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心のお話と雑記ブログ 

心理のお話などを独断と偏見も交えてお話します!!

☀ 簡単にみえるものほど実は難しいものだということはあらゆる分野でいわれていることかと思います。

 

例えば「料理」で一番難しいものは何か?

 

素材選択、包丁使い、火入れ、ソースやタレなど、料理にはさまざまな要素があります。

 

しかし、僕はもっとも難しいのは塩加減だと思います。

 

というのは塩加減というのはほんとうに個人差が激しく、育った場所や酒や煙草をたしなんでいるかなどで大きく変わるからです。

そして、この塩加減が決まらないだけでその他すべてが台無しになるからです。

 

意外に思われる方がいるかもしれませんが、料理人の中には煙草をかなり吸う人がいます。

昔に知り合った料理人はかなりのヘビースモーカーでしたが、やはり匂いに鈍感で、塩加減が強めでした。

これが常連客ならば、塩加減を強くしないと満足しないということになります。

居酒屋の料理は脂っこくて味が濃いとよくいわれますが、これが理由でしょう。そうでなくともとくにフランス料理店でワインを飲むことが前提の店の塩加減はほんとうに強いと感じることがあります。

でも、これは理由があってワインと合わせるには塩加減が強い方がワインがすすむ=飲料の売り上げが伸びるからです。

もちろん伝統的なフランス料理を信奉している料理人なので塩が強いということもあるかもしれません。

しかし、これが日本のランチ営業主体の店ならばアルコールを飲むケースの方が少ないことが多いでしょうから、塩が強いと食べ進められません。優秀なシェフならば店の業態、立地はもとよりランチかディナーかでも、あるいは客によって塩加減を変えているかもしれません。

このように塩加減は料理の基本ですが、食べ手にぴったり合わせるのは至難の業のように思います。

 

ボクシングでもまず習うのはジャブでしょう。

「左を制する者は世界を制す」というのは有名な言葉ですが、ジャブの重要度を端的にあらわした言葉ではないでしょうか。

空手でも蹴り技の中で真っ先に習うのは前蹴りが多いのではないでしょうか。(蹴り上げのことも多いかと思いますが、これはどちらかというと柔軟運動の要素が強いように思います。相手の顎を蹴り上げるなど、実戦でも使えるものではありますが)

しかし、格闘技の試合などでよく見るのは回し蹴りのほうでしょう。

これは試合ルールなどいくつか理由があるかと思いますが、一つには技の難易度があると思います。

実際、前蹴りは角度が悪いと足の指を痛めやすい、また下からすくいあげるような角度の前蹴りだと当たらないし、当たっても威力がないなど基本でありながら難しいのです。

また実際に当てる組み手をしている人は実感があるでしょうが構えた相手の肘が邪魔なうえに足先に当たって痛めそうでよほど鍛えこんでないと使えないのです。

 

基本でありながら、じつは奥が深くて、難しい

 

心理カウンセリングでは何が当てはまるでしょうか。

 

「共感」だと僕は思っています。

 

この「共感」(共感的理解)は来談者中心療法においてはカウンセラーが持つべき3つの治療的パーソナリティーのひとつです。

 

1、自己一致

 

2、無条件の肯定的配慮

 

3、共感的理解

 

用語的に一番なじみが薄いのは1、自己一致でしょうか。

 

これはカウンセラーは自分の内心(あるいは内心と外面)に矛盾があってはならないというものです。

 

カウンセラーでよくあるのは自分自身が親から虐待を受けていた過去があって、その心の問題をきちんとクリアしていない場合などに起こります。

親から何かにつけて否定されてきた人がカウンセラーになると、クライアント、もしくは(こちらのパターンのほうが多いと思いますが)クライアントの親を否定するアプローチをとりたがります。

僕が知っているカウンセラーは父親が若い愛人を作って自分と母親を捨てたという経歴の持ち主でしたが、見事クライアントの親を敵視し、クライアントに事あるごとに「親から離れなければならない。カウンセラーである自分が親になるんだ」などと言ってクライアントと親を対立させるようなアプローチをとっていました。

当然、トラブルが多く、かつ治療実績もひどいものでした。

 

この自己一致よりは理解しやすいのは2、無条件の肯定的配慮でしょうか。

これは「態度がよければ理解してやる」とか「自分の指示通りにするなら治療してやる」というような上から目線の条件付けをしないで、かつ基本的に肯定的にクライアントの方に関わるというものです。

そういう意味では先述のカウンセラーは「2、無条件の」という部分にも問題があることになります。

 

最後に残った「3、共感的理解」。

 

「共感」

 

この言葉は大抵の人が聞いたことがあるでしょうし、ご自分でも使っているでしょう。

たしかにこの「共感」は1,2の専門的なニュアンスに比べて一般的です。

でも、この「共感」。

極限までつきつめると、きわめて大変なことになります。

 

そもそも人間はどこまで他者に共感しうるのか?

 

自分も経験したことなら共感しやすいけれども、そうでなかったら?

 

いや、そもそも「経験」とはいってもその「経験」はその人だけのものでまったく同じではない。

 

例えば親から虐待された人に共感するためには自分も虐待された経験が必要だとするとそこには無理が生じます。

なぜならば虐待の内容は千差万別で、個人差が激しいものだからです。

暴力虐待ひとつとっても、素手で殴られたケースと包丁で刺されたケースでは受け取り方が違って当然です。

後者の方がより強く殺意を感じることが多いでしょう。

しかし、これも受け取り手の性格や虐待者との関係性でいくらでも変化します。

素手であっても殺意を強く感じるケースもあるのです。

 

自分が虐待を受けていたからといって、心理カウンセラーがクライアントの虐待と同一視するのは危険なことです。

 

むしろ自分の経験とクライアントの経験は本質的には別なものだというところから出発しないといけないと思います。

そうしないと最悪の場合、先述したカウンセラーのようにクライアントの親に復讐をしてしまうことになりかねないからです。

このカウンセラーのしていることは共感ではありません。

虐待を受けた自分に同情し、自分の親への怒りや憎しみをクライアントの親にすりかえて自己満足をしているだけなのです。

 

そう、この「同情」というのは厄介で、共感に一見似ているのだけれどこれはまったくの別物です。

 

「同情」というのは基本的に上から目線です。

「かわいそうねえ」

というニュアンス。

 

あるいは相手の気持ちを考えているようで、じつは自分自身を憐れんでいたりします。

カウンセラーはクライアントに同情して泣いてはいけないといわれているのはこの部分です。

 

いずれも考えているのは「自分のこと」なのです。

 

「共感」は違います。

 

相手を理解し、その思いや考えや気持ちやさまざまな心理的なものを受け入れようとするものだと思います。

 

しかし、自分と相手を同一視もしないのです。

 

絶妙なギリギリのバランスで成立するもの。

 

僕はそう捉えています。

 

そして、「共感」にもさまざまなレベルがあると思います。

 

最高レベルの共感ができた(であろう)時、クライアントの方の表情は一変します。

そして、そこが分岐点になるかのようにクライアントの方は改善していきます。

 

もっとも僕はこういったレベルの共感をコントロールはできません。

毎回コンスタントにできないものかとは思うのですが、できません。

 

なんとかクライアントの方をすこしでも理解しようとしたそのずっと先に不意にあらわれる。

 

そんな感覚です。

 

しかし、それでも犬や猫の共感能力にはかなわないと感じています。

 

人間のカウンセラーでは何も影響を与えられない自閉症の子や認知症の方に、犬や猫は簡単に心を開かせます。そして、そういった方は笑顔をみせる。セラピードッグやセラピーキャットです。もちろんイルカなども含まれるでしょう。

 

「自分は最高のカウンセラーだ」

 

ときにそう考えているんじゃないかと感じるカウンセラーの方がいます。

でも、そういう人ほど経験が浅くて(期間が長いという意味ではなく)、かつクライアントを傷つけていますし、治療実績も悪いものです。

 

僕はそんなことは考えられません。

なぜならば心理カウンセラーにとって最も基本であり、究極の奥義でもあると考える「共感」において絶対的にかなわないなと感じる存在があるからです。

 

もちろん自信がないカウンセラーというのも問題なので、バランスがとれた形での自信・自負はありますが。

☀ 一般論として「身近な人だからこそ、分かり合えるはずだ」とか「身近な問題だから簡単に解決できる」と考えがちなように思います。

 

しかし、心の問題は「身近だからこそ難しいことも多い」と感じています。

 

夫婦、親子、家族。

 

いったん関係がこじれると自分たちだけでは修復が難しいのがこれらの関係です。

 

その理由としては、一つにはあまりに近い関係なので「いちいち言ったり行動に移さなくても背中を見ればわかるだろう」というある種の甘えが生まれやすいということが挙げられるでしょう。

 

背中を見てもエスパーじゃなければ、心は透視できません。見えるのはあくまで背中です。

 

とくに離婚を何度も繰り返す人は、夫婦像にある種の幻想を抱いていて、できるはずもないこの種の特殊能力を相手に求めがちなように思います。

 

「こんなに愛しているし、大事に思っているのに何でわかってくれないんだ」

 

わかるわけがありません。

エスパーじゃないので!

 

でも、この種の人は本気でそう考えます。

そして、わかってくれないという思いが大きくなるとそれが怒りや憎しみへと変化します。

 

暴言、怒鳴るなどの威圧、そして暴力。

 

すぐにそれらの感情はそういった行動に移行します。

 

家庭内暴力、ドメスティックバイオレンス(DV)です。

彼ら自身は自分のことを妻や夫から理解されないかわいそうな人間だと思っていたりします。

しかし、暴言・威圧や暴力を受けたほうはそれらをする相手を当然のごとくかわいそうだなんて思いません。

心はただひたすら恐怖と屈辱ばかりになります。

そして、すぐにそれらは怒りや憎しみへと変わるでしょう。

 

こういう場合、専門的な第三者の介入がやはり有効です。

最終的には両者の自己イメージや相手に対するイメージにはかなりの乖離があります。

そもそも当事者だけではそのことにすら気づきません。

 

そして、この介入は早い段階であればあるほど効果を発揮しやすく、修復しやすいのです。

 

しかし、これが親子関係になるとよりその関係性が近いせいか困難さは増大します。

親は「子供は親のいうとおりにしていればいい」という思いが強く、そもそも第三者の介入を拒むことも多いものです。

 

いずれにせよ、早い段階の介入が良い結果につながりやすいものなのですが。

 

☀ 「来談者中心療法」は、基本的にクライアントの方のお話をとにかく聴くスタイルです。

 

そのためか「ただ話を聞くだけ?」とか「友達や家族に相談すればいいよね。タダだし」という批判的な反応に接することがあります。

 

もちろん来談者中心療法の療法者はただ話を聞いているだけではありません。

「聴く」と「聞く」の文字を使い分けていますが、傾聴を学ぶとこのようによく文字の違いで説明されます。が、原語は「アクティブリスニング(active listening)」です。hear(自然に聞く、耳に入る)というニュアンスではなく、listen(集中して聞く)という意味です。だから、「アクティブリスニング」=「傾聴」とは「積極的姿勢で集中して聞く」というのがより正確なように思います。

 

と、文字にすると簡単なのですが、これを実践するとなるととても難しいです。

なぜならば、人はそんなに普段、集中して他人の話を聞いてはいないからです。

なぜでしょうか?

 

一言でいえば、「そんなことをしたらものすごく疲れる」からです!

 

人間の脳は無意識に必要な情報だけを取り入れようとします。

だから、東京の都市部の喧騒、雑踏の中にいても電気店の音楽やアナウンスが鳴り響く店内にいても、苦痛には感じないのです。

 

無意識に必要ない音は聞いているようで、聞いていないのです!

 

この前、NHKでやっていましたがこれが発達障害の一部の人はできないために日常生活で苦痛を味わうことがあります。

 

来談者中心療法の心理カウンセリングではできるだけ100%、クライアントの方のお話を最大限の集中力でもって聴こうとします。

これはカウンセリング・心理のお話ではよくあるのですが、「何気ないお話が後々になってじつはその方の問題の核心につながっていた」なんてことが結構あるのです。

だから、全力で聴きます。

 

しかし、これはとても疲れます。

 

気を張っている時はいいのですが、カウンセリングが終わって気を抜いた瞬間、どっと疲れがでてつい寝てしまうことがあります。

僕は他の場面ではどんなに疲労していてもつい寝てしまうなんて経験はほぼありませんでした。

これは肉体的な疲労ではなく、精神的な疲労です。

 

それぐらい疲れます。

 

でも、プライベートの友人の相談でそこまで精神力をつかうことはまずありません。

 

もちろん深刻な相談は真剣に、きちんと向き合いますが、前提としてどういう人かほぼわかっていて、さらに心の力がある人だということがありますからそんなに緊張しなくてよいのです。

でも、クライアントは違います。

 

どんな問題を抱えているか、心の奥にどんなものが潜んでいるのかがまずなかなかわからない(カウンセリング終盤にようやくわかることもあります)ことも多く、ひとつ間違えたら最悪の事態にもなりうる緊張感があるのです。

さらに厄介なことには通常、その緊張感を表明するわけにはいきません。

緊張感が伝われば、クライアントの方が自然な形でお話くださることはないのですから。

基本的なことですが、こういった精神的な部分のコントロールも心理カウンセラーは当然のようにしています。

 

「友達」は、そういうことまで配慮してくれているでしょうか?

 

通常、しません。

 

だから、お悩みの一つに「友人に相談したけれどひどい言葉が返ってきただけだった」とか「上から目線で説教されただけだった」というものがあるのです。

来談者中心療法では基本的にクライアントの方を否定することはありません。問題があるのならば一緒に検討し、ごく自然な形で気づいてもらい改善していくスタイルなのです。ひたすらお話を3つの治療的パーソナリティーをもって全力で聴いているだけでご自分で問題に気づいて「これって駄目ですよね」とか「ここの部分は直さないといけないのかなあ」と呟かれて心の自己治癒力を発揮される方も多くいます。じつは、そこまでいくのが大変なのですが。

 

中には「他の人には話さないで」と言っていたのに他の友人に簡単に秘密を吹聴されたというケースも多くあります。

心理カウンセラーには守秘義務がありますし、これを遵守しないとカウンセリングが成立しないのできちんとしたカウンセラーならばかならず厳守します。(そうでない人物も知っていますが(;´Д`))

僕は本人特定情報、カウンセリングの内容も含めて家族にも話しません。このブログも個別具体的なカウンセリングの内容は含まず、一般的な内容です。

しかし、当然ながら「友達」には守秘義務はありません。

約束なんて、簡単に破られるかもしれないのです。

そして、それが現実になる。

 

何十年も心の奥底に抱えていたもの、それこそ気が狂わんばかりの悩みを意を決して打ち明けたら、

 

「ふーん、それで?」

とか、

「それってあなたも悪いんじゃない?」

とか、ニヤニヤ笑いながら言われたらどうでしょう?

 

確実に、傷つきます!

 

きちんとした心理カウンセラーならばそんな対応は絶対的にあり得ないですし、「カウンセラーやめろ」レベルの対応なのですが、ここまで酷くなくとも意外と友人関係ではこういうことってないでしょうか?

 

もちろん失恋の相談をしたら一緒に泣いてくれて救われたというお話もありますから、友達に相談することすべてが駄目というわけではありません。

もっとも心理カウンセラーは共感はいいけれど同情はしてはいけないので一緒に泣くのは原則ダメなのですが。

ただその人がよりよい状態になれればよいと僕は考えているので、ケースによっては僕はアリだと考えています。

 

でも、これは一種の博打です!

 

相手次第。

先述したようにとんでもない反応や言葉が返ってくることもあり得るのです。

 

この人なら大丈夫!と思って相談したらひどい対応でさらに傷ついた。

 

よくあることです。

 

もちろんカウンセラーの中にも「説教好き」な人もいるようなので、あくまで確率の問題かもしれませんが。

ただ来談者中心療法では説教はしませんし、アドバイスも必要最小限ですので、来談者中心療法の療法者に「説教好き」はいないはずです。

「話を聴くのが好き」な人が向いている療法ですから。

 

「友達」が駄目ならば、では親や兄弟姉妹など「家族」では?

 

一般的に、説教の確率はより高まるでしょう。

 

そう心理カウンセラーの立場とは、親や兄弟姉妹などの「家族」や親友など「友達」のいずれとも違う、またただの知人や他人とも違う、ある意味で特殊な立場なのです!