☀ 心理療法には、さまざまなものがあります。
全てはムリとして、自分が使う療法中心に挙げてみようと思います。
「来談者中心療法(クライアント中心療法)」
「認知行動療法」
「精神分析」
「論理療法」
「ゲシュタルト療法」
「催眠療法」
「森田療法」
「家族療法」
「遊戯療法」
「箱庭療法」
「芸術療法」
「サイコドラマ」
「音楽療法」
「ダンスセラピー」
「リアリティセラピー(現実療法)」
など。
などと付けたのは細分化していたり、まったく知らない療法は省いたためです。
例えば認知行動療法はその成立過程から「認知療法」と「行動療法」にわける人もいますし、さらにそれも第三世代の認知行動療法として「マインドフルネス」「ACT」「スキーマ療法」、境界性パーソナリティ障害の治療法である「弁証法的行動療法」などにも分けられます。
またトラウマの治療法としては「持続エクスポージャー法」や「EMDR」もあります。
また描画法も「バウムテスト」「HTP」「S=HTP」「スクリブル法(なぐり書き法)」「風景構成法」「円枠家族画法」「動的家族画法」などと分けられますが、やり方によって「コラージュ療法」のように芸術療法的、あるいは遊戯療法的にも用いることができますし、心理テストとして用いることもできます。
僕は描画法を比較的多用しますが、ときには描画という視覚的効果を利用してクライアントの方に「気づき」をそれとなくうながすことがあります。
ときにこれは会話だけでは生まれない良い意味での「衝撃度」をもたらしてセラピーが急速に進展することがあります。
もちろんこれはクライアントの方の状況に無理のないよう合わせるのですが。
僕のメイン技法は「来談者中心療法」です。
基本的にクライアントの方に無理がない技法だからということもありますが、クライアントの方の問題によっては精神分析的な要素が入ったり、ときには会話自体が認知療法的になったりします。
これに認知行動療法が加わりますが、たとえばパニック障害の方の場合はメイン技法とはいえ「来談者中心療法」は必要最小限で、「認知行動療法」ことに「エクスポージャー法(暴露療法)」がメインになります。
逆に僕の場合は、基本トラウマに関しては、「来談者中心療法」でクライアントの方にゆっくりと話していっていただきますが、強制はしません。
年齢、心的外傷を受けた時期、精神状態などから無理なケースもあるからです。
PTSDの治療法としては「持続エクスポージャー法」がありますが、その名の通り暴露的手法です。
外傷に関する写真などを見る現実エクスポージャーと外傷場面などを想像しながら話す想像エクスポージャーが特徴的で、僕にはほんとうに暴露的に感じます。
でも「来談者中心療法」であっても、最終的にはどこかでトラウマの問題は暴露的になるように感じます。
表に出しても大丈夫、無意識から意識下に出しても大丈夫。
それがトラウマを過去のものとして処理できたということだと思います。
ここに挙げてみたのは心理療法すべてではありません。
それでも、けっこうな数になります。(;^ω^)
それぞれ古くからある療法もあれば、新しい療法もあります。
流行みたいなものも他のジャンルと同様にあります。
EMDRはNHKの番組でもとりあげられていて僕も見ました。
15年ぐらい前には指を目で追う初期のころのEMDRを僕自身、受けたこともあります。
番組では赤い光の機械になっていました(;^ω^)。
それからしばらくして、副作用のことがだいぶ出てくるようになったようです。
でも、僕は心理療法には多かれ少なかれ副作用はつきものだと思っています。
(もちろんクライアントの方に負担のないほうがいいに決まってはいるのですが)
「来談者中心療法」は応用範囲は広いですが、それでも万能ではありません。
副作用はその名の通りクライアントの方を中心に考えられているので少ないようですが、現実問題として「ゆっくり進むので時間がかかる」=クライアントの方が効果がないと勘違いしてリタイア(中断)してしまう、大きな問題やトラウマに関してはそこに焦点が当たれば結局は暴露療法的に「つらいものに精神的にせよさらされる」というつらさは出てきてしまうのです。
どの心理療法がいいか?
どうしても自分の信じる療法、好きな療法を答えたくなります。でも、僕はこの質問には「これ」とは答えられません。
結局はその方にとって問題が改善されれば良い療法になりますし、そうでなければダメとなってしまいます。
論理療法は僕のカウンセリングにはその要素が少し入り込むことがあるぐらいですが、でもその手法で長年の悩みが解決した人を知っています。
他の療法でもその人は改善したかもしれませんが、大事なことはその人が良くなった、問題が改善したということです。
正直、僕はゲシュタルト療法が嫌いです。
言ってしまいました(;^ω^)。
でも、それはゲシュタルト療法そのものではなくて、創始者のフリッツ・パールズが嫌いだからです。
有名な件ですが、「来談者中心療法」のカール・ロジャーズ、「論理療法」のアルバート・エリス、「ゲシュタルト療法」のフリッツ・パールズの3人がグロリアという女性のセラピーをするということが行われたのですが、終了後の歓談の場であろうことかパールズはグロリアに掌をださせてそこに自分が吸った煙草の灰を落としたのです。
「人を、人としてみていない」
この一件を知ってから僕はフリッツ・パールズおよびゲシュタルト療法が嫌いになったのです。まあ、個人的なものです。(;^ω^)
僕は「偉そうな人間」「傲慢な人間」「権威」といったものにはたて突こうという子供っぽい感覚がずっと昔からあるんです。(トラウマ云々の勘繰りはしないでくださいね(笑)僕はいちおうセラピーを受けて過去のトラウマは0歳まで調べて処理してありますので)
でも、ゲシュタルト療法の効果は否定しません。
来談者中心療法に比べて強烈なイメージが強いですが、でも強烈さでいったらエクスポージャー法(ことに暴露反応妨害法、持続エクスポージャー法)のほうが強烈です。
実際、当人であるグロリアはその後もカール・ロジャーズとは手紙などの親交は結びましたが、なぜかゲシュタルト療法のワークを受けたりしているのです。
彼女にとってはある種、ゲシュタルト療法と相性がよかったのかもしれません。
「相性」
心理カウンセリング、心理療法ではよく使われる言葉ですが、カウンセラーとクライアントの人間的な「相性」はもちろんですが、心理療法とクライアントとの「相性」も重要です。
そういう意味からも、いろいろな心理療法があったほうがよいと思います。
「最新の心理療法」が出てきた当初は、「もうこれまでの古い、他の療法はいらない」なんていう「これまでのものは薙ぎ払え的」雰囲気になりがちに感じますが、時間が経過して副作用や効果がはっきりしてくるといつのまにか次の「最新の心理療法」にとってかわられていたりするように思います。
5年前、もっとも流行していたお笑い芸人の名前や顔を思いだせる人はどれぐらいいるのでしょうか?
なぜか僕は「ねずっち」を思い浮かべてしまいましたが、ネット検索すると「スギちゃん」のようです。
考えてみれば、どちらかというとネタも雰囲気も僕は「スギちゃん」のほうが好きでした(;^ω^)。
なぜ思いだせなかったんでしょうね(;^ω^)
こんな疑問は僕以外の人間にはまったく関心も興味もないのでしょうけれど。
☀ なにかを成し遂げたり、問題を解決するのに「ずっと右肩上がり」で順調に進む、ということはまずないと思います。
僕は塾講師や家庭教師の経験がありますが、これまで数百人単位の子供の学習状況をデータ含めて分析するとずっと順調に成績が上がり続けるということはまずありません。
それは偏差値70以上のトップレベルの高校に合格するような子も同様です。
しかし、一般的には「ずっと右肩上がりに進む」と誤解している方(親御さん)も多いようです。
必ずスランプの時期がありますし、成績がなぜか低下する時期もあります。
これらはいろいろな理由で起こります。
油断だったり、過度のストレスから意欲低下が起こっていたり、たまたまその時期に苦手な分野が続いたためだったり、あるいはよくわからないケースもあります。
原因がすぐにわかるならば、その対処をすればすぐに改善できるでしょう。
問題は、「よくわからない」場合です。
どんなに詳細に分析しても、本人と話しても、わからない。
でも、対処法はごく簡単です。
すくなくとも勉強のペースは落とさない。
つらくとも一定の勉強は続ける。
ようはスランプや成績の低下という結果(現実)から逃げないことです。
すると1~3か月後には急激に伸びることもあります。
これが不思議なもので、スランプが長いほど、落ち込みが大きいほど、それでも続けた後にはその後の伸びも大きかったりします。
そこまで極端でなくとも、改善過程というものは滑らかな直線ではなく、ジグザグに落ちたり上がったりを繰り返すのが通常なのです。
じつは心理カウンセリング・心理療法も同様の側面があります。
もちろん1~数回で終了するようなケースはクライアントの方自身が自覚はないかもしれませんが、1回のセッション中にも上下に変動はしているものです。
重大だったり、深刻だったりする問題であればあるほど、そのことを見つめれば嫌なことやその時の感情に直面しますし、強迫性障害、恐怖症、パニック障害などの不安障害などは認知行動療法のなかのエクスポージャー法(暴露療法や暴露反応妨害法)が行われることが多いと思いますがこれは自分がいちばん嫌なことにあえて身をさらしていくものです。
エクスポージャー法などはとくに初期はつらいでしょうし、またこの段階では効果もうすいことも多く(正しい方法であっても)、あきらめてしまいがちです。
しかし、それでも頑張って続けていると「きっかけ」のようなタイミングが訪れます。
それは意識できることもあれば、「あれっ?なぜか楽になってる。あまり気にならない」というような漠然としたものなど状況やクライアントの方によって違いはありますが、ポンッと急に上向きになるタイミングがあるのです。
また過去のつらい出来事や感情をみつめる場合は、急激に気分が落ち込むことも多いでしょう。
でも、ここを乗り越えるとやはり急に楽になるものでもあります。
一見悪いことのようなのですが、じつはそれは大きく改善するための予兆のようなものかもしれないのです。
これは「人生」そのものにも当てはまるのかもしれません。
大事なことは、「悪いこと」のようであっても、じつはそこには次の「良いこと」の種が潜んでいる、そんな風に考えることと僕は考えています。
もちろんつらさや苦しさは可能な限り少ないほうがよいとは思いますが。
僕は塾講師や家庭教師の経験がありますが、これまで数百人単位の子供の学習状況をデータ含めて分析するとずっと順調に成績が上がり続けるということはまずありません。
それは偏差値70以上のトップレベルの高校に合格するような子も同様です。
しかし、一般的には「ずっと右肩上がりに進む」と誤解している方(親御さん)も多いようです。
必ずスランプの時期がありますし、成績がなぜか低下する時期もあります。
これらはいろいろな理由で起こります。
油断だったり、過度のストレスから意欲低下が起こっていたり、たまたまその時期に苦手な分野が続いたためだったり、あるいはよくわからないケースもあります。
原因がすぐにわかるならば、その対処をすればすぐに改善できるでしょう。
問題は、「よくわからない」場合です。
どんなに詳細に分析しても、本人と話しても、わからない。
でも、対処法はごく簡単です。
すくなくとも勉強のペースは落とさない。
つらくとも一定の勉強は続ける。
ようはスランプや成績の低下という結果(現実)から逃げないことです。
すると1~3か月後には急激に伸びることもあります。
これが不思議なもので、スランプが長いほど、落ち込みが大きいほど、それでも続けた後にはその後の伸びも大きかったりします。
そこまで極端でなくとも、改善過程というものは滑らかな直線ではなく、ジグザグに落ちたり上がったりを繰り返すのが通常なのです。
じつは心理カウンセリング・心理療法も同様の側面があります。
もちろん1~数回で終了するようなケースはクライアントの方自身が自覚はないかもしれませんが、1回のセッション中にも上下に変動はしているものです。
重大だったり、深刻だったりする問題であればあるほど、そのことを見つめれば嫌なことやその時の感情に直面しますし、強迫性障害、恐怖症、パニック障害などの不安障害などは認知行動療法のなかのエクスポージャー法(暴露療法や暴露反応妨害法)が行われることが多いと思いますがこれは自分がいちばん嫌なことにあえて身をさらしていくものです。
エクスポージャー法などはとくに初期はつらいでしょうし、またこの段階では効果もうすいことも多く(正しい方法であっても)、あきらめてしまいがちです。
しかし、それでも頑張って続けていると「きっかけ」のようなタイミングが訪れます。
それは意識できることもあれば、「あれっ?なぜか楽になってる。あまり気にならない」というような漠然としたものなど状況やクライアントの方によって違いはありますが、ポンッと急に上向きになるタイミングがあるのです。
また過去のつらい出来事や感情をみつめる場合は、急激に気分が落ち込むことも多いでしょう。
でも、ここを乗り越えるとやはり急に楽になるものでもあります。
一見悪いことのようなのですが、じつはそれは大きく改善するための予兆のようなものかもしれないのです。
これは「人生」そのものにも当てはまるのかもしれません。
大事なことは、「悪いこと」のようであっても、じつはそこには次の「良いこと」の種が潜んでいる、そんな風に考えることと僕は考えています。
もちろんつらさや苦しさは可能な限り少ないほうがよいとは思いますが。
☀ 心理カウンセリング、心理療法で心の問題が解決するためにはいくつかの過程が必要です。
もちろんクライアントの方の問題はさまざまですし、当着地点をどこに設定するかでも違いはあります。
ただその過程のひとつに「許す」という感情の作業が必要なことは多いものです。
しかし、この「許す」相手について誤解があるようにも思います。
自分を傷つけた相手、虐待した相手、自分をだました相手、加害者側を「許す」。
「許さなくては治らない」
「許さなくては問題は解決しない」
このように思っていたり、あるいはカウンセラーの中にはこれらの言葉を脅し文句のようにつかう人もいます。
しかし、加害者を許さなくては治らないし、心の問題は解決しないのでしょうか。
そんなことはありません。
たしかに「加害者を許す」というのは、それができるならば素晴らしいことです。
なぜならばそれは「自分の中でなんらかの方向性を決めることができて前向きに次のステージに進もうと決めた」証拠になるからです。
しかし、それはあくまでひとつのルートにすぎません。
「加害者を絶対に許さない」
そのルートもあるのです。
性犯罪の被害者が「加害者を絶対に許さない」と決心して、そこに「許したいけれど、許せない」という矛盾状態=ダブルバインド状態がなければ「世の中の性犯罪被害者に寄り添おう、よりよい社会をめざそう」と社会運動を行うなどその人なりの次のステージに向かえるようなルートです。
その場合、その被害者は少なくともある人物を「許して」います。
その人物とは誰でしょうか。
「自分自身」です。
被害にあった人は、無意識レベルで自分を責めます。
自分が弱かったからだ
自分に落ち度があったからだ
もっとうまくできたはずなのに
というように自分を責めます。
実際は、そんなことはありません。
実際は、ただただ加害者が悪辣だった、狡猾だった、加害者こそが精神的に弱かったのです。
もっとうめくできたのなら、すでにそうしていたはずです。
できなかったのです。
虐待を受けた人は、虐待を受けたのは「自分のせいだ」と無意識に感じ、考えます。
そして、何年、何十年と自分で自分を責めます。
「自分が許せない」のです。
もしも親が暴力をふるったならば、それは「親が精神的に未熟でコミュニケーション能力が低かったから」もしくは「感情のコントロールができない精神的未熟さがあったから」です。
親が子供に愛情を向けられないのは「子供が生意気だったり、わがままだったり、性格が悪かったから」などではありません。
親に「子供を愛する能力」がないからです。
もともと持っていても、ストレスなどから精神を病んでしまってその能力を発揮できなくなっていたり、親自身がその保護者から愛情を与えられなかったためにきちんと子供と関われない。あるいは先天的な問題を抱えていてできないケースもあるでしょう。
でも、幼い子供にそんなことはわかりません。
「自分のせい」
だと感じてしまいます。
それが大人になっても続くと、自己評価が極端に低くなってしまいます。
「親からさえ愛されなかった自分は価値がないダメな人間だ」などと無意識に考えてしまっていたりします。
そこは変えなくては楽になれません。
「自分を許す」のです。
たしかに自分は親から虐待されたけれど、それは親に問題があったからだ。自分は悪くない。
たしかに親は自分を愛してくれなかったけれど、それは親に子供を愛する能力が欠如していたからだ。自分は悪くない。
というように。
そして、虐待環境を長いあいだ生き続けた自分はサバイバーだ。
と考えるのです。
適切かどうかわかりませんが、他にいい例えが思いつかないので「肉体」で例えます。
いまの自分に足がないとします。
たしかに虐待で足を失ってしまった。
その事実は変わりません。
しかし、義足をつけて、少しずつでもいいから歩きます。
もしかしたらぎこちないかもしれません。
でも、周囲の人と同じように歩けます。
自分にもできる。
その感覚は、自己評価を高めてくれます。
行動範囲が広がり、その人なりの「やりたいこと」をすると、周囲の人が評価してくれたりします。
さらに自己評価が高まります。
ある程度、自己評価が高まるとそこに魅力を感じる人々が集まるでしょう。
そこから恋人がみつかり、それは結婚相手になるかもしれません。
その時に、もしかしたら不安になるかもしれません。
「親からさえ愛されなかった自分が家族を持てるのだろうか、家族から愛されるのだろうか、いや、そもそも自分の親のように自分の子供さえ愛せないのではないか」
と。
でも、親とは違います。
その段階に至っていたら、少なくとも自分で自分のことを愛せるようになっているでしょう。
またパートナーや友人たちから愛情をうけとってもいるでしょう。自分で自分を愛するという心の力が、フィードバックされているのです。それらが「親の子供への愛情」とは違っていても、愛情は愛情です。
現実には、ぎこちないかもしれません。
でも、義足をつけていようと、つけていまいと、「歩いている」という事実にかわりはありません。
子供は、きっと「ぎこちなさ」なんか気にしないで、「歩いている」という事実ばかりを受けとってくれるでしょう。
子供が大人になって、すべてを知った時、むしろ「自分は守られていたんだ」と数十年の人生経験全体で感じとってくれることでしょう。
中には義足をつけて通常以上のスピードで歩けたり、走れたりする人もいます。
そこまでに至らなくとも十分です。
ぎこちなくて構わないのです。
大事なのは、「歩いている」という事実そのものなのですから。
義足という例えは、心理カウンセリングで得られた共感された感覚であったり、その他の場面で得られた理解やパートナー、友人からの愛情など自己評価を高めていくものです。
最初は弱々しく、頼りないものでもフィードバックを繰り返すことで強化されていくのです。
許さなくてはならない唯一の人物。
それは「自分」です。
もちろんクライアントの方の問題はさまざまですし、当着地点をどこに設定するかでも違いはあります。
ただその過程のひとつに「許す」という感情の作業が必要なことは多いものです。
しかし、この「許す」相手について誤解があるようにも思います。
自分を傷つけた相手、虐待した相手、自分をだました相手、加害者側を「許す」。
「許さなくては治らない」
「許さなくては問題は解決しない」
このように思っていたり、あるいはカウンセラーの中にはこれらの言葉を脅し文句のようにつかう人もいます。
しかし、加害者を許さなくては治らないし、心の問題は解決しないのでしょうか。
そんなことはありません。
たしかに「加害者を許す」というのは、それができるならば素晴らしいことです。
なぜならばそれは「自分の中でなんらかの方向性を決めることができて前向きに次のステージに進もうと決めた」証拠になるからです。
しかし、それはあくまでひとつのルートにすぎません。
「加害者を絶対に許さない」
そのルートもあるのです。
性犯罪の被害者が「加害者を絶対に許さない」と決心して、そこに「許したいけれど、許せない」という矛盾状態=ダブルバインド状態がなければ「世の中の性犯罪被害者に寄り添おう、よりよい社会をめざそう」と社会運動を行うなどその人なりの次のステージに向かえるようなルートです。
その場合、その被害者は少なくともある人物を「許して」います。
その人物とは誰でしょうか。
「自分自身」です。
被害にあった人は、無意識レベルで自分を責めます。
自分が弱かったからだ
自分に落ち度があったからだ
もっとうまくできたはずなのに
というように自分を責めます。
実際は、そんなことはありません。
実際は、ただただ加害者が悪辣だった、狡猾だった、加害者こそが精神的に弱かったのです。
もっとうめくできたのなら、すでにそうしていたはずです。
できなかったのです。
虐待を受けた人は、虐待を受けたのは「自分のせいだ」と無意識に感じ、考えます。
そして、何年、何十年と自分で自分を責めます。
「自分が許せない」のです。
もしも親が暴力をふるったならば、それは「親が精神的に未熟でコミュニケーション能力が低かったから」もしくは「感情のコントロールができない精神的未熟さがあったから」です。
親が子供に愛情を向けられないのは「子供が生意気だったり、わがままだったり、性格が悪かったから」などではありません。
親に「子供を愛する能力」がないからです。
もともと持っていても、ストレスなどから精神を病んでしまってその能力を発揮できなくなっていたり、親自身がその保護者から愛情を与えられなかったためにきちんと子供と関われない。あるいは先天的な問題を抱えていてできないケースもあるでしょう。
でも、幼い子供にそんなことはわかりません。
「自分のせい」
だと感じてしまいます。
それが大人になっても続くと、自己評価が極端に低くなってしまいます。
「親からさえ愛されなかった自分は価値がないダメな人間だ」などと無意識に考えてしまっていたりします。
そこは変えなくては楽になれません。
「自分を許す」のです。
たしかに自分は親から虐待されたけれど、それは親に問題があったからだ。自分は悪くない。
たしかに親は自分を愛してくれなかったけれど、それは親に子供を愛する能力が欠如していたからだ。自分は悪くない。
というように。
そして、虐待環境を長いあいだ生き続けた自分はサバイバーだ。
と考えるのです。
適切かどうかわかりませんが、他にいい例えが思いつかないので「肉体」で例えます。
いまの自分に足がないとします。
たしかに虐待で足を失ってしまった。
その事実は変わりません。
しかし、義足をつけて、少しずつでもいいから歩きます。
もしかしたらぎこちないかもしれません。
でも、周囲の人と同じように歩けます。
自分にもできる。
その感覚は、自己評価を高めてくれます。
行動範囲が広がり、その人なりの「やりたいこと」をすると、周囲の人が評価してくれたりします。
さらに自己評価が高まります。
ある程度、自己評価が高まるとそこに魅力を感じる人々が集まるでしょう。
そこから恋人がみつかり、それは結婚相手になるかもしれません。
その時に、もしかしたら不安になるかもしれません。
「親からさえ愛されなかった自分が家族を持てるのだろうか、家族から愛されるのだろうか、いや、そもそも自分の親のように自分の子供さえ愛せないのではないか」
と。
でも、親とは違います。
その段階に至っていたら、少なくとも自分で自分のことを愛せるようになっているでしょう。
またパートナーや友人たちから愛情をうけとってもいるでしょう。自分で自分を愛するという心の力が、フィードバックされているのです。それらが「親の子供への愛情」とは違っていても、愛情は愛情です。
現実には、ぎこちないかもしれません。
でも、義足をつけていようと、つけていまいと、「歩いている」という事実にかわりはありません。
子供は、きっと「ぎこちなさ」なんか気にしないで、「歩いている」という事実ばかりを受けとってくれるでしょう。
子供が大人になって、すべてを知った時、むしろ「自分は守られていたんだ」と数十年の人生経験全体で感じとってくれることでしょう。
中には義足をつけて通常以上のスピードで歩けたり、走れたりする人もいます。
そこまでに至らなくとも十分です。
ぎこちなくて構わないのです。
大事なのは、「歩いている」という事実そのものなのですから。
義足という例えは、心理カウンセリングで得られた共感された感覚であったり、その他の場面で得られた理解やパートナー、友人からの愛情など自己評価を高めていくものです。
最初は弱々しく、頼りないものでもフィードバックを繰り返すことで強化されていくのです。
許さなくてはならない唯一の人物。
それは「自分」です。