宮原誠一の神社見聞牒(023)
平成29年(2017年)09月22日

No.23 老松神社シリーズ ⑤ 西鯵坂の雷神社


1.西鯵坂の老松神社
福岡県久留米市北端と接する小郡市南端の西鯵坂(にしあじさか)に老松神社がある。北筑後の中心付近にあり、標高14m~22mの微高地であり、往古は、筑後川一帯が有明海の時、島であった。宝満川の近くにあり、船で有明海から入ってきて筑紫野に向かう時、良き海上の目印の島であったろうと思われる。江戸時代までは、この一帯は湿地帯であり、明治になり干拓化が進み、きれいな田園地帯となっている。地名も鯵坂であり、海の魚が見られたのであろう。老松神社の拝殿の破風には貝殻が埋め込んである。合祀される前には近くに事代主を祀る魚見神社があった。


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「寛文十年(1670)久留米藩社方開基」には老松大明神とあり、末社もなく、祭神は菅原道実(真)とある。しかし、昭和20年の福岡県神社誌には「菅原眷属神(すがわらけんぞくしん)」とあり、祭神の格が落ちている。


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福岡県神社誌には、大正11年9月、字上十楽と字下十楽に天満神社があり、また、字八龍には祭神・八龍雷神を祀る八雷神社があり、字一丁田には祭神・事代主を祀る魚見神社があったが、天満神社は老松神社本殿に合祀、八雷神社は雷神社として、魚見神社と共に境内に移転(合祀)されて、現在の老松神社となっている。神殿を拝謁していないので想像となるが、恐らく、老松神社の古宮の祭神と天満神(眷属神)が本殿に祀られているのであろう。


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境内に入ると、第一鳥居は「老松神社」、第二鳥居は「雷神社」とあり、拝殿の破風は「梅鉢紋」と海の貝殻が埋め込まれている。
神殿の社紋は「隅切り角に剣梅鉢」であり、一般の老松神社とは異なっている。

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「隅切り角」紋は大山祗・大国主が使用される紋である。
梅鉢紋は天満神社の社紋であり、菅原道真公の祖は、豊玉彦と瀛津世襲足姫(おきつよそたらし)で、その子は武夷鳥(たけひなどり)であり、菅家の祖となっている。よって、菅家は大幡主・豊玉彦系と素戔嗚尊の流れを持つことになる。


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神殿の造りは、千木は外削ぎ、鰹木三本で、祭神は男神を祀る。
また、神殿の基壇は玉石組でトルコ系匈奴物部(大山祗)の関与がみられる。神殿は白木でなく色彩が施され、他の神社と異色である。彫刻は「瓜、カブ等」の野菜が刻まれ、瓜の彫刻は朝倉市杷木神社にもみられ、トルコ系匈奴の関与が見られる。


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2.「唐花」紋
老松神社を見て廻ると、良く狛犬の台座に牡丹の彫刻を見かける。
牡丹を「唐風」花模様に図案化した家紋が「唐花」紋とされている。
唐花紋で多いのが「四弁唐花」紋、四瓜に囲んだ「木瓜」紋、「五弁唐花」を用いた織田紋がある。「四弁唐花」紋によく似た紋に門光(花菱)紋があり、これは開化天皇の神紋とされる。
牡丹(唐花紋)が打ってあることは、この神社が大陸の影響を受けているとみられる。

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3.雷神社と豊玉彦
福岡県神社誌には、大正11年9月、字八龍に祭神・八龍雷神を祀る八雷神社があったのを、八雷神社(雷神社)として本社・老松神社に移転(合祀)したとある。祠の後壁には「雷神社」と刻んであり、木彫のご神体「豊玉彦」が鎮座されている。


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豊玉彦を祭る神社は色々な名前の神社を持っておられる。
八大龍王神社を略して、八龍神社とも言う。村名でも、字名でも、よく「八龍」が出てくる。
神社名でも「八大神社」「龍神社」の社号をみかける。さらに「十王」も見かける。これは龍王が訛って「十王」ともいう。「八大神社」「龍神社」「十王神社」「八大龍神社」「八龍神社」はすべて豊玉彦を祭神とする神社である。

さらに、豊玉彦は別名「雷神」でもあり、雷神社がある。有名な雷神社は糸島背振の雷山の雷(いかづち)神社がある。かって、下宮には羽白熊鷲(はしろくまわし)、中宮には大国主、上宮には豊玉彦が祀られていた。
雷山は別名を曽増岐山(そそぎやま)と言われ、佐賀背振東部から朝倉にかけては一時、羽白熊鷲の領域であった。佐賀背振山麓は素戔嗚尊系の領域であり、長髄彦の乱後、阿蘇族(熊襲)の領域になり、建南方の乱後、ヤマトタケルの熊襲・川上猛討伐後は匈奴熊襲の羽白熊鷲の領域となっている。後に仲哀神功軍(阿蘇・素戔嗚系)が先祖の土地・佐賀背振山麓を奪還するために、羽白熊鷲の討伐軍を起こし北筑後の北端に進軍することになる。

背振の雷山から南東を見渡すと筑後川が流れ、さらに南に水縄(みのう)連山があり、その竹野地区には天穂日(豊玉彦・井樋権現)祀る井樋神社が麓に下宮として鎮座する。さらに、その中腹に中宮の祠があり、頂上付近の白建山には上宮の祠があり、井樋権現(豊玉彦)を祀っている。この上宮の白建山には古代祭祀の跡があり、調査が未発掘のままになっている。
よって、豊玉彦は「背振の雷山」と「水縄山の白建山」の両方から筑紫・筑後平野を見渡されている。あたかも、筑紫・筑後平野は自分の領域かのように。


4.西鯵坂の老松神社の古宮
これまでに西鯵坂の老松神社の特徴をみてきた。

  往古は有明海の入り江の島であった。
  大正11年天満神社が合祀され、祭神は菅原眷属神となっている。
  境外に雷神社(豊玉彦)があった。
  神殿には「隅切り角」紋が使用され、大山祗・大国主の関与が見られる。
  神殿の基壇は玉石組でトルコ系匈奴物部の関与がみられる。
  神殿の彫刻は「瓜、カブ等」の野菜が刻まれ、西アジア匈奴の影響がある。
  狛犬の台座に牡丹の彫刻を見かけ、大陸系の影響をうけている。
  事代主を祀る魚見神社が境内合祀され、事代主は大国主と義理の親子関係である。


以上、老松神社の現祭神は菅原眷属神となっているが、神社は大陸の影響を受けており、老松神社の古宮の祭神は「大国主」と推察する。決め手は神殿のご神体を拝謁することに尽きそうです。