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心のお話と雑記ブログ 

心理のお話などを独断と偏見も交えてお話します!!

「ひきこもり」という言葉は比較的新しい言葉のせいか多くの曖昧さがあるように思います。

 
「仕事や学校に行かず、かつ家族以外の人との交流をほとんどせずに、6か月以上続けて自宅にひきこもっている状態」と厚生労働省のホームページにはあります。
定義にすでに「ひきこもって」とそのまんまの言葉が使われています。
「白という色の定義は、赤でも青でも黄色でもなく、黒でもない『白』という色」という説明に近いものを感じますが、これは他に適切な表現方法がないために仕方がないのでしょう。
でも、大事なのは6か月以上という期間かもしれません。
ひとつの基準にはなります。
また「ひきこもり」は「単一の疾患や障害の概念ではなく、様々な要因が背景になって生じます」と記述されていますが、これも重要でしょう。
 
なぜならばカウンセラーの中には勝手に病名をつけて勝手に疾患・障害を作ってしまう人もいるからです。
そもそもカウンセラーは医者ではないので病名診断はできません。診断は医療行為なのでそんなことをしたら医師法違反になり、違法です。
ましてや勝手に病気を作るなど許されません。
 
僕も精神疾患については勉強しましたし、これからもしますが、それはあくまで心理カウンセリング、心理療法に向かないクライアント、すぐにでも心療内科や精神科を受診したほうがいいクライアントと出会った場合などに速やかに善処するためです。
たとえば統合失調症の可能性がある場合などは相当な慎重さが必要に思います。カウンセリングはもちろん、箱庭療法でさえ危険なケースが指摘されていますし、様々な考え方はあるかと思いますが、現状では個人的にもできるだけ速やかに専門医師の診断を受けて薬物療法なりを受けた方がよいと考えています。
カウンセリングをするにしても、医師の同意がなければ危険なケースのひとつと思います。
 
「〇〇的ひきこもり」
 
ひきこもっていないのに、このように病名をつけるケースがありますが、これは論理矛盾です。
なぜならば厚生労働省の文章にもあるように「ひきこもり」とは疾患や障害の概念ではないからです。
 
例えるならば、「咳」のようなものでしょうか。
 
「咳病」「〇〇咳病」などという病名はおそらくないでしょう。(専門外ですが)
 
「咳病」という「言葉」はあるようですが、「せきのでる病気」とあります。病名ではありません。(ちなみに手元の広辞苑には「咳病」自体が掲載されていませんでした)
 
「咳」はあくまで症状なわけです。
「咳」の原因は、インフルエンザウイルスなどが原因の風邪、肺炎、喘息、じん肺や肺ガン、アレルギー症状、埃や煙を吸い込んだ場合などなどほんとうにさまざまです。
「百日咳」という病名がありますが、これは百日咳菌という細菌による感染症のようです。
 
病名である以上、原因の病気などがあって、その症状として咳の症状はあるわけです。
 
しかし、「潜在的ひきこもり」とか「仮面ひきこもり」という言葉は「ひきこもっていない」のに「ひきこもり」にしてしまう定義で、これは論理矛盾です。
「咳」という症状がないのに、風邪っぽい症状があるから「潜在的咳病」とか「社会的咳病」などというのはありえません。
症状がないなら、「咳」はないのです。
社会生活を行っていて他人と関わっている(ひきこもっていない)のに、人と関わるのが苦手だったり、他人に恐怖や不安を強く感じるのならばそれは例えば「対人恐怖」であったり「社交(社会)不安」でしょう。
原因はさまざまで、過去の人間関係の失敗によるトラウマだったり、生来の性格だったり、対人関係に関する考え方の偏りであったり、いろいろです。
これに「潜在的ひきこもり」「社会的ひきこもり」と名付けても混乱をもたらすだけです。
最終的にはクライアントの方が損害を被るでしょう。
 
「〇〇ひきこもり」という病名は混乱をもたらすだけで意味がありません。
 
まずは「ひきこもり」という言葉=病名としないことが重要に思います。
前回は「友人」の悩みとして困った友人と適切な距離がとれない、離れられないパタ―ンを挙げました。
今回は真逆で、片っ端から友人関係を切ってしまう悩みです。
 
前回のお話からすると、自分にとって嫌な必要のない友人を切ってしまうのなら問題ないじゃないかと思う方もいるでしょう。
でも、悩んでいる方は「切りたくないのに、切ってしまう」ことに悩んでいます。
 
原因は、その方のお話をじっくりきかなければわかりません。
それが前提ですが、よくあるものとしては過去の友人関係、人間関係でのトラウマが原因であることがあります。
 
「過去にひどく傷ついた。もうこれ以上、傷つきたくない」
 
その思いが強いために、実際には傷ついていなくとも、傷つきそうというだけで回避しようとして友人関係を終わらせてしまうような行動をとる。
 
この場合は、考え方を変えるだけではなかなか解決しないことも多いように感じます。
 
いったん過去のトラウマ体験を処理しなくてはならない。
 
心理の世界ではよく心を「水の入ったコップ」に例えます。
 
水はストレスや悲しみ、苦しさ、つらさといったものです。
水がいっぱいに入ったコップ、それも表面張力でなんとか保っている状態のコップだと、たった一滴の水で予想以上の水があふれだしてしまいます。
 
単純な解決策ですが、コップの水を減らせばよいのです。
 
そうすればスプーン一杯、お猪口一杯程度の水を入れられてもどうということはなくなります。
 
前回の場合は考え方を変えることによって悩みを改善する認知的アプローチ(具体的手法については述べていませんが)でした。
これはコップに水が入っていないのに入っていると思い込んでいる場合やコップの水があふれることを必要以上に恐れている場合などには有効です。
でも、実際にあふれんばかりの水が入ったコップなら、やはり水を減らす方法が必要に思います。
 
なぜこんなお話をしたかというと、前々回にご紹介した河合隼雄氏の著作「カウンセリングの実際問題」を再読してクライアントの方の悩みというものはじつに個性があり、カテゴライズすることは可能なもののそのクライアントの方の真の悩みが何なのかは全身全霊全人格で関わっていく形でしかわからないことがあると再確認した気持ちになったからです。
中にはあふれんばかりのコップの水を「そのままにしてほしい」と思うクライアントの方もいるかもしれない。
心理カウンセラーならばクライアントの方の悩みや悲しみを取り除いてあげたいという純粋な気持ちがあって当然だと思いますが、しかし、もしかしたらクライアントの方によってはじつはその悩みを持ち続けていたい、悲しみを抱き続けていたいと本心で思っている人もいるかもしれない。
そして、そこにはきちんとしたその人なりの理由がある。
そこに手をつけるべきか、どうか。
 
教科書に答えはありません。
 
あったとしても、それはただの一例にすぎません。
 
ぎりぎりの選択。
 
学校の試験のように「答え」「模範解答」のペーパーなどない世界。
 
心理カウンセリングの難しさがほんとうによくあらわされた書物だと思います。
 
そして、心理カウンセラーの究極の選択についての悩みやカウンセリングの難しさがちりばめられた書物をかかれたのはカウンセリングの天才といわれた人物なのです。
 
そこに書かれた言葉がリアルなのは、数十年における失敗や悩み、後悔などがあるからではないかと勝手に推察しています。
「悩み」にはほんとうに様々な種類があります。
 
その悩みのなかに「友人」に関する悩みがあります。
 
当然、その内容は千差万別ですし、その方特有のものがあります。
 
ただ多くの場合、「それって友人じゃないよね」という人物を友人にしていたり、友人であると「思い込もう」としていたりします。
 
人間関係はすべからくトラブルがつきものです。
家族でさえ、というよりも悩みの根源には家族関係が潜んでいたりもしますからトラブルのスタンダードといってもよいのかもしれません。
 
しかし、健康的でよい方向の友人(人間)関係ならちょっとしたトラブルはいくらでも改善できます。
問題は、そもそも改善など無理な場合です。
 
解決策は簡単です。
 
そもそもその友人とはほんとうに関わらないといけないのか、というよりも友人なのかという点をきちんと整理することです。
 
「故意に自分を傷つける人間は、友人ではありません」
 
この簡単単純で、当たり前のことが、悩んでいる人には欠落していることがあります。
 
自分を故意に、悪意をもって傷つけてくる人間をさえ友人と思い込もうとする根底にはやはりさまざまな心性があるでしょう。
 
孤独
 
漫画やドラマの見すぎで理想的な友人関係を想像して現実に持ち込んでいる
 
じつは利害関係での結びつきでしかないのを誤魔化している
 
など。
 
ー孤独ー
 
人間は元来、孤独な生き物で、100%自分を理解できる他者などいない。孤独であるのが、当たり前。友人が一人もいない。それでも自分が幸せを感じられるならOK!
 
ー漫画やドラマの見すぎー
 
漫画やドラマはしょせん作り物であり、まがい物。嘘。どんなにすばらしい作品でも自分が生きているほんとうの現実世界に持ち込んではいけない。そもそも現実にはそんな理想的な友人関係がまったくないか、もしくは奇跡的なぐらい極めて稀なものだからこそ漫画やドラマになるのだ。
 
ー利害関係ー
 
そもそも真の友人関係とは利害関係を超えたもの。利害関係に入った以上、以前は友人だったかもしれないが、今はもう友人ではない。ビジネスパートナーや自分に利益を与えるか損害をもたらすかの様子見をするだけの相手。
 
たぶんこんなことを言うと、社会的に反発をくらいやすいかもしれません(;´Д`)
 
いまの社会的価値観は、友人がたくさんいる人が幸せ、漫画やドラマのような理想を実現した人が成功者、見たくないものは自分を誤魔化すことであっても自分で目隠しをするように見なかったことにしたもん勝ち、のように思います。
 
たしかにこれらはあながち間違いばかりともいいきれません。
短期的には、利益をもたらすこともあるでしょう。
 
友人がいないというよりは、多くいると思いたい。それが自信につながる。
理想を目指した方が気分がいい。
誤魔化していたほうが楽。
 
でも、中長期的には自分を苦しめるでしょう。
 
それらの考え方には根底に「嘘」や「誤魔化し」があるからです。
そのことに自分が後に苦しめられてしまうのです。
いずれ真実が目の前に現れるのが常ですから。
 
だから、孤独もOK!,他人がつくったニセ物の価値観に縛られない、自分を誤魔化さないという選択をしてしまったほうが楽に生きられます。
 
自分らしく生きられますから。
 
そうすると最低限の社会生活を営んでいれば、不思議なことに自分に合った相手が自然と現れます。
 
大人になると「真の友人はつくれない」といいます。
 
本当でしょうか?
 
「つくれない」ほんとうの理由は、じつは自分が相手を「孤独の代償」や「理想化の相手」や「利害関係」で見ているからなのかもしれません。
 
「ほんとうの自分でいる」
 
きっと大人になって年齢を重ねてからは心のパワーがいることです。
「嘘」も飲み込んだほうが当面は楽ができることを何十年と学習してきているのですから。
でも、悩みのなかには「社会的には正しいとされている考え」を捨てて、「自分らしい考え」に切り替えたほうが楽に生きられることもあるように思います。
 
やるべきことはただひとつ。
 
考え方を変えるだけです。