★心理学で心を意識領域と無意識領域に分けるのは有名です。
普段、多くの人は意識領域を感じるのは当然ですが、一部の人を除いて無意識領域を感じることは難しいように思います。
しかし、この無意識領域は普段の我々の行動に大きく影響を与えています。
たとえばですが、突然キレる人がいます。
理由は、たいてい些細な出来事です。
周囲の人は当然理解不能になり、その人物への信頼感はなくなります。
それはそうですよね!
よくわからない些細な理由でキレる人間なんて、危険で恐怖の対象でしかありません。
カルシウム不足だとか寝不足だとかの原因もあり得ますが、日常的に突然キレる人というのは僕の過去に関わった人のなかにもいます。
彼らは栄養満点で睡眠も十分とっているようでしたが、やはりキレました。
そして、その理由は大抵が客観的にみれば理不尽なものでした。
昔の塾時代の同僚講師にAという国語の講師がいましたが、彼のキレた理由は本当に些細なものでした。
それは別の新任の同僚講師が生徒に「受験では文学史はほとんどでないから」と言ったことが原因でした。
Aはキレまくり、周囲の講師にその同僚講師の悪口を数年にわたって言い続けました。
Aは「自分は文学史を一生懸命に教えてきたのに」と理由を説明していましたが、そこまで執念深く怒り続ける理由は周囲の誰にもわかりませんでした。
そのうちにAは周囲から孤立し、嫌われていきました。(この件だけが理由ではありませんが)
今ならAの心に起こったことが推測はできます。
おそらくAは「自分が否定された」と感じたのでしょう。
新任同僚講師はAとはあまり接点はなく、自分の授業内で受験対策の話を自分なりにしただけでした。当然、Aが力を入れて文学史を教えていたことなど知りません。実際に、埼玉県では一部の私立高校を除いて出題量は出てもせいぜい一問程度、配点も低く、そもそも出題しない高校も多いのです。新任講師のいうことにも一理はあるのです。(もっとも僕は時間をかけずに、でも一点でも多くとれるように一通りは教えて、生徒が受ける高校に応じて必要ならば別プリントなどで対応していましたが)
僕自身は新任講師に怒りはまったく感じませんでした。
受験対策という点からいえば点のとりやすい所に集中するというのも一つの方法だと思うからです。(もっとも全く触れないのは講師技術として問題かと思いますが、新任講師は文学史の授業中に受験の話をしただけなのです)
でも、Aは常軌を逸した怒り、というよりも憎しみを露わにしていました。
自分が否定され続けた人間は、ちょっとしたことでも「自分が否定された」と感じたら怒りの導火線に火がつくようになっています。
その表明された怒りも、心の奥底、無意識の部分に沈んだ怒りや憎しみがプラスアルファで加算されるので周囲の人間には理解不能なぐらいの巨大な怒りや憎しみになるのです。
Aはまた(真の自尊心でない)プライドの高い人間でした。
それは、自分で自分を必要以上に高評価しなければふつうに日常生活さえおくれないぐらい(本当の意味での)自信がない人間だということです。
僕はAの生育歴は知りませんが、当時からとても親から愛情豊かに育てられたとは思えませんでした。
なぜならば多くの子供と接してきて、親から愛情豊かに育てられた子は一様に精神的に安定していて穏やかだからです。
それとは真逆。
実際、Aは他の講師ともトラブルを起こしていました。
きっとAにはなぜ自分が怒っているのか、憎しみの感情を持っているのか理解できていなかったでしょう。
それは「無意識」の領域にある記憶や感情が関係しているからなのです。
そして、その無意識の記憶や感情にアプローチする心理療法がフロイトで有名な精神分析であり、そのアンチテーゼとして生まれ、しかしやはり強い影響を受けた来談者中心療法です。もちろん意識の領域へのアプローチ要素もあるのですが。
しかし、最近は意識領域へのアプローチのほうが勢力を増してきているようです。
理由は、無意識の領域への介入は時間も労力も、能力も必要だからというのが一番のように感じます。
実際、大変です。
では、ということで「考え」の部分にアプローチするのを主とする療法として「認知療法」が、さらに「行動」にアプローチする「行動療法」が生まれ、今では相互補完するように多くが「認知行動療法」として科学的エビデンスも含めて評価されています。実際、僕は来談者中心療法に信頼を置いていますし、主要技法としていますが、「認知行動療法」も必要に応じて用います。
症状や状況によっては即効性があったり、一定の効果があります。
しかし、幼少期からの影響、無意識領域に原因・問題があるようなケースではやはり無意識領域への介入をしなければ行動改善にまでは辿りつけないような気がします。
もっともAのような人物が心理療法を真摯に受ける可能性は低いかもしれません。
なぜならば「すべて問題は他人のせい」という考えでいる以上、心理療法を受ける動機が生まれずらいからです。
心理療法(カウンセリング)を受ける人はすべからく「真摯な人」なのです。
☀「整理整頓」は大事!と学校でも家でも子供の頃よくいわれました。
じつは「心の世界」も同じだと思います。
一般的には「心の問題」というとすぐに「精神病」とか「病」「病気」などと考えるようですが、たとえばカウンセリングを受ける人はかならずしも「何らかの心の病」を持っているとは限りません。というよりも僕のように個人でカウンセリングルームを開いている場合、心の問題を抱えていることは当然ですが、「病気」というレベルではないことがほとんどのように思います。(もちろん人によると思いますが)
実際、投薬治療が必要な場合など医療行為が必要と思われる場合は僕はすぐに医療機関の受診をすすめます。薬に否定的なカウンセラーもいますが、僕はクライアントにとって最善な道を選択するのが心理カウンセラーだと考えているので、必要性を感じればおすすめします。薬が効かない、意味のない症状、心の病気がある、また効きづらい人がいるのはわかっていますが、1%でも薬を短期間服用するだけで改善できるのならば、そちらをおすすめします。まず第一に保険がきくので出費が抑えられる。次に薬の飲みすぎで朦朧状態になっている人のカウンセリングは効果がうすいのでできませんが(やってやれなくはないのですが、ほんとうに本来の効果がありません!)、必要ならば投薬と並行して、あるいは投薬治療後にカウンセリングはできるからです。数か月の弱めの薬で改善できるのならば何年もカウンセリングを受けるよりそのほうがよいでしょう。
この部分も僕は自分なりの基準で整理しています。(もちろん僕は医者じゃないので医療行為はできませんから医療と自分にできる心理療法とをきっちり分けています)医療が必要な人に医療を受けさせないのは害悪そのものです。
また、僕はカウンセリング、心理療法が効果があるのはクライアントの心にこの「整理整頓」ができるからだと考えています。
たとえば幼少期などに虐待を受けたり、また学校などでいじめを受けた子供は無意識レベルで自分を否定します。
「自分が悪いからだ」
「自分が弱いからだ」
「自分の性格が悪いからだ」
など。
でも、実際は虐待者が虐待をする理由は、虐待者の心にあります。
いじめをするのは、加害者側の心に問題があるからです。
彼ら自身が虐待やいじめを受けた過去を持っていることも多いのです。
(だから自分以外の他人を加害してよい理由にはなりませんが!)
カウンセリングや心理療法の目的のひとつはこのギャップを整理整頓することにあると思います。
この部分の整理ができると、自分を肯定できるようになります。
虐待を受けた人を「サバイバー」と呼んだりします。
これは「過酷な状況をなんとか生き延びた人たち」ということです。
誰でも過酷な自然環境で生き延びている人たちの姿を知れば感心したり、感動したりすると思います。冒険家や探検家を尊敬するのも同じ理由でしょう。
虐待やいじめを受けた人たちは何年、あるいは何十年と精神的に過酷な状況を生き延びた人たちなのです。
そのことを自分で受け入れると、その人は自分で自分を尊敬できます。
「自己肯定感が高まる」というような言い方をよくするのですが、自己肯定感が高まると「戦える」ようになります。前向きにもなれます。
固まってしまった人生が、動き出すようになるのです!
なので僕はカウンセリングをするときにその人に必要な「心の整理整頓」はどんな形なのかを意識しています。
ただクライアントの話を聞いているだけではないのです。よくカウンセリング、ことに来談者中心療法は「ただ話を聞いているだけ」と揶揄されるのですが、実際はカウンセラーはクライアントに最善なものはなにか常に意識しているものだと思います。
と心の整理整頓の話になってしまったのですが、なぜ「整理整頓」の話になったかというと、このブログとほかにフェイスブックもやっているのですがいま一度「整理」が必要と考えたからなのです。
ここでは「心のお話」を中心にして、創作活動に関してはフェイスブック中心にしようかと考えているのです。
というのもごちゃごちゃになりそうと気づきだしたからです(遅い!)。
美術展などへの出品のご連絡は連動させようと思いますが、陶芸の制作過程などはフェイスブックにと考えています!
今のところ普通に閲覧できると思いますし、友達申請も基本的にはお断りすることはありません。お断りする場合は、宣伝など何らかの営業目的が主である場合、迷惑行為をされた場合など限定的です。じつは過去に友達申請を軽い気持ちで受けたのですが、直後から宣伝メールが届くようになり困ったことがあります。調べたらその人のアカウントには基本情報もほかの人とのやりとりもありませんでした。業者かなにかなのでしょうか。なので情報がきちんとある「普通にやりとりしている人」ならばお断りはしません。
以前に創作中心のお話にすると書いた記憶があるのですが、今一度「整理」させていただこうと思います。錯綜して申し訳ありません!
じつは「心の世界」も同じだと思います。
一般的には「心の問題」というとすぐに「精神病」とか「病」「病気」などと考えるようですが、たとえばカウンセリングを受ける人はかならずしも「何らかの心の病」を持っているとは限りません。というよりも僕のように個人でカウンセリングルームを開いている場合、心の問題を抱えていることは当然ですが、「病気」というレベルではないことがほとんどのように思います。(もちろん人によると思いますが)
実際、投薬治療が必要な場合など医療行為が必要と思われる場合は僕はすぐに医療機関の受診をすすめます。薬に否定的なカウンセラーもいますが、僕はクライアントにとって最善な道を選択するのが心理カウンセラーだと考えているので、必要性を感じればおすすめします。薬が効かない、意味のない症状、心の病気がある、また効きづらい人がいるのはわかっていますが、1%でも薬を短期間服用するだけで改善できるのならば、そちらをおすすめします。まず第一に保険がきくので出費が抑えられる。次に薬の飲みすぎで朦朧状態になっている人のカウンセリングは効果がうすいのでできませんが(やってやれなくはないのですが、ほんとうに本来の効果がありません!)、必要ならば投薬と並行して、あるいは投薬治療後にカウンセリングはできるからです。数か月の弱めの薬で改善できるのならば何年もカウンセリングを受けるよりそのほうがよいでしょう。
この部分も僕は自分なりの基準で整理しています。(もちろん僕は医者じゃないので医療行為はできませんから医療と自分にできる心理療法とをきっちり分けています)医療が必要な人に医療を受けさせないのは害悪そのものです。
また、僕はカウンセリング、心理療法が効果があるのはクライアントの心にこの「整理整頓」ができるからだと考えています。
たとえば幼少期などに虐待を受けたり、また学校などでいじめを受けた子供は無意識レベルで自分を否定します。
「自分が悪いからだ」
「自分が弱いからだ」
「自分の性格が悪いからだ」
など。
でも、実際は虐待者が虐待をする理由は、虐待者の心にあります。
いじめをするのは、加害者側の心に問題があるからです。
彼ら自身が虐待やいじめを受けた過去を持っていることも多いのです。
(だから自分以外の他人を加害してよい理由にはなりませんが!)
カウンセリングや心理療法の目的のひとつはこのギャップを整理整頓することにあると思います。
この部分の整理ができると、自分を肯定できるようになります。
虐待を受けた人を「サバイバー」と呼んだりします。
これは「過酷な状況をなんとか生き延びた人たち」ということです。
誰でも過酷な自然環境で生き延びている人たちの姿を知れば感心したり、感動したりすると思います。冒険家や探検家を尊敬するのも同じ理由でしょう。
虐待やいじめを受けた人たちは何年、あるいは何十年と精神的に過酷な状況を生き延びた人たちなのです。
そのことを自分で受け入れると、その人は自分で自分を尊敬できます。
「自己肯定感が高まる」というような言い方をよくするのですが、自己肯定感が高まると「戦える」ようになります。前向きにもなれます。
固まってしまった人生が、動き出すようになるのです!
なので僕はカウンセリングをするときにその人に必要な「心の整理整頓」はどんな形なのかを意識しています。
ただクライアントの話を聞いているだけではないのです。よくカウンセリング、ことに来談者中心療法は「ただ話を聞いているだけ」と揶揄されるのですが、実際はカウンセラーはクライアントに最善なものはなにか常に意識しているものだと思います。
と心の整理整頓の話になってしまったのですが、なぜ「整理整頓」の話になったかというと、このブログとほかにフェイスブックもやっているのですがいま一度「整理」が必要と考えたからなのです。
ここでは「心のお話」を中心にして、創作活動に関してはフェイスブック中心にしようかと考えているのです。
というのもごちゃごちゃになりそうと気づきだしたからです(遅い!)。
美術展などへの出品のご連絡は連動させようと思いますが、陶芸の制作過程などはフェイスブックにと考えています!
今のところ普通に閲覧できると思いますし、友達申請も基本的にはお断りすることはありません。お断りする場合は、宣伝など何らかの営業目的が主である場合、迷惑行為をされた場合など限定的です。じつは過去に友達申請を軽い気持ちで受けたのですが、直後から宣伝メールが届くようになり困ったことがあります。調べたらその人のアカウントには基本情報もほかの人とのやりとりもありませんでした。業者かなにかなのでしょうか。なので情報がきちんとある「普通にやりとりしている人」ならばお断りはしません。
以前に創作中心のお話にすると書いた記憶があるのですが、今一度「整理」させていただこうと思います。錯綜して申し訳ありません!
★ブラック企業が時々話題になります。
大抵は否定的に語られるのですが、時にブラック企業を擁護する声もあるようです。
その時にいわれるのが「雇用を創出している」とか、「安くてそこそこ良い商品だ」ということが多い論調でしょうか。
「人権」という観点で話をすれば、ブラック企業は確実にアウト(違法か合法かだけでなく)だと思うので、あえて「人権」の観点をぬきにして素人なりに考えてみました。
★結論からいえば、「この社会にブラック企業はいらないよね」となりました!
理由は簡単です。
社会に害悪をふりまくからです。
まず第一に、ブラック企業が問題になる場合、過剰労働や適正な給与未払いなどの労働問題から過剰なストレスにより病気、ことにうつ病などになってしまい最悪は自殺へと至ってしまうケースが考えられます。
これは著しい人権問題だと思いますが、それは置いておきます。
いたって功利的な観点からのお話をすれば、これは日本社会において極めて有用かつ重要な「人材」という社会資源を損壊していることになります。
適正な労働環境であればそれぞれの能力を発揮できて、その人自身が新たなビジネスを提案したり、自分自身で始めたりして雇用創出から納税、商品やサービスなどの経済的付加価値の付与その他まで数十年にわたって社会に利益を還元できたかもしれないのに、それを0どころか大きなマイナスにするのですから。
なぜマイナスなのか。
なぜならばうつ病などで完全に働けなくなった場合、生活保護を受ければ税金が、失業保険ならば保険料が使われます。そもそも病院に行けば医療費がかかり、国民健康保険料が使われます。親兄弟の支援を受けるとしても、そのお金は本来その親兄弟が自分の必要に応じて支出できたもの。その分の消費が減じている可能性があるのです。
(もちろん、うつ病など問題を抱えた人が社会サービス各種を受けるのは当然です!そのことは一切、否定しません!!)
つまりブラック企業は社員を使い捨てにすることにより国や地方の財政に悪影響を与えていると考えられるのです。
他人のお金を犠牲にして、無理な形で自己の利益を図っているといえます。
経済的な側面に限っても、これでは雇用創出といっても、そのブラック企業が長く営業を続ければ続けるほど、それ以上のマイナスを社会に与え続けることになるでしょう。
次に、「安くてそこそこ良い商品」という点については、安さの理由が前述した人材の損壊が前提ならば、それは安いとはいえません。
なぜならばそれは将来の税金や各種保険料の値上げとなって自分たちにふりかかってくるからです。
目先の今だけ安いように感じるのならば、意味はありません。
そして、「そこそこ」というのがミソです。
自分の経験上からも、本当に良いもの(サービスも含めて)をつくりだす人や組織は高い精神性が備わっていると思います。
傲慢な人はたいてい独りよがりなだけ、卑屈な人は八方美人でありきたりなもの、ズルい人はパクリもの、といったようにそれぞれに応じた「モノ」になると思います。
では、ブラック企業はというと、「儲けやすいもの」でしょうか。
ビジネスならば当然といえば当然なのですが、まっとうな企業ならばアイデアや適正なコスト削減などで対処するでしょう。でも、ブラック企業は社員、はては客までを犠牲にして利益を出そうとします。
ブラック企業の経営者がときに社員を、ときに客を馬鹿にしたような発言をするのは意外と自分の本音、本質を吐露しているのかもしれません。
こういったブラック企業の経営者のなかにはサイコパスがけっこうな数いるともいわれています。
サイコパスというのは昔は精神病質者(反社会性)という訳語があてられていたようですが、いまは反社会性パーソナリティ障害というカテゴリーに入るでしょうか。
ごく簡単にいえば自己の利益のためならば他人のことをゴミ屑や石ころのように扱える人格の持ち主です。
一方で、自分を美化、神格化することなどにも長けていて他人をコントロールするのが異常に上手な人たちです。
サイコパスが犯罪者になった場合、カルト教団の教祖になったり、反社会的組織で一目置かれた存在になったりします。
人間性に乏しい一方で、自分を美化したり、他者をさまざまな方法で精神的コントロールしたりするのがうまいので犯罪組織のようにそもそもの目的が非人間的な組織のほうが能力を発揮しやすいのでしょう。
そういう意味では、ブラック企業がブラックである、あるいはそれ以外の手法を選択できないのは当然なのかもしれません。
経営者自身の心が反映してしまうからです。
当然の帰結、といえるかもしれません。
それでなくとも少子化で子供が少ないというのに若者から片っ端に使い捨てにする。
単純に「人権」抜きに功利的に考えても、この社会にブラック企業はいらない、というよりも存在してもらっては困る、と僕は考えるのです。
大抵は否定的に語られるのですが、時にブラック企業を擁護する声もあるようです。
その時にいわれるのが「雇用を創出している」とか、「安くてそこそこ良い商品だ」ということが多い論調でしょうか。
「人権」という観点で話をすれば、ブラック企業は確実にアウト(違法か合法かだけでなく)だと思うので、あえて「人権」の観点をぬきにして素人なりに考えてみました。
★結論からいえば、「この社会にブラック企業はいらないよね」となりました!
理由は簡単です。
社会に害悪をふりまくからです。
まず第一に、ブラック企業が問題になる場合、過剰労働や適正な給与未払いなどの労働問題から過剰なストレスにより病気、ことにうつ病などになってしまい最悪は自殺へと至ってしまうケースが考えられます。
これは著しい人権問題だと思いますが、それは置いておきます。
いたって功利的な観点からのお話をすれば、これは日本社会において極めて有用かつ重要な「人材」という社会資源を損壊していることになります。
適正な労働環境であればそれぞれの能力を発揮できて、その人自身が新たなビジネスを提案したり、自分自身で始めたりして雇用創出から納税、商品やサービスなどの経済的付加価値の付与その他まで数十年にわたって社会に利益を還元できたかもしれないのに、それを0どころか大きなマイナスにするのですから。
なぜマイナスなのか。
なぜならばうつ病などで完全に働けなくなった場合、生活保護を受ければ税金が、失業保険ならば保険料が使われます。そもそも病院に行けば医療費がかかり、国民健康保険料が使われます。親兄弟の支援を受けるとしても、そのお金は本来その親兄弟が自分の必要に応じて支出できたもの。その分の消費が減じている可能性があるのです。
(もちろん、うつ病など問題を抱えた人が社会サービス各種を受けるのは当然です!そのことは一切、否定しません!!)
つまりブラック企業は社員を使い捨てにすることにより国や地方の財政に悪影響を与えていると考えられるのです。
他人のお金を犠牲にして、無理な形で自己の利益を図っているといえます。
経済的な側面に限っても、これでは雇用創出といっても、そのブラック企業が長く営業を続ければ続けるほど、それ以上のマイナスを社会に与え続けることになるでしょう。
次に、「安くてそこそこ良い商品」という点については、安さの理由が前述した人材の損壊が前提ならば、それは安いとはいえません。
なぜならばそれは将来の税金や各種保険料の値上げとなって自分たちにふりかかってくるからです。
目先の今だけ安いように感じるのならば、意味はありません。
そして、「そこそこ」というのがミソです。
自分の経験上からも、本当に良いもの(サービスも含めて)をつくりだす人や組織は高い精神性が備わっていると思います。
傲慢な人はたいてい独りよがりなだけ、卑屈な人は八方美人でありきたりなもの、ズルい人はパクリもの、といったようにそれぞれに応じた「モノ」になると思います。
では、ブラック企業はというと、「儲けやすいもの」でしょうか。
ビジネスならば当然といえば当然なのですが、まっとうな企業ならばアイデアや適正なコスト削減などで対処するでしょう。でも、ブラック企業は社員、はては客までを犠牲にして利益を出そうとします。
ブラック企業の経営者がときに社員を、ときに客を馬鹿にしたような発言をするのは意外と自分の本音、本質を吐露しているのかもしれません。
こういったブラック企業の経営者のなかにはサイコパスがけっこうな数いるともいわれています。
サイコパスというのは昔は精神病質者(反社会性)という訳語があてられていたようですが、いまは反社会性パーソナリティ障害というカテゴリーに入るでしょうか。
ごく簡単にいえば自己の利益のためならば他人のことをゴミ屑や石ころのように扱える人格の持ち主です。
一方で、自分を美化、神格化することなどにも長けていて他人をコントロールするのが異常に上手な人たちです。
サイコパスが犯罪者になった場合、カルト教団の教祖になったり、反社会的組織で一目置かれた存在になったりします。
人間性に乏しい一方で、自分を美化したり、他者をさまざまな方法で精神的コントロールしたりするのがうまいので犯罪組織のようにそもそもの目的が非人間的な組織のほうが能力を発揮しやすいのでしょう。
そういう意味では、ブラック企業がブラックである、あるいはそれ以外の手法を選択できないのは当然なのかもしれません。
経営者自身の心が反映してしまうからです。
当然の帰結、といえるかもしれません。
それでなくとも少子化で子供が少ないというのに若者から片っ端に使い捨てにする。
単純に「人権」抜きに功利的に考えても、この社会にブラック企業はいらない、というよりも存在してもらっては困る、と僕は考えるのです。