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心のお話と雑記ブログ 

心理のお話などを独断と偏見も交えてお話します!!

★アニメの「ちはやふる」を観ました。

最初は少女漫画風の絵柄が好みではないことと「競技かるた」が題材ということで興味がわかなかったのですが、見始めたら「面白い!」

はじめ好みではなかった絵柄も少ししたらギャグ風の絵(とくに主人公のデフォルメした顔)がよくて全体に違和感は皆無になりました。
またストーリーについても少年漫画にありがちな主人公だけヒーローで最後はおいしいとこ持っていくみたいな感じではなく、仲間になった人物それぞれが個性的に描かれてあって負の部分も、また良い部分もがまるでよく編まれた絹織物の絵柄のように描かれてあって薄っぺらさがない!


少女漫画を購入するのにはさすがに勇気がいるのでまだ見ていませんが、ひとつの表現物として原作にも興味が湧きました。
そして、作者にも興味が湧いたのでネット検索したところ「末次由紀」という名前は出てくるけれど写真はない。
そういえば映画も公開されるぐらいなのに、と思って検索していると「トレース疑惑」なる文字が!
しかも回収・絶版騒ぎにもなっていたとか……。うすーい記憶にそんなこともあったかと。

検証サイトなるものも見ましたが、たしかに参考もしくはトレースのようですね。
そういえばオリンピックエンブレム問題もありましたが、オリジナルとコピーの問題がたびたび起こるようです。

僕自身も創作についてはオリジナルであることを根底にし、かつ追求していますが、ファインアート、工芸、それにデザインは共通項もありますが違うと考えています。
より高度に求められる→中程度という順です。
漫画がどの位置に属するのかは微妙な気がしますが、僕の感覚では工芸とデザインの中間くらいのイメージです。これはちょうど右へいくほどより商業的というのと一致します。
という前提ですが、すべからくクリエイター(創造者)についていえば生涯で一作でもオリジナルといえる作品が生み出せたら「大成功」だと思います。
もちろんこの世のすべてのものは情報も含めて過去が影響しているもの。誰かしら、何かしらの影響下にあるものです。そこに「自分」が加味されてあたかも最初からそういうものとして自然とこの世に存在しているといえるぐらい変質できたものが「オリジナル」だと考えています。

「ちはやふる」を見ると、過去の問題など吹き飛んでいると思います。

ちなみに陶芸の世界でも「贋作事件」を起こした陶芸家がいるんですね。

「加藤唐九郎」

永仁の壺事件といって、まあご本人はただ写し物を作っただけの感覚だったようですが、当時この人は思想上の理由からか作品にサインを入れていなかったことで、これを悪用した美術商が「本物」として売ったようなんですね。それでマスコミも大騒ぎして相当叩かれたようです。
しかし、いま加藤唐九郎を語るときにこんなことはただの付け足しのおまけみたいなものです。
理由は簡単で、「紫匂」と名付けた紫色の志野茶碗や織部異形皿などオリジナリティの高い作品を残しているからなんですね。今では天才的陶芸家の代名詞みたいになっています。(もちろん異論反論ある方もいるかと思いますが)

たしかにトレースなどはやらないほうがいいでしょう。(パロディやオマージュならもちろんOK!)
ただ末次さんも軽い気持ちで真似してやろうなどという感覚もなく行ってしまったように推測ですが感じます。無名時代は練習のつもりでトレースなどもしていたでしょうから。
なぜそう考えるかというと漫画は「コマ割り」があるからです。
厳密にいえば、この世のいまの漫画は「コマ割り」をしている以上、すべて最初のコマワリ漫画のコピーともいえます。
古い時代の漫画は、日本なら「鳥獣人物戯画」のように巻物か北斎漫画のように一枚絵の形式ですし、西洋でも風刺漫画は一枚絵の形式です。
まあ、これは極論ですが。
元ネタの漫画も雑誌などの写真をすくなくとも模写・参考にしているようですし。

「ちはやふる」ぐらいのものが作れるんですから、「もうそんなことは許してあげてよ」というのが僕の正直な感想です。
まあ裁判官のような人は「許せない」のかもしれませんが。

しかし絶版騒ぎにまでなったのにその後にこれだけのものが構築できるというのはすごい精神力と能力です。末次由紀さんには、これからも頑張ってほしいですね!!
舛添要一都知事の会見を見ました。

ほとんどすべてといっていい人たちがあの会見を不愉快に感じ、かつ失敗した会見だと感じたようです。

僕も同様に感じました。

しかし、舛添さんご本人にはその理由がわからないのではないかとも感じました。
あの会見までは舛添さんは政治学者として、あるいはテレビタレントとして、政治家として活躍されていることからある程度高度に人間関係について理解しているのではないかと推測していましたが、そうではないと思いました。

「なにが他人を不愉快にさせるか」
「なにが信頼関係を損なうか」

そういったことについて無頓着に感じます。

あの会見の対応はもしかしたら弁護士などのアドヴァイスがあったのかもしれません。ほかの事案(舛添さん関連以外)での会見でも、弁護士の手法は専門分野である法を中心とした対応に終始しがちだからです。
「違法じゃないんだからいいだろう」
という主張がその根幹です。

今回の舛添さんの会見も時間かせぎや最終的には合法かどうかの議論にもちこもうとしたのかもしれません。
それ自体、じつは議論のすり替えで問題の本質(政治家としてズルをしていないか)とは乖離しています。合法でも政治家としてズルをしていたのならば問題だからです。とくに税金がらみの話は税を徴収する側なのだから自分自身がどうなのか問われるのは当然で、合法であればよいというわけにはいきません。なぜならばいまの政治資金規正法がザル法であるように、法を作るのは政治家だから政治家側に都合のよいものになりやすい。だから、政治家についてはより厳しい目が向けられて当然なのです。一般起業家などとは訳がちがいます。
ですから本来ならば議論の中心は「合法違法」ではなく、「政治家としての姿勢」のはずで、舛添さんもその点について反省すべきは反省し、さらに将来に向けて具体的な改善策を提示していれば合法であるかぎりここまで反感をかう可能性は低かったように感じます。

そのことが前提ですが、じつはコミュニケーションの手法自体に間違いがあったようにも感じました。

それは「機械的な対応」です。

ひたすら「厳正な第三者の眼で」というような言葉を繰り返すだけでした。

それを聞きつづけた人はその場の記者もテレビコメンテーターも、あるいは視聴者も、不愉快に感じたようです。

「逃げている」

と感じた人も多いでしょう。
でも、それだけではなくてじつはこの対応は、

「あなたをきちんと人間として認めません」

というメッセージにもなってしまっているんですね。

反論なら反論で、きちんと言ったほうがまだましです。それならまだ議論になる=議論の相手として成立しますが、機械的な対応は「相手を無視している」のと同じだからです。

形だけは質問に答えますが、中身については何も言いません。

形だけはあなたと関わっていますが、あなたと本当には関わるつもりはありません。

形だけは人間関係があるように振る舞いますが、あなたを心のある人間として接するつもりはありません。

というようなメッセージになってしまうのです。

だからそういう対応をされた記者の人たちは半ギレ状態になり、彼らの後ろにいる都民や国民は反感を感じてしまうのです。

これって、勉強ばかりをしてきた人がけっこうよくやるんですね。ほとんど無意識に。

相手の感情よりも、自分の理論を優先させる。

そして、これってカウンセリングでも起こり得るものなんですね。


「おうむ返し」

という技法がカウンセリングの基本技術である傾聴技術にありますが、これをとにかく機械的に繰り返す手法をとる人がいます。

もちろんこの技法は比較的リスクが少なくてとても重要なものです。

しかし、この技法はクライアントの言葉をそのまま返すというシンプルな技法であるだけに使い方を間違えたり、相手かまわず使用すると逆に信頼関係を破壊します。

機械的に「おうむ返し」をされた人は自分が馬鹿にされたように感じます。

じつはほんとうには自分の話を聞いていないのではないかと感じます。

また傾聴トレーニングを一度でも受けたことのある人ならばカウンセリングで「ああ、『おうむ返し』を使っているな」とすぐに気づきます。
気づかれても、心でカウンセリングをしていれば問題はありません。すぐに「技術だけではない」「機械的に聞いているだけではない」と感じられるからです。

「機械的」はダメです。

でも、舛添さんはいちおう他の場面では心理テクニックを使って会見をしていました。

それは、「記者さんそれぞれの名前を呼ぶ」です。
舛添さんは記者からの質問があるとかならず相手の名前を呼んでいました。

なぜそうするかといえば、名前を呼ぶことで会社(メディア、社会)対自分ではなく、1対1、個対個の人間関係に持ち込むことができるからです。
そうなれば、大抵の人はそんなにひどい質問や非人間的な質問はできないものだからです。

そういう知識はあり実践もしていながら、肝心要の大事な場面で女性記者さんも言っていましたが「とんちんかん」なことをしてしまう。

自分が追いつめられる恐怖があったのかもしれませんが、人間とはいかに弱く脆いものか、とつくづく思います。

人のふり見てわがふりなおせ、ではありませんが、知識や技術に走り、一番大事な信頼関係(心)を損なうことはしないよう自戒せねばと思いました。

ということで、今回の舛添さんの会見はわかりやすい反面教師の教材でした。

どんなジャンル、どんな物事でも、経験者かそうでないかということには雲泥の差があると思います。
それは真理だと思いますが、一側面だと感じることもあります。
それは時折「経験者じゃなきゃ相談には乗れないし、乗るべきじゃない」という言葉を聞くからです。
もしもそれが絶対的な真理ならば、心理カウンセラーは存在してはいけないことになります。

なぜならば、一人の人間が経験できるものの数には限りがあるからです。

これまでに多くの職業を体験したという人はいますが、100を超える人はまれでしょう。

ということは残りの圧倒的多数の職業についてのカウンセリングはできないことになります。

また、人間関係の問題でカウンセリングルームを訪れる人は多いでしょう。
しかし、人間関係はそれこそ千差万別です。
そこに関わる人の性格はそれぞれ違いますし、そもそもクライアントの問題の傾向や性格も千差万別です。

すべてを経験しなくてはカウンセリングができないのならば、この世界ではカウンセリングは不可能ということになります。

もちろん答えは、経験則がすべてではないということです。

むしろ逆効果なケースさえあります。

たとえばですが、子育ての問題を抱えるクライアントが来た時に、自分が我慢に我慢を重ねて苦労した子育てをしてきたカウンセラーが「そんなことくらいでくよくよしなさんな。がんばりなさい」というような励ましをいきなりしてしまうとしたら、それはかなりの確率で失敗するでしょう。
そのカウンセラーの場合は苦労にも耐えられてきたし、他人の励ましがプラスになったかもしれません。
しかし、僕の印象では子育ての悩みでカウンセリングを受けるような人は、そもそも自分の限界ギリギリ、いやむしろそれを超えてしまっているようなケースが多いように感じます。
真面目すぎるくらい真面目だからこそ育児書などの情報に振り回されたり、考え過ぎて自分を追い込んでいたりします。
もう充分頑張っている人に、さらにガンバレと言うのは、溺れている人の頭にバケツの水を次から次にかけるようなものです。

本人を苦しめるだけ

カウンセリング、ことに来談者中心療法の勉強をしたことのある人はまあ、このような対応はしないと思います。

まずは話をじっくり聴く。

傾聴です。

とにかく話を聞いてほしいという人も、世の中には多いものです。

それはプライベートでも感じます。
というのはカウンセラーの癖がついてしまっているのかプライベートでも気づくと長時間話し続けられる方がいたりします。
もちろんカウンセリングではないので適当なところで話を打ち切らせていただきますが。
そのままだと、それこそ1,2時間経過していたなんて当たり前になってしまうからです。境界線をひかないと、身がもちません。
そこらへんのコントロールは我ながらまだまだだなと痛感します。

話がそれました。


とくに育児に悩まれている方は、孤独感を抱えていることも多いように感じます。

僕からしたら子供がいて、旦那さんがいて、サポートしてくれる親御さんがいるのなら形は孤独には見えません。
でも、一般的に仕事を持っている人も専業主婦の方もなぜか「とり残されている感」を強く感じているようです。
ここいら辺はあまり詳しく語りだすと守秘義務に関わってきますし、いったんは心理のお話はやめようかと思った「クライアントの方が不安にならないように」というのも僕にとっては大事な事なので踏み込まないでおきます。

ただ、まずはお話をじっくり聴くということは大事なことです。

そう、この一点については、それぞれの問題(たとえば子育ての経験)についての「経験則」は必ずしも必要ではないのです。
実務的なことは周囲の人(親や友人など)や役所などの公的機関、病院、本などいくらでも情報が得られます。
むしろ多すぎて混乱する人がいるくらいです。
大事なことは、目の前のその人自身がどんなことに悩み、考え、感じているかです。
そして、それはその人自身のことなので、他のケースと代替はできません。
仮にそれが一卵性双生児のように似ていたとしても。

なので、僕の考える来談者中心療法では仮に自分がその分野に知識や経験があったとしてもまずは「その人の話」を聴きます。
代替のきかないその人だけの話を。

経験則が活きるのは、その後ですし、むしろクライアント自身で答えをだすことが多いのが来談者中心療法の特色のひとつのようにも感じますので、僕は自分の個人的な経験則は活きないくらいがちょうどいいと感じています。