよくさせてきたわけだけれども、正直、社会人になってまで、その効能が続くとは思ってなかった。単に学生という点で、周囲のレベルが低いからこそ生じ得ることだと理解していたけれども、実際はそんなことは無くて、世の所謂「大人」と言われる人間もその程度で、学生とさほど変わらない、どころかむしろ学生よりもレベルが低い。けんちくんは、所詮、誰かにとっての侮蔑の対象であり、称賛を得るために活用される道具でしかないという事を改めて理解してしまった。優しい俺が全部悪いよな。また、これが明確な他人である「誰か」ではない点が痛いところで、身近な人間の方が、けんちくんに対しての解像度が高いからこそ、より気持ち良くなれるという点でけんちくんの価値は高いため、明確な一個体が対象だったりする。

 けんちくんという個体は、猜疑心を胸に他者を凌辱することでしか生を実感出来ない生き物達の為のオアシスであって、そういった醜い個体達を快楽に陥れる為にこの世に創造されたのだろうと思う。改めて自身の責務の大きさに辟易してしまう。


 常に何かに追っていないと自我が保てない。ここでの何か、は対人ではなくて、数字であったり、思考であったり、概念であったり。その時々で様々ではあるけれど、これもある種の執着ではあるが、取り組みやかけたコストはある程度の割合で返ってくるからこそ、期待を持てて、やっていて苦痛どころか、快楽なんだろうと思う。対人は期待値が分からない。どこまで期待して、どこまで返ってくるのか。わかっているようでわかっていないんだと思う。そういう意味で、社交的根暗という言葉は得てして私の本質を突いていて、感涙に咽ぶ。


 結局、人間というのは、優しくしてやればやるほど付け上がるような生き物だからこそ、やはり優しさなんていう概念は偽善的なんだと思う。優しくしてきた私がバカだった。

 

 やはり私には人間社会の仕組みや人間という生き物の枠組みがわからない。

 本当に何ひとつわかっていない。

 もう動けない。

 

 

 

 

ファッションガチ恋(23)