和佳子は見舞いに来た岡田にいきなり取り付いてそう言った。
「怒ってないよ。何言ってるの?」
岡田は微笑んで、妻の手を優しく握った。
「痛い!」
「え?」
決して強くは握らなかったのに…。
そこへ、主治医が入って来た。
「あ、先生、どうもお世話になってます」
「痛い!先生、准くんが…怖い」
「どうされました?」
主治医は和佳子に向き直った。
「いや…僕は何も…」
「許してくれないんです!准くんが…私が謝ってるのに…っ…ずっと怒って…」
「いや、ちょっと待って…」
岡田が苦笑すると、和佳子が岡田を指差し、主治医に言った。
「ほら…笑ってるでしょう?でもね、本当は怒ってるんです」
妻は嘘をついている罪人を訴えるようにして主治医に寄り添った。その目は真剣だ。
いったい、妻の目に自分はどう映っているのか…。本当は怒ってる?いったい何に対して?
「怒ってないよ」
なるべく落ち着いて対応しようと、岡田は妻を宥めるように言った。
「怒ってる!」
激しい口調で言い切られて、思わず怒ってるのはそっちじゃないかと言いたくなった。
が、それを抑えて目を閉じ、首を静かに横に振った。
「怒ってない」
すると突然、和佳子が叫んだ。
「怒ってるわよ!本当のこと言いなさいよ!あなた本当の気持ち隠してるんでしょ⁈わかってるのよ!」
「ハッ。本当の気持ちって…なんだよ…」
岡田は笑いながら、片手で額を覆った。
昼夜問わず走り回っての捜査。三宅が見つからないことのプレッシャー。それを押してなお、妻の見舞いに来ているのに、この仕打ちはなんだ?
「岡田さん…」
主治医が不安げに岡田を見た。
岡田はパッと手を離すと、
「本当の気持ちってなんだよっ⁈いいかげんにしてくれっ!もう、うんざりだっ!」
と叫んだ。
「岡田さんっ!」
病室のドアを開けて出て行くと、後ろから和佳子の笑い声が聞こえた。
「岡田さんっ!」
主治医が追いかけて来る。
「待ってください!落ち着いて!」
岡田は廊下で立ち止まった。
「先生…」
岡田は目を閉じてひとつ息を吐いた。しかし、感情的になるのを抑えられなかった。
「あれで快方に向かってるんですか?…もう僕は、どうすればいいかわからないっ…!もうずっと…妻の口から…っ…」
岡田は涙を堪えて、上を向いた。
「駿作の名前が…出て来ない」
声が震えた。
「岡田さん…」
岡田は上着のポケットから封筒を取り出した。
「駿作には、ママはたくさん忘れてしまう病気で、駿作のことも覚えてないけど、でもだんだん良くなってるって…言ってるんです。そしたら、駿作が、ママに思い出してもらうんだって、これを大阪から送って来たんです」
主治医は広げた手紙を覗き込んだ。
手紙には、家族3人の絵と、ママ♡しゅんさく♡パパという字が書かれていた。表にも、裏にも、しゅんさく、しゅんさく、しゅんさく…とたくさん自分の名前が書き込まれていた。
「見せたいけど…怖くて…見せられません。なんで…っ…」
「岡田さん…私がお預かりしていいですか?この手紙」
岡田は目頭を押さえて、主治医に手紙を渡した。
「…すみません」
「折を見て、私の方から和佳子さんに見せてみます」
「お願いします」
「…岡田さん、よかったらカウンセリングの予約取って帰りませんか?もう長いこと受けてないでしょう?」
「いえ、時間がありません」
「…そうですか…」
「先生も、ご存知でしょう?まだ、未解決の事件が…」
「…でも…」
「すみません。妻の見舞いに来るのが精一杯で…とても自分がカウンセリングを受ける時間はありません」
岡田は病院を出ると、上着のポケットからさっき主治医に渡したのと同じ、可愛らしい封筒を取り出した。
それには、子供の字で、「みさきせんせいへ」と書いてあった。
それを眺めて、またポケットにしまうと、足早に岬のアパートに向かった。
アパートの前には、引っ越し屋のトラックが止まっていた。
岬の部屋のポストに投函しようと階段を上がると、引っ越し業者の人が荷物を運んで下りてきた。
「すみません」
「あ…すみません」
岡田は両手を上げて脇へ避けて立ち止まり、すれ違うとまた階段を上がった。
「え?」
そこで気がついた。岬の部屋のドアが開けっぱなしになっている。荷物は岬の部屋から運び出されているようだった。
玄関先に岬が出てきた。
「すみません。あと、奥の部屋に少し。それで全部です」
引っ越し屋に話していた岬がこちらに気づいた。
「あ…」
「…どうも…」
ふたりはぎこちなく会釈を交わした。